霧
「スヒ, その柵を越えては行けないよ. 先の森の青い霧に呑まれたら二度と帰って来れなくなるよ.」
祖母がスヒと散歩をした時, いつも言っていた言葉だ.
両親を早くに亡くしたスヒは祖母と二人で森の中の小さな小屋に暮らしていた.
陽が登れば農家として働き, 夜が来れば家に帰って畑で育てた野菜を食べ, 静かに眠り朝を待つ. そうやって暮らしていた.
ある日, スヒがいつものように目を覚ますと, 何か違和感があった.
いつもなら台所から聞こえてくる水の音, 火の音, 切れる野菜の音, 祖母の鼻歌, 全てがこの日の朝には無かったのである.
スヒは布団から飛び起きて台所へ行くと, 祖母が倒れていた.
幸い, スヒの看病のおかげで命を落とすことは免れたが, 意識はまだ薄く, 畑で育てていた薬草ではどうにもならなかった.
どうにかしなければと祖母の書斎にある本を読み漁ると, 様々な学問の本やら, 物語本やら, スヒの知らない文字で書かれた植物の写真が載っている本やら, 沢山の本があった.
その中に一冊, 美しい瑠璃色の表紙の本があった.
『-近代という海- 著:ケゼグ・シュロイヤマン』
思わず手に取り読み進めると, スヒの知らない世界について書かれていた.
そして祖母に似た様子の人に効く薬のことも書かれていた.
もしや, あの霧の向こうの世界ではないか, あの霧の向こうに行けば祖母を助けられるのではないか. と思い立ち, スヒは走り出した.
森の木々の間を抜けて柵の前に立つと, つい先程まで見えていた森が濃紺の霧に包まれた.
祖母が言っていた霧を目の前にして, スヒの体は震えていた.
祖母を助けなくては.
と意を決し柵を越えて霧の奥へ奥へと進んでいった.
スヒが息を切らした頃, 霧が晴れた.
すると目の前には煌々と目を刺す光る文字や石でできた驚くほど高い建物がそびえ, 数えることも諦めさせるほどの人々で溢れていた.
どこへ行けば薬が手に入るのかと右往左往している時, ガラスに映った自分を見てスヒは着ていた服が変わっている事に気がついた.
膝上いくばかりかの丈の短いスカート, ベージュのセーター, 紺のブレザーに可愛らしいリボン.
これは現実かと疑い, 身体を抓ったり服をはたいたりしている時, ポケットに少しの重みを感じ, 恐る恐る手を入れた.
紙のような手触りをする何かがあり, 手を引き抜いて見てみようとしたその途端, スヒの頭にその紙の使い方や数多の娯楽や欲望が飛び込んだ.
ポケットの中身は1枚の紙幣だった.
スヒは娯楽への欲望を必死に抑えて, その紙幣をつかって薬を買った.
あとは帰るだけ. 紙幣ももう無い. 帰ればまた幸せに暮らせる.
そう言い聞かせて霧のあった場所へ走る途中, 寒さからポケットへ手を入れると, またあの紙が入っていた.
スヒは驚いたと同時に, 喜んだ.
紙幣を使えば使う程, 泡のように紙幣が沸いてきた.
スヒは欲望に溺れた.
巨額の富.
豪華な食事.
絢爛なドレス.
高価なアクセサリー.
人々の視線.
言い寄ってくる男達.
夜の街.
暗闇.
もはやスヒは祖母の事など二の次となっていた.
朝になったら森へ帰ろう. 夜の間だけ楽しんでしまおう.
そう言い訳をして街を歩き, 好みの男を見つけては抱かれた.
しかし, その街の夜はやけに長かった.
スヒがどれだけ食事をしようと男と寝ようと, 朝は来なかった.
太陽は登らず月も見えない, 空では虹色のカーテンが揺らめいている.
そのとき街は極夜だった.
長い長い夜が明けるころ, スヒはもう霧の事すら覚えてはいなかった.
森では老婆が死んでいた.