魔法師と農夫
皿やグラスを端に退け、広げた使い古しの羊皮紙を囲んでいるのは何人もの農夫とひとりの魔法師。字の読み書きが得意でない者も多かったから、描かれているのはほぼ記号や簡易な絵ばかりだ。
「そのくらいの面積ならこの辺りに低木を植えるといい」
「何でもいいのか?」
「構わない。まあ、できれば赤い実をつけるものがいいだろう。サンザシのような」
模しているのは彼らの農地。魔法師がさらさらと描き足せば、周囲は食い入るようにペンの行く先を追う。
「それでここの枝は陽の光が入るように切る。そうすれば、いくらか魔素の流れも整うはずだ」
「なるほど、明日早速やってみるか!」
魔素は土地の生命力と関連があると考えられている。だからそれを整えることで、植物の生育が促進されるとも信じられていた。
ある種のまじないのようなものではあるが、事実として大魔法師ラダンの畑では多くの作物が育ち、つまりその方法を弟子である彼もよく学んでいた。優れた魔法師は魔素を感じ取る能力も抜きん出ているわけで、足を運ばなくともある程度を経験から判断することは可能だ。
「なんでまた……」
盛り上がる彼らを余所にアーレインは嘆息する。シエラの父の頼みと持ちかけられ、手隙だからと足を運んでみれば、農夫達の悩み相談に乗る羽目になっているこの状況。こんな騒がしい場には二度と来るかと思っていたところが、流れで体よくラダンに押し付けられた形になる。近隣住民の話を聞くのも魔法師の務めの一つ、らしい。
本来なら店の側が外でやるようお願いするところだろうが、今日この食堂は農夫達の貸切となっている。
「あとは虫除けの香りの調合法と、体の鍛え方を教えてくれ!」
「農夫が鍛える必要はあるのか?」
あのやけに逞しい大魔法師の影響なのかと眉根を寄せる。拒否するつもりもないが暑苦しいことに違いはない。
大柄な男達と並べばやや細身のアーレインだが、力比べで負けたことはなかった。魔法を利用していることを差し引いても、未だに魔獣討伐に同行できる程度の身体能力は備えている。悪魔の序列は軍隊の形式をとっていたから、早い話が『元軍人』なのだ。
技能に関する話であれば、多少は煩わしく思えど返答に窮することはない。
「そういや魔法師様はシエラちゃんとは結婚してるんだったか」
だから気乗りしなかったのだ。
ちょうど水を口にしたところで話し掛けられ、軽く噎せながら首を振る。
「だってシエラちゃんは左手に……」
「待つ約束だ。シエラが、俺の指輪を作れるようになるまで」
何となく掌に視線を落とす。ここに約束の証を着けるのだと少女は張り切って魔法を学んだ。
書面で契約を交わすこともなく、もはや誰に使役されることもない。彼女と共に居るのは自身の意思に他ならなかった。
「……あれは言い出したら聞かない。このまえ何でも同じだろうと言ったら、しばらく口を利かなくなった」
「それはさすがに兄ちゃんが悪い……」
肩に手を置かれる。
実際、魔法で金属を輪の形状にはもう出来るようになっているのだ。『シエラが作ったものなら』何でも受け入れる、と言いたかったのだが、どうも言葉が足りなかったらしい。すっかり拗ねてしまった少女の機嫌を直させるのには随分と苦労した。遠慮をしなくなっていく様はどちらかといえば好ましく、くすぐったいような奇妙な心地でもある。
「そういえば、お前達が着けていないのは? 結婚しているんじゃないのか」
「農作業中に落とさないためさ」
「失くしたら何を言われるかわかったもんじゃない」
「そんなものか」、と呟く。慣習に倣いはしたものの本質的なことはまだわからない。悪魔は契約を絶対に違えないのだから、破られることを前提とした枷など本来は忌避すべきもの。
だがああも拘るのなら、少なくとも彼女にとっては大切なのだろう。であれば即ち、アーレインにとっても些末事ではないのだ。
「あんまり恥ずかしいこと言わないでね?」
料理を運んできた件の看板娘は、釘を刺しつつも、農夫達がいそいそとテーブル上を片付けるのを待っている。大皿には豪快に焼いた肉。香ばしい匂いに歓声が上がる。器用に皿を載せた手の指輪からアーレインはそっと視線を外した……まだ慣れない。
「結婚指輪が手作りなんだって?」
「シエラちゃん凝り性だもんなぁ」
「もっもうちょっとで出来るから!」
それでも、冷やかしに動揺する姿を見ればいくらか平静を取り戻すことができる。珍しく取り落としかけた酒瓶を素早く受け止めると、「ありがとう」と恥じる小声が返される。
並べられる料理はどれも山盛りだ。まだ厨房からは忙しない音が聞こえるし、農夫達の胃袋はこの程度では満たされないのだろう。
肉体労働をしていれば腹が減る。ヒトになり初めて知った『飢え』の感覚は、同時に料理に対する感情も大きく変化させた。昔も彩りや香り程度は気にしていたが要は……旨そうだと、こうも思うことはなかった。
「最近はあのおチビちゃんを見ないな」
「レビのことかしら?」
辺りを見回す農夫の言う通り、少年が手伝いをしている姿は今宵はない。
「あの子、この頃は孤児院に通っているみたい。なんでも、やりたいことが見つかったんだって」
彼女が弟のように可愛がっていた居候の少年は、ずっと写本師を目指して習練していた。それでアーレインもよく装飾本を貸してやっていたが、そういえば近頃は姿を見ない。
果たして孤児院で写本の役目があるのかはわからなかったが、あの有り余った元気があればどこでも問題なくやっていけるだろうと思う。
「シエラ」
立ち去ろうとするのを呼び寄せ。
「髪に埃が」
「あ、ありがとう」
腕を伸ばして取ってやれば普段の快活さが嘘のように頬を染める。何故かもじもじとその場から動こうとしない少女は、意を決したように銀盆を抱え直した。
「あの、まだ居る?」
「帰った方がいいなら帰るが」
「あっ、そうじゃなくて……! 後でちょっとでも話せたら嬉しいなって……お店を閉めた後だと遅くなってしまうけど」
そんなことかと思う。己の言葉が誰かの喜びになる日が来るとは、悪魔だった頃には露ほども思わなかった。
「構わない。……何か手伝うか」
「ありがとう、でもお客様は座ってて?」
「了解した。待っていよう」
足取り軽く去っていく姿を見送る。小柄な体でよく動き回ることだ。
「……若いっていいよなあ」
周囲のしみじみとした呟き。ややもすれば農夫達には哀愁さえ見て取ることができる。やはり、ニンゲンというのはよくわからない。
「ま、今夜は魔法師様の結婚祝いだな!」
「次回はシエラちゃん込みでやろう」
「今日は第一回ってことで!」
厳密にはまだ……と言いかけ、やめる。似たようなものだ。どのみちかこつけて騒ぎたいだけだとは理解していた。
注がれた葡萄酒を大人しく受け取る。対価とは覚悟の証明。もはや悪魔ではないにしても、少女の人生を預かった身としてとっくに腹は括っている。……口に出さなければ、またあの大魔法師にうるさく言われるかもしれないが。
「あ、そういやぁ兄ちゃん。この店から西に行ったところにある丘には行ったことあるか?」
酒宴の最中、一人の農夫から出し抜けに問われた。近辺にあまり小高い土地はないから指す場所はすぐにわかったが、アーレインは別にこの町の住民でもないのだ。黙って首を振ると、その農夫は「そうか」と訝しげな顔。
「何かあるのか」
「いやな、そこの下流にある農地の調子が軒並み悪いらしくてな。魔法師様なら何か知らねえかと思ってさ」
「下流……川が流れてるのか?」
「ああ、水を引いてる」
暫し考えるも心当たりは当然ない。水質にも魔素が絡むことがあるのは知っている。そして……ニンゲンと付き合うには、ここで会話を終わらせてはならないということも。
「……明日、少し見てきてやる」
「お、助かるぜ!」
「本来なら正式に依頼をしろと言いたいところだが」
肩を組まれ、大きな息を吐く。別に金銭を望んでなどいないが、黙って従うのも少し癪である。
まあ何のことはない、近辺の農作物が不味くなれば、料理をするにも困るだろうと思っただけなのだ。