父娘 前編
アーレインの執務は今日も長引いた。思い起こしてみれば、師であるラダンも似たような生活をしていた気がする。立場に応じた義務が積み重なるのは致し方無い。とはいえ、しばらく自分の娘の声さえ聞いていないのは、さすがにシエラへ負担をかけている自覚はあった。
物音に留意しながら階段を上がり、寝室を覗き込むのはもはや日課だ。今日も無事に生きていてよかったと安堵する。生まれてから数年、心配を忘れたことなどなかった。
寝息を立てる娘――ソフィーの見た目は本当にシエラそっくりで、彼女をそのまま子供の姿にしたかのよう。そう伝えれば本人は「わたしはあなた似だと思うけど」と嬉しそうに口にする。
強いて言えば髪はアーレインの血か、シエラの栗色より少しだけ暗いようにも見える。だが何より魂の色とでも言うか……悪魔だった頃の名残で感じるその空気が、あまりにも似ているのだ。
「よく眠っていた」
「さっきまでね、あなたを待っていようって頑張って起きていたんだけど」
後悔はしていない。あともう少し、もうしばらく。組織の改革が進み体制が整えば。
だが、時機が悪かった。何を言えども言い訳にしかならない。これから報せねばならない事を思うと尚更。
「また遠征で……今度も軍に帯同する」
「……最近多いわね」
どうやら魔獣を根絶やしにすべく、討伐と土地の浄化の両輪で進めようという動きが活発化しているらしい。
魔素を整え試料を採取するのは魔法師の役目。中心となっているのはあのヴェルレッティだと聞くが、人手を要するため《白の鷲》にも声がかかっている。試料の解析はともかく、現場へ向かうのはやはり危険が伴う任務であるから、適任者はそう多くもない。
「すまない」
「謝ることなんてないでしょう? 立派なお仕事よ」
いっそ文句を言われる方が楽だとすら思う。
シエラはいつもアーレインに笑顔を向けるから、どうすればいいのかわからない。どれほどの知識を持っていようとも『家族』と接する方法など知らなかった。
「発つのは三日後だ。……その日は、お前の」
「気にしないで」
口を噤む。シエラは「じゃあ」と何か思い付いた素振りで両手を打ち合わせた。続きを遮るかのように。
「おもしろいお土産話を聞かせて? あと……戻ったら少しだけ、お休みを取ったらどうかしら」
「ああ、まあ……」
「あなた自分で気付いてないでしょうけど、すっごく疲れた顔してるから心配なの。それじゃソフィーも怖がっちゃうわ」
「……」
敵わない、とアーレインは口元に小さな笑みを載せ嘆息した。どこまでこの娘は。
もちろん、傲慢で利己的な素養もあるのは知っている。生き物なのだから当然のこと。しかし――当人が意識してかはともかく――強くあろうとする心と素直に願う愛らしさこそ、かつての彼が惹かれた少女の本質だ。
「……考えておこう。お前も、もう今日は休め。片付けは俺がしておく」
出発当日の朝。玄関先、正装の白外套に身を包んだ魔法師は妻を見下ろし言葉を探す。彼女は毎日こうして見送りに出てきてはいるが、今日は何か特別な言葉をやらねばならない気がする。
「悪いな」
「ううん、あなたが元気で帰るならそれで」
結局、最初に伝えることができたのは謝罪で。己の発言に納得できないまま顔をしかめていると。
「パパなんてきらい!」
家の奥からソフィーが覗いていた。久し振りに見た瞳はラベンダー色で、やはり似ていると改めて思う。
嗜めるようにシエラが振り向くも、幼い娘は全く近寄って来ようともしない。愛らしい唇を懸命に引き結んでいる。
「そんなこと言わないの」
「だって! 今日はママのお誕生日なのに!」
口が達者なところも母親似なのだろう。
家を空けがちとはいえ、世話をしてこなかったわけでもない。しかし言葉を覚えてからというもの、アーレインはソフィーとまともに接することができていなかった。
ただでさえ口下手で淡白な物言いしかできない自覚はある。加えて、小さな命はまるで壊れ物のようで、どうしても戸惑いが先んじてしまうのだ。少女が母親に懐くのは当然のことだった。
走って再び奥へと引っ込んでしまってから、二人で顔を見合わせる。
「後でちゃんと言っておくわ」
「いや、ソフィーが正しい。……優しい子に育った。お前のお陰だろうな」
シエラは首を振る。
「きっとあなたの血よ」
何かを。外に出ればどんな事故が待ち受けるかわからない。特別な日に、どうしても伝えなければならないと思った。絶望的な別離が有り得ることをよく知っているから。
わずかに背を曲げ、愛しい娘の頭を胸に抱き込む。
「……お前が生まれてきたことに感謝している。何も与えてやれないが……これからも健やかに」
「こちらこそ……命をくれてありがとう。どうか危ない目に遇いませんように。それが何よりの贈り物だわ」
良くも悪くも、幼子には見られていない。シエラは祈りを込めて抱き締め返す。
「いってらっしゃい、アーレイン」
――そうして遠征から帰ったのは昨日のことだ。休養日ともあれば、早く床に就くのはいつも面倒を掛けているシエラとて同様。疲れが溜まっていたか、早々に眠りに落ちた彼女を置き。階下へ降りてひとり、包帯を替える。
上腕は巻きにくく少し苦戦した。治癒魔法を使うほどの怪我ではないが、見せてこれ以上の心配をかけたくはなかった。
にもかかわらず、少し離れた場所から注がれ続ける視線。気配にはとうに気付いていたが、何と声を掛ければいいのやら。
「パパ……?」
幼さを孕む、か細い声。微かな緊張を悟られないよう返す。
「……起こしたか?」
「ううん。……あの、んと……痛く、ないの?」
「ああ」
「……パパ、あのね? この前ね、きらいって言って、その……ごめんなさい」
「……気にしなくていい」
「……怒る?」
「いや」
まったく、この子は本当にシエラに似ている。
顔すら向けていないというのに、徐々に気配は近付いてくる。




