第二章 久遠寺夕凪
七月一〇日、午後五時。
賑わう空港のロビーに、一人の青年が足を落ちつけた。長らく続いた空の旅を終え、久しぶりに味わう大地の感覚。飛んでいなければ揺れてもいない、実に安定した足場だ。
青年は肺に溜まった空気を吐き出し、すぐさま携帯電話を耳に当てる。一昔――いや二、三昔は前の機種だ。ただ古いだけではなく年季を表す証として、表面には細かな傷が無数にあった。直径五ミリメートルほどの球体、白金の色を放つ宝石のような鉱石が、ストラップとしてぶら下がっている。
珠を収めた台座の銀がくすんで見えるほどに輝く、より上質な白金色。
その美しさゆえに、いくらか視線を浴びる。しかし青年は微塵も気にするそぶりも見せず、歩きながら陽気に話を始めた。
「くっはぁー、帰ってきたな。久しぶりの日本、我が故郷」
『お疲れさま。これからの予定は決まっているのかい?』
「今日は食糧を仕入れて帰るだけ。疲れているから、空港内のコンビニでちょちょいと」
とても疲弊しているようには見えないが、そういうことらしい。
『明日の朝食分も買っておいた方が――っと、そう言えば電気は通っているのかな』
「…………へへへっ。でも一晩くらい大丈夫だろ」
『この真夏日では危ないと思うよ』
冷房の利いた空港内では感じられないが、この夕暮れ時でさえ外は相当な気温だ。そのうえ湿気もある。
「……発酵するかもな」
『それは腐ると言うのでは?』
「しかたない、明日も朝はコンビニに行くよ」
出口の前で立ち止まり、スーツケースを傍らに大きく伸びをした。
「さーって、と」
歌うように言葉を発し、リズムよく外へ足を踏み出した。
「これから忙しくなりそうだな」
青年は携帯電話をポケットにつっこみ、茜色の世界の中を悠々と歩いて行った。
翌日の朝。
小鳥のさえずりには辛くも耐えたが、通学中の小学生による若々しく快活な騒ぎ声には抗う術もなく、久遠寺夕凪は目を覚ました。睡眠充分元気溌剌とはいかないまでも、頭や瞼が重いほどの眠気は残っていない。
前日からコーヒーを駆使して調整した努力が実を結び、どうやら時差に振り回される心配はなさそうだ。この青年、のびのびと生きているように見えて、自分に厳しい時もある。単に図太い、ということもあるだろうが。
ふわふわの白い寝具に泣く泣く別れを告げ、遮光カーテンを開け放つ。
初夏の朝日、眩しいばかりの陽光が目に飛び込んできて、夕凪は思わず目を瞑る。
「……んん~っ」
レースカーテンのかかった窓を開け、まだ硬い体をほぐしつつ新鮮な空気を浴びる。
爽やかな朝だ。
道行く学生、サラリーマン、ゴミ袋を持った主婦たち。皆が穏やかな顔をしている。
「――っし」
夕凪は両手で頬を叩き、眠気を完全に追い払った。
まずは鼻歌交じりに冷水のシャワーを浴び、睡眠時にかいた汗を流す。ガスも電気も止まっており、唯一水道だけが働いているのだ。これだけは留守中にも料金を払い続けていた。真夏の冷水シャワーは、若い身体に心地良い。
鏡に映る姿は、出国前よりも日に焼けて見える。向こうでも悟っていたことだが、焼ける前と同じ環境で比べてみると差は一目瞭然だった。
とはいえ、元が白すぎた。生まれつき特別に肌が白いわけではないが、以前日光に当たらない生活をしていたためだ。
色素がマイナスとプラス、これで平均的な日本人に戻ったくらいだ。
肌の変色に伸びた髪も合わさって、以前とはまるで別人の様。加えて表情にも変化があったものだから、自分でも鏡の中の姿に少しばかり驚く。真っ直ぐな瞳だけは以前と変わらずそこに在り、自身が見間違うことはないが、関係が希薄だった者ならばどうだろう。
サッパリしたところで浴室を後にし、脱衣所で服を着て歯を磨く。これで出かける準備は完了だ。
靴を履き、玄関の扉を開ける。
晴天――朝から憎たらしいくらいの熱気だ。
「あっつ……」
思わず文句が出る。
夕凪がカギをかけるのは、出てきたばかりの小奇麗な一軒家だ。西洋風の家屋で、庭付きの二階建て。テラスまである立派な家だ。
ここに夕凪は一人で住んでいる。まだ二〇歳の青年にしては、ずいぶんと贅沢な邸宅だ。それでも恐らく、この境遇を羨む者は少ないだろう。
若者が広い一軒家に一人で住むのには、それなりの訳がある。無論、ただの金持ちである可能性もあるが、この夕凪には他の理由もある。
だがしかし、そんなことはさておかれ、夕凪は元気に歩き始める。活発なのは足取りだけでなく、腹の虫も同様だ。急ぎ前へ前へと出される足が、熱されたアスファルトを踏んでいく。
額にうっすらと汗を浮かべ、進むは街路樹が並ぶ歩道の上。
一つ目の交差点を直進し、次も直進、その次を右折。それからまた真っ直ぐ歩いていく、という具合で、のどかな住宅街を慣れたように闊歩する。
最後に左折、目当てのコンビニに到着――、
「……れ?」
――したはずだった。
が、そこにあったのは全国各地にあるコンビニなどではなく、真新しいマンション。
潰れたらしい。
潰れてしまってはしかたない。どうしようもない。行きつけがなくなったところで相手はコンビニだ、顔馴染みの店員がいるわけでもなし、不便には思うが悲しむことはない。
夕凪は古い記憶を掘り起こし、他のコンビニへ向かった。
「…………」
が、結果はまたしても残念なものとなった。
先の店から歩くこと一〇分、もう一つのコンビニには大変な人だかりができていた。人垣は主に主婦で構成されており、弁当目的だろう半袖シャツのサラリーマンやだらしなく制服を着た高校生もちらほらと見受けられる。
「おいおいマジかよ……」
何事かと人を掻き分け進んでみれば、無残に大破した建物の跡。交通事故ですら生易しいと思える崩壊っぷりだ。なにせ、残骸がクレーターの底にあるのだから。
今度は別の意味で潰れていたのだった。
色々と憶測で語り合う住民たちだが、夕凪は違う。落胆はしても驚きはせず、その場を離れるのに何の思いもない。
理由その一、これくらいは見慣れた光景だ。
理由その二、まだ朝食を食べていない。
どうせ警察が来るまで散らない人垣をもう一度くぐりぬけて離れる。
厄日なのか何なのか、空はこんなにも晴れ渡っているというのに、どうもツイていない。夕凪は方針を変え、朝から開いている喫茶店を探して入ることにした。
木造の落ち着いた建物。扉を押すとカロンカロン、と鐘の音が響く。
崩壊したコンビニの近場、適当に選んだ喫茶「グリーンヒル」。二〇人くらいが入れる程度の広さで、優雅な古典音楽と優しい照明が店内を飾っている。冷房が程良く利いていて、まるで生き返るようだ。
客は二人、どちらも新聞を広げた老人だ。いや――入口からは観葉植物が邪魔でよく見えないが、もう一人、黒い頭髪がかすかに見える。
「いらっしゃいませーっ」
エプロン姿の女性が出迎える。
「おひとり様ですか?」
「そうなりますかね」
「ではお好きな席にお掛けください」
夕凪は、特にこだわりがなさそうに手近な椅子を選んで座る。まるで吸い込まれるような動きだ。勢いそのままにラミネート加工が施されたメニューを手に取って流し見る。
「ご注文はお決まりですか?」
一〇秒ほどでメニューを見終えて目を離した夕凪のところに、水とおしぼり、営業スマイルを引っ提げた店員がやってきた。
「えっと……オムライスとブレンドコーヒー、あと食後にイチゴパフェね」
「はい。確認させていただきます。オムライスとブレンドコーヒー、食後にイチゴパフェがお一つずつ――以上でよろしいでしょうか」
「はい」
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
去り行く店員を傍目に、夕凪は水が入ったコップを口に運んだ。外を歩いて発熱していた内臓がキュッと締まる。飲み過ぎれば腹を下しそうなくらい冷たい水だった。それと、ほのかなレモンの香り。
料理が届くまで、暇な時間ができる。
「ふんふーん、ふっふふーん」
古典音楽に合わせて鼻歌を奏でながら、店に置いてあった新聞を持ってくる。ただでさえ忙しく巡る世の中だ。ニュースなど毎日チェックしても足りないほどなのに、夕凪は長い海外生活を終えて帰国したばかり。先のコンビニ閉店の例もある、ちょっとした浦島太郎気分を味わえるくらいには世間から置いてけぼりを食らっているだろう。
目に映るのは人間業とは思えない、いや、明らかに人間業ではない事件の数々だった。つまるところ先の――二件目のコンビニのようなものだ。建物の大破や怪異な失踪事件などは全国各地で起こっており、もちろん犠牲者も出ている。
おかげで、と言っていいものか、皮肉なことに普通の犯罪は減っているらしい。謎の襲撃は現在、無差別とされているため、邪な人間たちも犯罪どころではないようだ。もっとも、中には自棄をおこして犯行に及ぶ者もいるため、あくまで減少としか言えないのだが。
まるで敵の姿が見えない犯罪に、国のお偉いさん方も頭を悩ませているようだ。
「お待たせしました」
「おおっ、美味しそうじゃないですか」
アメフトボールのような形、鮮やかな黄色が美しい。赤いケチャップは波模様を描き、添えられたパセリのニクい演出、嗅覚だけではなく視覚からも食欲を誘っている。
コーヒーには湯気が立ち上り、角砂糖とミルクが添えられている。
「美味しそう、じゃなくて美味しいんです。うちは味が自慢ですから」
店員は笑顔で応える。こういう触れ合いがあるのは、個人経営の喫茶店で多く見られる美点と言えるだろう。マニュアル通りに作業を淡々とこなすだけが彼女の仕事ではない。
「それは楽しみだ」
夕凪は新聞を折り畳んで脇に置く。
「あ、新聞を読んでいたんですか……事件、減りませんね」
「らしいですね。まったく、物騒なもんですよ」
女性店員の顔が暗くなる。
「いつまでこんな恐ろしいことが続くんでしょうか」
反対に、夕凪はフッと笑った。
「さあ。でも、これから減っていくと思いますよ」
「え? どうして……」
「あーもう我慢できないっ。いただきます!」
話を逸らすように、夕凪は食事にかぶりついた。
実に美味だった。
黄金の卵でできた皮はふわっとしていて、中身よりもやや薄味のほどよいバランス。口に運ぶと新鮮な卵の香りが鼻いっぱいに広がる。
そして中身のチキンライス。やや濃い味付けだが、それが卵と合わさることで絶妙な具合まで調整される。数種類のハーブやスパイスが使われ、皿一枚を空にしても飽きない工夫がなされており、ここでしか食べられないと思わせる一品に仕上がっていた。
コーヒーはネルドリップらしい。豆も煎りたて挽きたての新しいものが使われていて、こだわりを感じる。ブルーマウンテンを主とした、酸味や苦みのバランスが絶妙な一杯。
イチゴパフェは……まあ普通。美味しいとマズイの中間という意味ではなく、そこらの店で味わうものと同程度の美味しさ。
総評……すごく満足。
「コーヒーのおかわりはいかがですか?」
「いや、苦いのは苦手なんで」
片手を挙げて制し、きっぱりと断る夕凪。
「ええっ、飲んでいたじゃないですかっ」
「まぁ喫茶店なんで、しかたなく。でも大丈夫、ここのコーヒーが美味しいコーヒーだということはわかりましたから……まあコーヒー自体が嫌いなんですけどね」
店員は動揺を隠せない。
「ついでに言うと、雰囲気を楽しんだから、別に無理して耐えたわけじゃないんですよ。ちゃんと美味しかったです。ごちそうさまでした」
夕凪はツヤツヤした笑顔で席を立つ。
「んじゃ、お会計をお願いしま……」
レジまで移動してポケットを探った夕凪は固まった。顔から見る見るうちに血の気が引いていく。
「はい、合計で一五六〇円になります」
との声には耳も貸さず、必死で服のあちこちを叩いている。
「お客様?」
「ははっ、はははっ……ちょっと待ってください?」
カギと携帯電話には触れる。しかし肝心の財布は、どれだけ探っても触れない。しばらく慌てた後、ようやく落ち着きを取り戻す。
「……ふむ」
「あのぅ」
「へへへっ」
引きつったぎこちない笑み、まるで油の切れた機械だ。
夕凪は蚊を叩く勢いで手を合わせ、下げた頭の上に掲げる。
「すみません、ホンットすみません! サイフ持ってくるの忘れました!」
「えっと……どうしましょう」
「どうしましょ」
初めての来店だ、ツケというわけにはいかないだろう。あれこれ頭を悩ませた挙句、夕凪は手を鳴らした。
「家からサイフを取って来るので、これを人質にとってもらうってのはどうですかね」
古い携帯電話が取り出される。美しい鉱石が揺れた。
「それでも構いませんけど、これでお知り合いの方に連絡するというのは……」
「ああ、そりゃ無理な話ですよ。そういう相手がいないし、そもそも携帯に電池が入っていないんで」
それならばなぜ持ち歩いているのか、店員は首を傾げた。
「そんなわけで電話に価値はないんですけど、こっちのストラップは人質には充分なほど、もう超がつくほど高価なはずなんで、どうですかね?」
「はあ」
しげしげとストラップを見つめる店員を、更に見つめる不安が入り混じった顔の夕凪。
「会計、いい?」
いつの間にか夕凪の隣に小柄な少年が立っていた。鞄と長い棒が入った布を手にした、寝ぐせが目立つ学生服の少年だ。
「こっちのと二人分」
「え?」
大人二人の目が一点に注がれる。
「ちょっと君、そりゃありがたい話だけど。さすがに見知らぬ子供に払ってもらうのは、大人のメンツが保てないというか」
「今この状況で保てていると本気で思ってんの?」
「……ぐぬぅ、返す言葉もない」
「まあ安心してよ。見返りは求めるから」
数分後、喫茶「グリーンヒル」の奥の座席に座る夕凪と少年の姿があった。入口からは観葉植物が邪魔して見えにくい、少年が元から座っていた席だ。
先までの飲食代に加えて、追加メニューの料金も少年が払った。見返りは、少しお茶に付き合うこと、だそうだ。鋭い目つきを見る限り、とてもそれだけとは思えないが。
まるで観察だ、おまけに会話がない。空気に耐えかね、夕凪から話しかけた。
「あー、その……お金の件なんだけど、どうもありがとう。助かったよ」
「べつに気にしなくていいよ」
「そ、そっか。ところでその……君、学校はいいのか?」
「いいんじゃない?」
「いいのか……」
「うん、たぶん」
口調こそ軽いものの、表情は真剣だ。
押しつぶすようなプレッシャーが、伸び伸びと生きる夕凪にとっては辛く、居心地悪い。
「……えっと、これ美味いな」
「コーヒーは嫌いなんじゃないの?」
「いや、客観的な話でね?」
またしばらく睨むような視線に晒された後、少年の長い息によって緊張が解かれた。
「やっぱりね」
「なにふぁ?」
パンケーキを食べながら夕凪が問う。
「久遠寺さん、でしょ?」
「そうだけど……なんで俺の名前を?」
「……察しが悪いのは相変わらず、か」
呆れたような溜息が、コーヒーカップから立ち昇る湯気を揺らした。
「僕は志桜粋。この名前と顔に覚えはない?」
夕凪は眼前の少年を見つめ、過去の記憶を漁る。
「え? 志桜、粋…………あっ!」
「思い出した?」
「確か近所のっ!」
粋は満足そうに頷く。
「生意気なクソガキっ!」
机の下から鈍い音が鳴る。
「イッ~~~~ッ!」
「誰がクソガキか」
なかなか強烈な一撃で、粋の踵が離れた今でも足の甲がズキズキと痛みを訴える。
「いや、でも久しぶりだな。大きく……は、そんなになってないけどッテェッ!」
「誰がチビか」
「同じところを踏むなよ!」
ビデオを再生したような寸分も違わぬ踏みつけ。
「でもまぁ、顔つきは大人っぽくなったよな。成長していて気がつかなかったよ」
「僕よりそっちの方が変わったと思うけど。元から多少はアレだったような気もするけど、そこまでアホみたいな性格だったっけ?」
「誰がアホか」
夕凪は踵を振り下ろす、が、そこに粋の足はなかった。一秒後、またしても夕凪の足が踏みつけられ、小さな悲鳴が上がった。
「変わった、か。ちょっと海外をブラブラしてきたからな、自覚はないけど少しくらいの変化はあるのかも」
「少し……?」
最後に二人が会ったのは四年前。以前の印象と照らし合わせると、どうしても同一人物だとは思えない。少しずつ改善されてはいたものの、海外に出る前の夕凪はほとんど家に閉じこもり、死んだような顔をしていたものだ。
それが今ではこの有様である。
「色々あったからなぁ……」
「遠い目をして浸っているところ悪いんだけどさ、ちょっと質問させてもらうよ」
夕凪は快諾する。
「それじゃ、まずは……いつ帰ってきたの?」
「昨日の夕方」
「んじゃ、夜の九時頃――どこで何をしてた?」
「昨日はあんまり時計を見てないから、わからないな」
粋は対面から机の上に置かれた携帯電話へと視線を移す。正確にはストラップへ、だが。
ご近所同士のお茶だというのに、和やかには程遠い雰囲気。質問というよりは尋問。これで楽しいはずがない。
「なあ、粋。周りくどいのは嫌いなんだ。何が言いたいのかハッキリ言ってくれないか」
「……わかった。その代わり正直に答えてよね」
「適当な約束はしたくない。内容次第だな」
「そりゃそうか。まあ、ご希望通り単刀直入に訊くよ」
少年はブラックコーヒーを一口すすり、カップをソーサーに置く。
「昨日の夜、竜を倒したのは久遠寺さん?」
常に眠そうな眼をしている粋にしては珍しい、ギラついた目つき。鋭い視線は夕凪の目の動きから呼吸の周期まで見逃さない。
「俺じゃないよ」
迷いなく言いきった。
「本当に?」
「しつこいな、嘘じゃないさ」
確かに嘘をついている反応ではない。だが、突飛な質問に対して動揺がない。それが引っかかる。アホと評しておきながら、粋は思う。この久遠寺夕凪、なかなかに曲者だ。
「そういえばさ」
粋はふと思うことがあった。
「苦いのが苦手ならミルクと砂糖を入れればいいんじゃないの?」
「…………」
夕凪は何度か瞬きをする。
「……うん、知ってた。今ね、やろうと思ってたんだ、うん」
やっぱアホだ、と粋は評価を落ちつけた。
何の変哲もない極普通の高校、その一室。昼休みの平穏な風景とは裏腹に、囁かれる会話は緊張感を帯びていた。
「なあ聞いたかよ。昨日さ、結構でたらしいぜ」
「またか。でもあれだろ、何かの組織が倒してくれたんだろ?」
「ああ、かっこいいよな、正義の味方みたいでさ」
八年前、とある研究施設で事故が起こった。その一件を皮切りに、平和だったこの世界で怪物が目撃されるようになった。
まるで人間と動物を混ぜ合わせたような造形を持つ者。それを討伐すると、人間の要素がなくなったものが、その者の脳から出現する。動物は犬や猫といった実在するものから、竜を筆頭に伝説上のものなど、多岐に渡る。
出現当時は随分と騒がれたが、それも一時。人型の時はある程度の理性があるらしく、一般人は少しだけ襲われにくい。さらにそれらを討伐する組織まで現れ、遭遇しても逃げれば助かる可能性が高いという認識が広まってからは、人々の恐怖も幾らかは和らいだ。
まだ恐れる者も多くいるが、話題に事欠かず自身が被害を受けない限りは心のどこかで楽しんでいる者もいる。正義の味方――そう言いはしゃぐ彼らは、典型的な後者の例だ。
ほとんどの生徒が食事を終えた頃、教室の扉が音を立てて開かれた。
「はよー」
頭髪のあちこちが跳ねた寝ぼけ眼の小柄な男子生徒が、悠然と登校してきたのだ。空席だった廊下側の前から二つ目、その机に堂々と鞄を下ろし、壁に長物を立てかける。
「粋、遅かったね」
話しかけてきたのは一つ後ろの席に座っていた女生徒。ショートカットの髪型と右目の眼帯が特徴的だ。箸でつつく可愛らしい弁当箱には、まだいくらか料理が残っている。
粋と彼女――立上瑞音は他の生徒達とは一線を画する友人関係にある。どちらも気さくな人物でありながら、いざ接してみると近寄りがたい。例えるならばオアシスの蜃気楼のようなもので、近寄ったと思っても知らぬ間に遠ざかっている。それゆえ二人ぼっちというのが現在の彼ら。
「もう今日は来ないのかと思った。なんで遅刻したの?」
「昨日は仕事があって、寝るのが遅かったから」
「それは言い訳。ていうか昨日、あたしより先に帰ったよね?」
「瑞音の帰りが遅くなったのは本部で駄弁ってたからじゃん」
実は彼らの会話、周囲に聞かれるのはよろしくない。粋と瑞音は、とある組織に属して仕事を請け負っているのだが、所属していることは勿論のこと、その組織の存在自体が公に知られてはならない。
ところが自覚が足りていないのか、周りに聞かれない自信があるのか、声量こそ抑えてはいるものの話すことに一切ためらいがない。
「おしゃべりを楽しみにしたっていいでしょ?」
「別にダメとは言ってないんだけど。帰りたくても帰れなかった僕の、ただの愚痴」
昨夜の仕事はアクシデントが多かっただけに、報告まで含めれば、粋が解放されたのは定時からかけ離れた時刻だった。睡眠をこよなく愛する粋にとっては辛いことだったが、それも言い訳に過ぎない。きちんと朝に目を覚まし、喫茶店で朝食を摂っていたのだから。
遅刻の本当の原因は、面倒くさいから、その一言に尽きる。
「ところで、なんかいつもより騒がしくない?」
周囲を見渡して、粋が言う。みんな、どことなく浮ついているようだ。
「午後が特別授業だからじゃない?」
「え、なにそれ」
「先週あたりに連絡があったでしょ。体育館で三クラス合同、霊素学について講義を受けるんだって」
「……へえ」
盛り上がっている級友達とは対照的で、この二人は全く興味を示さない。無理もない、仕事柄「霊素学」に深く関わっている彼らは、そこらの学者よりも精通しているのだ。無知の高校生を対象とした二時間の特別授業で、二人が得られるものは何もないだろう。
「寝られるかな」
「盛大に遅刻しておいて、まだ寝る気なんだ」
瑞音が弁当の最後の一口を頬張りながら呆れ顔をしたところで鐘が鳴った。
「眠れないくらい面白い講義だったら眠らないし」
「ぶつくさ言ってないで、もう移動するよ」
この時の粋は思ってもいなかった。
まさか本当に眠ることができない授業になろうとは――彼らにとって面白い授業かどうかはまた別の話として。
三つの組の合同授業、体育館に集まった生徒達は高揚を抑えきれない。好奇の眼差しで見上げる舞台上には、白衣を着た見慣れぬ人物が立っている。
「えー、講義開始の時間となりましたので、始めさせていただきます。今日は一年四組から六組までの生徒さんですね」
話が始まると生徒達が立てる雑音は尻すぼみになっていく。
「私は霊素研究センターで霊素学を研究しております、三国と申します。本日は皆さんに霊素学を、雑学程度にですが触れていただきたく、この様な機会を設けました。どうぞよろしくお願いします」
中肉中背、メガネをかけた七三分け。年齢は三〇代の後半あたりで、いかにも研究者といった風貌の男がぺこりと頭を下げる。
霊素研究センター――数年前に作られた国立の施設だ。正式には先の名称の頭に「国立」の文字がつく。
講師の自己紹介を経て、パチパチパチ、と拍手が鳴った。
「さて、まずはなぜ霊素学を学ぶのか――ということを説明したいと思います。知っておられる方も多いかと思いますが、ここ八年ほど世間を騒がせている怪物たち、アレらに深く関係するものですね。私たち人間に仇なす存在について、無知のままではあまりに無防備と言えるでしょう」
「人間に仇なす……ねぇ」
瑞音の隣、粋はあくびをするが誰も気にかけない。
「とはいえ、まだ謎の多い学問であることも確かです。今日の講義で興味を持たれた方は是非ともこの研究を将来の夢の一つとして考えていただければ、と思います。さて、ここから本題に入ります」
体育館の明かりが落ち、スクリーンに映像が映る。人間や脳の絵がデフォルメされて描かれている横に簡単な説明文も添えられている。
「霊素とは、簡単に言えば精神エネルギーのことです。例えばこうして腕を動かす時――」
三国は腕を前に突き出し、曲げ伸ばしする。
「実際に動かしているのは筋肉です。ですが、動かそうと思わなければ、まず筋肉が動きません。この動かそうという意志、それが霊素なのです。その延長で、霊素の伝達方法あるいは現象の実現方法を知れば、超能力と呼ばれる類の現象を起こすことも可能であると考えられております。いわば霊素は生物が持つ、願いを叶える力なのです」
長ったらしい説明。それも粋にとっては中学生に対する掛け算のようなものだ。早くも船を漕ぎ始める。
「ちょっと粋、寝るのは失礼だよ」
「これで寝ない方が今まで蓄えてきた僕の知識に失礼だから」
「はいはい、そんな理屈は通らないからね」
瑞音は粋の太腿を力強くつねった。
「さて、次はその霊素が世間を騒がせている怪物とどういった関係があるのか、ということをお話します。通常、霊素は生物という器から漏れることはありません。しかし生物の死後、稀に霊素が外に飛び出すことがあるのです。この現象を我々は『発現』と呼んでおります。まだ詳しいメカニズムは明らかにされておりませんが、意志が弱すぎる生物……例えば植物や微生物など……それとは別に人間も発現しにくい傾向にあるようです」
生徒達がざわつく。
「死後に霊素が発現……それってもしかして……」
「ゆ、幽霊?」
三国は満足げに微笑む。
「そうですね、いいところに気が付かれました。霊素という名は幽霊も由来の一つなのです。主に死後に現れる霊素だけで構成された存在、これは幽霊でも構わないのですが、我々研究者は霊素体と呼んでいます。霊素体は現在確認されているもので三種類あります、それを順に紹介しておきましょう」
パッと舞台上の映像が変わり、三種の霊素体についての説明が描かれた図が現れた。
「まずはナチュラル。これは生物の死後に発現する霊素体です。普通は触れることができませんし、特に力を持っているわけでもありません。ただ害がないとも言いきれませんので、見かけた場合はすぐに離れた方が良いでしょう。形は元の生物と同じで、半透明なのが特徴です」
ハ虫類と魚類くらいの知能が発現し易いと図に書いてある。
「次はユニオン型と呼ばれるもので、これが最も危険な種ですね。形状は竜を筆頭に、実在しない生物ばかりで、それもそのはず、これはナチュラルを素材として合成されています。ええそうです、霊素体は合成できるのです」
体育館内に衝撃が走り、どよめきが湧く。
「気付いた方も多いでしょう。要するに、ユニオン型は目的があって作られています。稀に自然に混ざり合ったものもありますが、それらの危険性は人工よりもやや低い。理由は、天然の霊素体は物体に触れられないからです。しかし反対に人工のユニオン型はほとんど核と呼ばれる特殊なものを埋め込まれていますので、物体に干渉できます。おそらくは、そう……悪意を以って生み出されているのです!」
ユニオン型に竜が多いのは、素材のハ虫類が手に入れやすいこともあるが、強さの象徴としての意味も少なからずある。作り手がヒトであるのだから、ユニオン型には神話などを元にした架空で既存の生物も多いのだ。
ただし、例えば竜の場合、合成を重ねて作られているため、どれだけ似ていても恐竜など既存の生物と完全に一致することはない。
「最後はサイバー型ですが、これについては後で詳しくお話します」
街を襲っている怪物が、実は人間によって作られたものだった――その事実を初めて耳にする生徒たちは、動揺を隠せなかった。うわさ程度には広まっていたことだが、実際に明言されては仕方のないことだろう。
無論、彼ら二人には今更な話。
「霊研か……あまり良い印象は持ってなかったけど、思ったよりは研究が進んでるね、粋」
「ま、なんだかんだエリートが集まる国立の機関だからね。霊素体による大規模な事件が初めて起こってから八年――これくらいは当然だと思うよ」
スクリーンの映像が人と脳、可愛らしいオバケが描かれたものに変わる。
「さて、核を持たない霊素体は物理干渉ができませんので、持つものよりは危険が少ないことはおわかりでしょう。しかし皆無ではないのです。霊素体は体という器から飛び出てきた精神体とも言うべきもの。当然、彼らは器さえあれば、そこに入ることができる」
三国は映像の、オバケから脳に伸びた矢印を指し示す。
「これを憑装と言います。これをされてしまうと脳の働きが変化したり、場合によっては肉体にも変化を及ぼされてしまうのです。ナチュラル程度では向こうの意志が弱く、よくあるハ虫類や魚類程度の霊素体では影響はまずありません。しかし哺乳類クラス……これらは発現しにくいのですが……その他に複数が合わさったユニオン型は、充分に危険です。そして、街に現れる怪物こそが憑装された者なのです!」
驚いてばかりの聴衆は、一際大きく騒ぎ出す。
「俺、前に怪物を見たことあるけど……ヒトの形に近かったぞ」
「……ってことは、あれ人間なのかよ……」
霊素体が動物に憑装することも、ないわけではない。だが人々の目に触れる怪物はいつだって人間に近い姿をしていた。
「憑装された人間がどれだけ自我を保っていられるかは、その霊素体がどれだけ強いのかで決まります。なんらかの目的を遂行するために、目的を理解した人間に少しだけ自我を保てるレベルの霊素体を与える……それが何者かによる常套手段です。彼らが何者なのかは、私の専門から外れるのでよくわかりませんが、国もあまり把握できていない模様です」
熱意ある三国の講義に対し、粋は鼻で笑った。
「霊素体の強さで決まるって……それだけだと誤解を生むんじゃないかな」
「案外、本気で思ってるのかも。国立なら人体実験とかしないだろうし、それだと結論まで遠回りだからね」
「そんな悠長に構えてる場合じゃないんだけどなぁ」
やはり粋たちが所属する組織と霊素研究センターでは研究進度に大きな差があるらしい。研究が専門ではない彼らですら、早くも専門家である三国のほつれを見つけてしまった。
まさか生徒に自分よりも上の者がいて、鼻で笑われているなどとは夢にも思わない三国の話は続く。
「彼らの正体は不明瞭で、テロは続く一方です。ですが我々も指を咥えて見ているだけではありません。普通の霊素体を扱うのは危険ですが、霊素が無ければ話にならない。核を持つユニオン型の最も厄介なところは、奴らは物体に干渉できるのに対し、物体から奴らにはほとんど干渉できない点ですからね」
つまり通常兵器が通じない。
「そこで我々が開発したのが、サイバー型と呼ばれる疑似霊素体です。これは、脳に霊素体から受ける影響を再現するような霊素を送ることで、憑装を人工的に引き起こすものです。このサイバー型の力……」
三国は一呼吸分の溜めを作り、得意げな顔をする。
「今から実演してお見せします!」
オッと生徒が湧き立つ。
舞台袖から現れたのは、粋の担任教師だ。手には小さな半透明銀色の珠がある。
「今、先生が手にしているのは、憑装していない時に霊素体を入れる器、霊珠です。これから先生には憑装していただき、四方八方から投げるボールに対応していただきます」
続いて現れる生徒会所属の生徒達、総勢十二名。それぞれ野球ボールを手に、教師を丸く囲み始める。
「ではみなさん、お願いします」
「憑装!」
霊珠が発光し、連動して教師の体も光る。体の形が徐々に変化していき、銀色のアーマーを着こんだような姿が光の中から現れる。霊珠は中身の移動と同時に、半透明銀色から無色透明に変わった。
その様子を確認した代表の生徒たちは、聴衆が好奇あるいは期待や緊張の眼差しで見守る中で、一斉にボールを、それも思いきり投げつける。
計十二個の球が宙を舞う――一瞬のことだった。
鮮やかな教師の動きに、生徒一同は感動の声を上げる。飛んでくるボールの速度差を瞬時に見切り、速いものから華麗な足さばきで蹴り落としていったのだ。反対側から迫るボールは手を使って叩き落とし、立ち位置や体勢を僅かに変えていくつもを避ける。全てをほぼ同時にこなしながら、最後の一球をかかと落としで叩き割った。
人間業でないのは、誰の目からも明らかな芸当。
「ご覧頂けましたか?」
三国はにっこり笑って言った。
「これは護身用ですから、安全を重視しているため出力も小さい上に回避と防御に特化しています。それでも、これほどの力を発揮するのです」
聞いているだけでも手の痛みが想像できるような、盛大な拍手が鳴り響く。
「これがあれば逃げる際に大きな助けとなることでしょう。ただし、戦ってはいけません。なぜなら護身用には身を護る行動しかできない設定を施してありますので、どう頑張っても相手を倒すことができないのです。またユニオン型の融合体を倒した場合……つまり器を破壊した場合、中のユニオン型が出てきて暴れるといった報告もあります」
粋の眠気は限界にきていた。あくびは止まらず、三国の声は子守唄にしか聞こえない。だが次の言葉で、状況は一変する。
「実はこのサイバー型……実用化と量産に成功いたしましたので、今日は一般よりもいち早く皆さんにお配りしたいと思います。それに伴い、ここで練習の場を設けます!」
思わぬ展開に生徒達から歓声の雨が降る。反対に身を固くして呆気にとられたのが粋だ。
「へへっ、サイバー型かぁ……確かうちの組織でも同じ名称で開発してるよね。笹巻さん達が使ってるやつ。あたし、ちょっと興味あったんだ。もらえるなんてラッキーだよ」
「……瑞音、なに呑気なこと言ってんのさ」
「へ?」
「僕達の正体、一般人にバレるわけにはいかないんだよ?」
「うん、その約束で学校に通わせてもらってるもんね。通わなくても秘密だけど」
「多分あの三国って人、『使役』の事をよくわかってない。そんな中で僕達があのオモチャみたいなサイバー型なんか使ったら……」
「どうなるの?」
「たぶん、どうあがいても完全使役憑装になる」
「えっ……そうなの?」
「笹巻さんに借りたことがあってね、あのレベルのサイバー型ですら、そうなったから」
「さすがうちのエース、天馬の刃だね。頼りになるよ」
「んなこと言ってる場合じゃないって」
などと相談している間に体育館には明かりが点き、霊珠と説明書が入った箱と今日の講義内容がまとめられた資料が配られ、あっという間に整列させられる。
「それでは各組の男女一名、六人ずつ練習していきましょう。練習ですので、次以降に控える五人の方々はボールを投げてあげてください」
湧き立った体育館。一人ならまだしも、二人揃って仮病を使える雰囲気では既にない。
「起動のカギは念じること、触れていること、『憑装』という音声認識の三つです。慣れれば最後の一つは不要ですが、初心者の誤作動防止のため、それと士気向上のために備え付けてあります。意志と密接に関わる憑装では精神状態の管理も大切ですから、恥ずかしがらずに叫びましょう」
第一の組が憑装を開始する。護身用ということで誰もが扱える仕様になっているだけあり、説明通りに行えば実行は容易いらしい。粋が焦る一方で、先頭は憑装を完了した。
「簡単でしょう。起動だけじゃなく使い方も簡単なんですよ。ただ、何も考えなければ良いんです。少しばかり慣れてくると、逃げる、避けるなどと念じることで効果を上げられますが、それはまだ先の話ですね」
このサイバー型は体を変化させ、状況に合わせて体を強制的に動かしてくれる。余計な感情が混じると、自分の意志とサイバー型の思考が干渉してしまうのだ。
つまりサイバー型が左に回避と判断したときに右へ避けたいと思ってしまうと、肉体の動きに抵抗がかかってしまう。具体性を捨て、単純思考の「逃げる」「避ける」「打ち落とす」等だけを頭に残すのは難しい。
先の教師が見本で見せたのは、かなりの練習を事前に積んだのだろう、念じる方だ。生徒たち初心者は、まず何も考えないことから始める。ゆえに生徒にはボール五つ相手が妥当なところだ。
簡単だと言われた通り、たまに失敗する者も見られるがスムーズに列は進んでいく。
体を金属で包んだ生徒たちの楽しそうにボールと戯れている様が、粋たちに迫ってきた。
そしてついに粋、隣の女子列では瑞音の出番。
「志桜くんと立上さん、ね。さ、憑装して」
三国は優しく声をかけるが、二人は応じない。
「……どうしたのかな。これは安全を最優先に作ったものだから危険はないよ。大丈夫、怖くないから使ってごらん」
「あー、その……なんて言うか気分が……」
「大丈夫、大丈夫。みんな使えているし、体に悪い影響も出ていないだろう? これは国の厳しい審査にも通っているから、心配しなくてもいいんだよ」
「いやー、あたし達はちょっと色々あると言いますか……」
流れが止まったことで、後ろに控える生徒たちに不満が募る。
「おい志桜、早くしろよ」
「立上さんも。私たちだって早く使ってみたいんだから!」
逃げられそうもなく、他の案を考えるための時間もない。
粋は大きな溜息を吐き、瑞音と目を合わせる。
「やるしかないっぽいね」
「うん」
どことなく瑞音は嬉しそうだ。サイバー型を使えることが楽しみでもあるのだろう。
「んじゃまぁ……憑装」
「へへっ、憑装!」
霊珠と二人の体が、みんなの時と同じように、光に包まれる――が。
「あれ?」
「なんで――」
最初に気付いたのはボールを構える生徒だった。
「体が、変わらない……?」
光が収まり、霊珠が無色透明になる。それは霊珠から霊素体が消えたこと意味するのだが、二人はただの制服姿のままであった。
「これは、どうなっているんだ」
遅れて三国が霊珠と二人を交互に見て、取り乱す。
「確かに憑装したはずなのに……特異体質か何かで、霊素体を受け付けないのか? しかし前例もないし、なにより、それでは霊素体が消えた説明がつかない。体が変化しにくい、なんてことも考えにくいか。では不良品……いや、憑装そのものは成功したはず……」
ぶつぶつともの凄い勢いで考察を並べていく三国。例外に出会い、興奮している様子だ。
粋は面倒そうに寝ぐせが目立つ頭を掻いた。
「ボール、早く投げてくれない?」
「いや、でもお前……」
「何も変わってないじゃん」
体が変化した事実と、丈夫なアーマーで守られているからこそ、彼らは一人に五個のボールを投げつけることができた。しかし今の粋は、普段と何も変わらない。多勢に無勢で投げつけるなど、できるはずがない。
「急かしたのはそっちでしょ。早く投げてよ」
「え、いや……あの、三国さん。俺達どうすれば……」
「やはり特異体質なのか――ん? ああ、えっと――」
不測の事態に誰も対処できない。
特に三国は国立機関の人間だ。立場上、憑装が成功していると確信できない状況で、迂闊に投げつけろとは言えない。もっとも、内心は試してみたいと思っているだろうが。
「じゃあ僕の番は飛ばしてもらっていいかな、先生」
「いや、これは怪物共から身を守る大切な授業だ。三国さんの指示が出るまで待機しろ」
これでは埒が明かない。
「……しかたないなぁ」
粋はツカツカとボールを持った一人に歩み寄った。
「これ借りるよ」
困惑顔の生徒からボールをひったくり、
「ほいやっ!」
――投げた。発射したという方が正しいのかもしれない。大砲のような剛速球が隣にある女子の列、その最先端……つまりは瑞音に向かって飛んでいく。
球は空気を掻き分け、突風を起こしながら無防備な瑞音の顔へ一直線。
あまりに速過ぎて、周りが危機を感じる暇もない。
「わっ、危ないなぁ」
それを瑞音は、正拳突きの要領で弾き返す。
さらに増したレーザービームのような球速。
「ほいっと」
やはり周りが危機を感じる暇なく迫った球を、粋は後転しながら足で上下に挟んで威力を殺し、真上に放り投げる。地に足をつけ、落ちてくる球を片手で掴んだ。
「護身なら、これで充分でしょ?」
体育館内が静まりかえった。
「……あれ? 憑装の成功を証明するだけのはずだったのに……」
「粋、やりすぎじゃない?」
天馬の刃に、一般人の真似は難しいらしい。瑞音も大概だが。
「護身用でこの動きは、まさか……そうか!」
三国は薄らとだが理解した。
実は、憑装には使役憑装と呼ばれるものと被使役憑装と呼ばれるものがあるのだ。
霊素体が強ければ、例えば人間の意識は抵抗になる。逆に、人間の意識が憑装した霊素体よりも強い場合はどうなるのか――それが使役憑装、霊素体の方が抵抗になるのだ。
より研究が進んでいる粋たちの組織では、しばしば対比で表現される。
人間と霊素体で〇:一〇が、生徒たちが行った割合。念じた教師は霊素体と一:九といったところだろうか。後者はヒトが抵抗となっているように見えるが、あくまでこの対比は体を支配する意識の割合……実用した時に抵抗となるかは別の問題だ。
これが粋と瑞音の場合、サイバー型に対して一〇:〇。これまで組織のエースとして数え切れないほどの怪物を屠ってきた彼らは、精神力が強過ぎるのだ。風を抑えて水面を鎮めたとしても、水面下から湧き上がる熱い気泡が波を立てる。おもちゃレベルの微弱な霊素体では干渉することすらできはしない。
一〇:〇の完全使役憑装は、肉体の強化を我がものとしながら自分の意志で体を動かすことができる。生徒たちの〇:一〇を全自動とするのなら、完全使役憑装は全手動だ。
こんなことが可能なのだと思ってすらいなかった三国は、子供のように目を輝かせた。
「ありがとう、君たち。良い研究資料になったよ!」
護身用では戦えないと偉そうに述べてから一時間も経たずに否定されたというのに、感謝の念しか見受けられない。
これほど強い想いがあれば、三国も使役憑装を使えるかもしれない、というのは粋が心の内に秘めた冗談。三国や霊研への好感と今後の期待が少しだけ湧いた。
「これでもっと研究が進む。わけのわからん組織に頼ってばかりにはさせないぞ……っと、それはともかく、君たちは一体、何者なんだ……?」
その「わけのわからん組織」の一員だよ、と粋は内心ツッコミを入れる。
「さぁ……自分でもよくわからないんです」
無知な少年を気取るには遅過ぎただろうか。
「ふむ、霊素に関しては謎が多い。体が勝手に動いたのかもしれないし、動かしたことを覚えていないというのもあり得るか」
「……アホでよかった」
粋は胸を撫で下ろしたが、粋と瑞音を包む周りからの好奇的な視線は揺るがなかった。