新しい命
転移の気配だ。愛しい人が帰ってくるこの瞬間は、魔素を感じ取ることのできる体質で良かったと思う。日々の繰り返しでこれだけは察知できるようになった、気がする。
玄関へと向かえば案の定。灯りが点いていたからだろう、静かに扉を開けた青年は、出迎えの姿にも驚いた素振りを見せなかった。
「おかえりなさい」
「先に休めと言っているだろう」
「明日はお店もお休みだから大丈夫よ」
美しい魔法師は渋面を作りかけるも、シエラが笑顔で手を差し出せば、それ以上は何も言わずに外套を寄越す。
食事を共にできるのは嬉しいことだ。ただ今日は少し違う。他愛ない会話をしながら、どうしても話したいことをいつ切り出すべきかと迷う。悪い報せではないがそれはシエラにとっての話。彼は……喜んでくれるだろうか。
「それで、明日ちょっとお医者様のところに行こうと思っているのだけど」
「具合でも悪いのか」
きちんと口の中のものを飲み下してから、ちらりと視線を寄越す。相変わらず仕草の端々には品の良さが滲み出る。
「その……もしかしたら、あの」
口ごもりながら。
「で、できちゃったかもしれなくて……」
「出来た?」
手を止め、顔を上げる。不思議そうに青鈍の髪を揺らすも、シエラがお腹を押さえて顔を熱くしたところを見、すぐさま察したに違いない。珍しく両の手からカトラリーを取り落とした。
「……そうか」
思っていたほどの反応はない……と思いきや。
表情一つ変えずに食事を再開したが、よく見ればテーブルの上、何もないところで肉を切る素振りをしている。
「アーレイン?」
「……っ」
奇行を指摘すれば、嘆息。俯くシエラの耳に改めて食器を置く音が届く。まともに目を合わせられるはずもない。
「……」
「……」
「……その……俺の子か」
「あっ当たり前じゃない!」
長い長い沈黙を経て、ようやく発せられた言葉にいささか傷ついた心持ちで顔を上げると。
「命を……」
そこには片手で口許を覆い、いつになく赤面した彼の姿。自らを奪うばかりと評していた元悪魔からは、拒む意思は微塵も感じられなかった。こちらまで恥ずかしくなりつつも急に愛おしくもなって。
与えるだけではない、もはや生み出したのだ。胸いっぱいの感情を堪えながら頷く。
「わたしたち、親になったのよ」
医者に告げられたのは違いなく祝福で。後日、自らの口でと二人は揃ってシエラの実家に立ち寄った。
ローズに報告すれば、彼女は感極まって号泣する始末。両親にも祝いと励ましの言葉をもらう。
「しばらく実家へ戻ったらどうだ? あそこなら家事は女中がやるだろう」
帰宅後、外套を脱ぐより先にアーレインが口にした。シエラの家族へ報告した時にずっと渋い顔をしていたのは単なる照れ隠しだろう。そうでなければ、今こうして体を気遣うことなどない。
とうに成人してはいるもののローズにも子供がいる。経験者として事情は理解してくれるはずだった。
「あなたはどうするの?」
「宿舎がある」
利用者は全体の半々といったところらしいが、王都には魔法師に割り当てられた居住区がある。大魔法師ラダンと居を共にしていた経験もあり、彼自身の生活能力はそれなりにあるのだから困ることもない。不安を感じているのはシエラの側だけのようだった。
「家に一人ではいざという時にどうする」
「リリィちゃんがいるわ」
「俺は出産というものには詳しくない。当然リリィも」
「でも、お店が」
食い下がるシエラに、魔法師は微かながら機嫌を損ねたように見えた。
「もう店も休め。体に障る」
「楽しみにしてくれているお客様もいるし……」
せっかく軌道にのってきたところなのだ。客のほとんどはよく見知った近所の住民達とはいえ、ここで長期間休業するのは少し怖い。
「であれば俺が立つか?」
「え」
「厨房に」
先日アーレインの同僚達が押し掛けた際にも、人手が足りず彼に手伝ってもらったのだ。おかげで、大魔法師候補が鍋を振る姿が見られると、また客を引き付ける話題にもなるというおまけ付きだったのだが。
「あなたが料理も出来るのは知っているけど……だ、だって魔法師のお仕事はどうするの?」
「そんなものどうとでもなる」
「そんなものって……」
苛立ったように大きなため息を吐き出す。見下ろしてくる澄んだ金色が真っ直ぐにシエラを射貫いた。
「いいか。俺が守るべきはお前とお前の腹の子だ。大衆ではない」
「いくら何でもその言い方は」
「命を賭して世界を救えばいいとでも思っているのか」
「それは……」
思わず口を噤む。違う、本当に言いたいのはそういうことではないのに。
顔を伏せれば、まだあまり目立たない腹が視界に入る。
「……わたしにとっても、一番大切なのは家族よ。他の誰かのために命を粗末にして欲しいわけじゃない」
いつもどんな気持ちで帰りを待っていると思っているのか。少女の、少女だけの悪魔だったはずなのに。
「だけど、わたし達だけが幸せならいいとも思わない……」
呑み込む。偽善だと他人は言うかもしれない。だが、シエラが愛した人々はそうして生きる様を見せてくれたのだ。自分だってその思いを繋げていきたいと思うことが、馬鹿げた綺麗事と片付けられて堪るものか。
「裏切られても報われなくても……それって、自分が他の人を騙したり傷つけたりしていい理由にはならないと思うわ」
「ジジイも騎士も似たようなことを言う。どいつもこいつも買い被り過ぎだ、俺は悪魔だぞ?」
「今はわたしの夫でこの子の父親よ」
「わかっている」
とうとう青年は珍しく声を荒らげた。怒気の籠った言葉の矛先はシエラに向いているのではない。自分勝手なわがままを咎める意図などなかった。そうして不意に溢れた心は愛に満ちていて。
「……不公平だ」
はっと見上げると乱暴に頭を掻く姿。普段は冷静な彼が感情を昂らせているのは、新しい命のために他ならない。
「あれほど望んでいたのに力など持たねば良かったと思いさえする。お前が命懸けで事を成す時に、何をしてやることもできない」
「アーレイン……」
卑怯かもしれない。愛する人が傷付いて嬉しいはずがないのだ。
「わたし、魔法師様のお仕事をよく知らないから……随分と勝手なことを言っているんだと思うわ、それでも……この子に幸せな世界を見せてあげたいの」
「下級魔法師の指導と魔獣討伐で世界が変わるとでも?」
「すぐには無理よ。でも、何事もどこかで誰かの役に立っていて、巡り廻って……色んなことが変わっていくんじゃないかしら」
「……」
「少なくともわたしはそう思って食堂のお仕事をしているわ」
再び俯く。長い長い沈黙が下り、やがて。
「……立ってする話でもなかったな」
言われてみればその通りだ。帰って、そのまま玄関口で白熱してしまったから。
体に辛いところは全くないが、初めての口論を子供に聞かせてしまったことだけは少し後悔した。いつもはこんなことないのよ、と心の中で言い訳をする。
「大きな声を出して悪かった」
謝罪は彼の方が早い。どうしたって大人びている。上着を脱ぎ部屋へ入る背に慌てて続く。
「ううん、わたしこそ……! あの、偉そうにごめんなさい。大変なところを見せないようにしていることくらい、わかっているつもりだったのに……」
嘆息。やや投げ遣りに食卓の椅子へ座り、隣を目線で促してくる。大人しく従えば宝石のような瞳が戸惑いに揺れた。
「シエラ。俺とて……お前の傍を離れたくない。だが」
慎重に選ばれる言葉に耳を傾ける。彼はいつの間にか、命の宿る腹をじっと見つめていた。
「失望させたくないとも思う。その、いつか子が俺の姿を見た時にも」
「……」
「……永遠にも等しい日々には未来を思う間などなかった」
ぽつりと。
「わからないんだ。この中に……別の命が在ることが」
手を伸ばしかけ、やめる。
困惑……なのだろう。悪魔は己の利のみを追求する生き物だ。きっと子孫を残すこともなければ、社会的な関わりに振り回されることもない。
ヒトとして生きるために彼が選んだ道は。
「……ジジイの後継というあの話。少し考えてやる」
「アーレイン……」
ほら、と語りかける。あなたのお父さんはとっても素敵なのよ――
「ありがとう。あなたのこと、世界でいちばん誇らしく思う」
泣き出したいほどの幸福を感じる。身体中を巡り、どうか、お腹の子にもこの気持ちが伝わりますように。
一度は引っ込められた片手をとり、目を丸くするのに構わずお腹に触れさせる。彼はしばらくその姿勢のまま、何事かをじっと考えているようだった。
「わがままを言ってごめんなさい。あなたの言う通り、お店はしばらくお休みにする。それで実家に居ることにするわ」
「そうしてくれ」
再度謝れば安堵の息が返される。
「でもね? あの……」
「まだ何か」
「たっ、たまには会いに来てくれる?」
何故だか顔をしかめた魔法師は、リリィにするかのような雑さでシエラの頭を撫でた。ずっと優しく加減はされていたが、その声はかなり不服そうだ。
「まさか、断るとでも思ったのか?」
やがて生まれた女の子は『ソフィー』と名付けられた。少なくともアーレインにとっては喜ばしいことに、何の変哲もない普通の人間だ。
赤子はすくすくと育ち、そして――順当に初めての反抗期を迎えることとなる。




