第十章 決着
丈の低い草の泉を大量の血液が赤く染め上げた。青々とした植物や穏やかな土の香りを、生臭くも鉄のような匂いが打ち消している。青年は古紙のようにボロボロになった体で樹に寄りかかり、上半身だけを起こして吐血した。
「もう諦めたらどうかな、夕凪。あまり君の無様な姿は見たくない」
「……ゴハッ!」
返事もできず、また血の塊が口から飛び出る。本領発揮したアグマには、あと一歩のところで及ばない。それが幾度となく繰り返され、差は大きなものになっていた。
「当初、世界を破壊しても君だけは生かすつもりだった。器としても気に入っていたし、なにより面白い人間だからね」
「はぁ、はぁ……そんなのは、ごめんだな。俺もアグマは、気に入っているけど……みんなを殺した後のお前と一緒にいられる自信はない」
手の甲で口元を拭う。そこにも血はついていて、あまり綺麗にはならなかった。普通の体ならば、とっくに出血多量で死んでいる。
アグマの神々しい光が巨大な拳を形作り、夕凪に襲いかかった。何度も苦しめられてきた一撃だが、それは難なく受け止められる。
「……でも、そんなことを言われたら、ますます負けるわけにはいかなくなった」
希望に満ちた綺麗な瞳が、まっすぐアグマを見つめている。
「どういう意味かな」
「お前は一人が怖いんだ。だから俺と一緒にいたし、いたいと思った。そんなお前に、自分以外の全てを壊させるわけにはいかない!」
左手でアグマを受け、右手で反撃する。強烈な一発にアグマが悶えた。しかし、怒りのあまり痛みはすぐに忘れる。
「一人が怖い? この僕が?」
神に怖いものなど、あるはずがない。少なくともアグマ自身はそう思っているだけに、夕凪の言葉が逆鱗に触れたようだ。
「適当なことを言うな!」
巨大な光の槌となり、上方からアグマが降る。夕凪は頭上で手を交差させて受け止めた。だが先の拳型よりも力が強く、地面と挟まれた体が激痛を訴える。潰されないように必死で耐えているところに、柄が小さな拳に変化して曲線を描き、襲いかかった。
両手両足に対処するだけの余裕はなく、拳が腹部に深々と刺さる。夕凪の体はくの字に折れ曲がり、槌が叩き潰した。
轟音の後にはアグマの荒い呼吸が少しだけ残り、辺り一帯が静まりかえる。流体のような光の前には、脱力しきった青年が転がっている。目は閉じられ動く気配がなく、呼吸も止まっていた。
「……終わったか」
かつて行動を共にし、見込んだ青年が横たわる姿を見てアグマに複雑な感情が湧いた。
これが孤独の味なのか。
もうこの世界でアグマとくだらない話をする者も、身を案じる者もいない。この精神が乾ききるような感覚は、激闘の疲れによるものではないのかもしれない。
一人が怖い……そんなはずはない、と何度も自分に言い聞かせる。
木々が乱立する方向から、鋭く息を呑む音が聞こえた。
「夕凪さんっ!」
悲痛な声を上げて、小さな少女が青年に駆け寄る。一心不乱、すぐ傍にある脅威には目もくれず、ユズリは夕凪に抱きついた。緑髪が揺れて、黄色の光沢がオーロラのようにはためく。
「夕凪さん、夕凪さんっ!」
声をかけても、揺すっても、少女の涙が頬を打っても、青年の瞼はピクリとも動かない。
「そんな……」
ユズリの手が、肩が、声が震える。
「よく来た、ユシュ。君のシステム、君の霊素……返してもらおうか」
『アグマ……』
風に吹かれ、緑髪が逆立つほど大きく動く。
『許さない。あなたは絶対、許さない! ……ユズリッ!』
「……うん」
憑装し、植物の霊素体だけでなく周囲の草木も操り、自身の体も武器として攻め込む。だが神を包んだ球状の壁――光の泡が、すべてを無効化する。久遠寺兄弟が一度に何枚も破った障壁を、彼女達は一枚たりとも砕けなかった。
「世界樹は僕が創った霊素体だ。ただでさえ僕に抗える力など与えていないというのに、そんな姿になり果てて敵うと思っているのかい? 冷静で慎重な君らしくもない」
「黙って。ユズリの敵は私が排除する」
いくら感情を高めても、壁には傷の一つもつかない。
「僕を殺せば、君も世界も崩壊する。もちろんその子も。それでも僕と戦うと?」
「……くっ!」
ユシュは唇を噛み締める。憎い相手を倒す力もなく、仮に可能でも許されない。今できる最善の選択は、逃げることだ。ここでアグマの手に落ちることだけは、なんとしても避けなければならない。
「逃がすつもりはないけどね」
ユシュは走り出そうとする。その脚を閃光が狙った。
「…………?」
思わず目を瞑った彼女に、痛みは走らなかった。代わりにふんわりと柔らかい温かさが全身を包み込む。
「いってぇ……っ!」
背中に煙を上げ、青年が少女を抱いている。
「夕凪、まだ生きて――」
「俺が死んだら朝霧が再発現するだろ。心配しなくても、いつものアレと合わさってあまりに痛いもんで、ちょっと消えかかっていただけだ。……いわゆる気絶的な?」
しぶといにも程がある。アグマは辟易した。何度、友人を殺すために力を振るわなければならないのか。覚悟する度に精神をすり減らし、生きている姿を確認する度に安堵してしまう。
「夕凪さん……よかった」
「ごめんな、心配かけて。でも危ないから少し下がっていて、ユズリちゃん」
夕凪は神に向き直る。
「アグマ、お前の気持ちは……まあ、わかる。誰だって死にたくないだろうさ」
「死にたがりの君が言っても説得力は皆無だが」
「いやいや、俺だって別に死にたいわけじゃないから」
呑気な雑談の間にも、波動をぶつけあって牽制している。
「真面目な話、お前を殺すつもりは当然ない。ただ大人しくしていて欲しいだけなんだ」
「ただ滅びを待て、と?」
「違う、待つのは滅びじゃない。ヒトが切り開く新しい未来だ。必ず、お前が抱える霊素の問題を人間が解決するから……だから、それまで待ってくれないか」
神に不可能なことを、人間が実現する――言いきる夕凪を、アグマは鼻で笑った。
「なにを言うかと思えば――見通しはあるのかい?」
「……少しだけ。俺と朝霧が別々に模索して、いくつか案を考えてある。他にも色んな人の手を借りれば……」
「バカバカしい。まだ道を一つにも絞れない段階、何の根拠もないじゃないか」
これについては返す言葉もない。
「それでも頼む。俺達に時間をくれ!」
「断る、と言ったら?」
夕凪は躊躇いもなくアグマに拳を向けた。
「お前の霊素を拡散させる。意味に引きつけられて霊素が集まり、アグマが復活するまでに新しいシステムを作り上げる」
「霊素の拡散……?」
意味によって結びついている霊素に外部から強烈な力を加え、弾き飛ばす。理論上は可能だが、相手が神となると必要な霊素の力が膨大すぎる。それこそ一時的にでもアグマを大きく上回らなければならない。
「それができるなら、リンクを切ってから弱った僕を殺すべきだろう」
「どっちにしても研究は必要だろ。それなら俺は平和な方を選ぶ」
「……ふっ、好きにしたらいい。全部、僕に勝てたらの話だ。訪れない未来を語っても意味がない!」
平和を選ぶと言ったそばから夕凪は殴りかかった。今まで最大の霊素量で、アグマの全力の障壁でも止めきれない。
「ウォラァ!」
打撃が空を切る。アグマは人型に近い形となり腕でさばき、足を使って投げ飛ばす。夕凪の体は回転し、背中から地面に叩きつけられた。
「イッ~~~~っ、そんなこともできるのか……」
体勢を立て直している間にもアグマの体は変化を続け、異形の姿へと変幻した。神々しい純白の細長い体型、顔がなく、肋骨を思わせる牙のようなものが背から身を守るように生えている。骨らしき翼には薄い透明の膜が張られ、不気味ながら神秘的でもある風貌だ。
「不定形では攻撃手段が多彩過ぎて、集中が難しい……てところか」
より強い威力を紡ぎ出すには、明確なイメージが必要だ。だからこそ、あえて形を作ったのだろう。がむしゃらに全力を尽くしても敵わないと見たのか、あるいは礼儀的なものか。どちらにせよ今まで以上の強敵になっているはずだ。
「まあ、攻撃を読みやすくはなったけどな」
朝霧が勝手に夕凪の口を使って喋る。アグマはそれだけ攻撃に特化させたということで、長引かせるつもりはないらしい。
「夕凪さん、朝霧さん……」
決着が近いことをユズリも空気から感じ取ったのか、後方で不安そうに名前を呼ぶ。応えてやるべきだろうか。やや間を置いて、夕凪はアグマに背を向けた。
「悪いアグマ、ちょっと待ってて」
「……応じることで、僕に何かメリットが?」
「ないけど、いいだろ。俺は命を張ってるのに、お前は勝っても負けても死なないんだ」
この状況下で相手を待たせるとは、どこまでも自由な人間だ。それが彼らしい。アグマは要求を呑んでやることにした。
夕凪は木陰に半身を隠しているユズリの前まで歩く。不安そうに出てきた少女に高さを合わせるために屈み、ギュッと抱きしめた。まるであの惨劇のときのように。
「ふあっ……ゆ、夕凪さん?」
緑髪の少女は提げているポシェットと同じくらいに赤面し、動揺する。ぴくぴく動く尖った耳に、青年の言葉と吐息がかかる。くすぐったく、それがまた嬉しい。
「……うん、大丈夫。必ず勝つから応援していて」
「は、はい。わたしはいつでも夕凪さんの味方ですから……」
「そっか。ありがとう、それなら俺は無敵だ」
最後に頭を一撫でし、少女に温もりを残して立ち上がる。その温かさと交換したかのように夕凪の体には霊素が満ちている。溢れ出て、噴き出し、止まらない。波動がアグマの体を波打つ。神という存在を揺るがすほどの力だ。
アグマは目を見張る。ちっぽけなはずの人間が、絶対的な神に迫ってくる。アグマは初めて明確な恐怖を感じた。
「お前にとっては無力にしか思えない人間を信じて待て、なんて納得できる話じゃないのはわかってる。だから俺達は、お前を倒すことで人間の可能性を証明する! ……そうしたら安心して眠っていられるだろ?」
アグマは何も返さなかった。裏切られた時から頭の中を整理してきたつもりだったはずなのに今も混乱しっぱなしで、何が自分にとって正しいのかもわからない。だから、目の前のことに集中するしかない。夕凪が指し示す、戦いという道を辿るしかない。
神の細腕が夕凪に向く。すると背から生える肋骨のようなものが急速に伸び、襲いかかってくる。夕凪は咆哮を上げて真正面から立ち向かっていった。意志を持った鋭い牙の雨を潜り抜け、受け流し……防ぎきれなかった何本ものそれが青年の体を貫く。
ユズリの心配する呼びかけが聞こえるが、夕凪の口から悲鳴は上がらなかった。それだけではなく、血も流れない。代わりに肉の穴から噴き出すのは大量の霊素だった。
アグマとユシュはハッとする。
「夕凪、まさか君は……っ!」
『ダメっ、それはダメっ!』
彼らが焦った時には、もう夕凪はアグマの首をひっつかみ、半透明の球体が二人を包み込んでいた。神ではなく、久遠寺兄弟が創りだした障壁だ。
「ぐぁ――っ!」
ゴリゴリと嫌な音を立てて神の首が締め上げられる。形を作ったために生まれてしまった急所を責められ、アグマは苦痛に悶える。抵抗の牙が何度もつき刺さろうと、夕凪の手が緩むことはない。
戦いを終えた粋や瑞音、援軍に駆け付けた聖霊騎士団戦闘部の数名が森を抜けて現れる。騎士団のサイバー型を借りた竹中と吉田の姿もあり、瑞音以外は体に激戦の痕を残している。鬼羅の刺客は二人だけでなく、それらの殲滅に手間取ったのだ。
「ユシュ、戦況は?」
粋が満身創痍の身で、しかし落ち着いた呼吸で尋ねる。
『とめて、あの人を止めて! 早くっ!』
「えっ?」
『ユズリも早く私と憑装して、助けに行かないと!』
ユシュはただ一人、焦っている。
「で、でもわたし、夕凪さんのことを応援しないと……」
『あんなの応援しちゃダメ! あの人は死ぬつもりだからっ!』
ユズリと、駆けつけた誰もが衝撃に目を見開く。遅れてエース二人は理解を示した。
「ソウルブラスト……」
瑞音は呟いた。
研究者たちから聞いたことがある、机上の空論とされている現象。霊素が意志によって繋がっているならば、その繋がりを意志で解き放つこともできるはずだ、と。
霊素体の場合は生存の意志が引力となっている。ならば正反対の――つまり破滅を願う意志ならば斥力が生じ、霊素は爆ぜ散るはず。全ての霊素を一気に解放する、それがソウルブラストだ。存在の全てを残さず対価にした威力、それ以上のものはあり得ない。
ただ、生存を願わなければ存在できない霊素体が、そこまで強く死を願うことが普通はあり得ない。だから理論上は可能でも現実では矛盾がある、机上の空論というわけだった。
戦いを続けるうちに、万に一つはそんな相手と出会うかもしれない。だから気を付けろ、と研究者には言われたが、まさか本当に実行しようとする者が現れるとは思わなかった。
「早い話が自爆するってわけね。まったくあのアホは! ユシュ、どうすれば止められる?」
『外から止めることはできない。あの障壁を破って、あの人がソウルブラストを躊躇うように接近するしかない。血が流れていないから、もう体の全部を霊素に変換している途中……時間がない、急いで!』
ユシュは戸惑うユズリに憑装させ、体の制御を奪うなり障壁の破壊に全力を注ぐ。
粋、瑞音も続き、他の戦闘員たちも続々と半透明の球体に攻撃を始めた。しかし神の障壁よりも強固な膜は、どの攻撃もまるで受け付けない。
「みんな、下がって!」
紫電の魔槍と片翼の剣が構えられ、他の全員が攻撃の手を休める。聖霊騎士団エース二人の最大攻撃が一点に集中し、凄まじい音と共に、辺り一帯にビリビリと衝撃が走る。大地すらも砕けそうな威力。それなのに、障壁は何も変わらず夕凪たちを包んでいる。
「……なんでっ、なんで壊れないんだよ!」
粋は苛立ち、焦りを露にしながら片翼の剣を振り回す。目と鼻の先にいる夕凪に触れることもできない。障壁は茜や蒼に煌めいて、非情にもピクリとすら動かない。
「出てきてくださいっ、夕凪さんっ!」
ユズリも必死に膜を叩いている。その反対側からは相変わらず紫電の槍が打ち込まれ、他にも絶えず武器が叩き込まれている。
「やめておけよ、みんな。手、傷めるぞ」
目と鼻の先で夕凪が穏やかに言った。
「だったらすぐに出てきてよ! 自爆なんかしなくたって勝てそうじゃないか!」
「無理だって。ここまで霊素を高められるのは、ぶっ放すことを想定しているからだ。保身を考えたら今すぐにでも逆転されるよ」
「それでいいから、僕達が協力するからッ!」
夕凪を貫く牙に勢いがなくなっていく。神が弱ってきたのだ。
「勝つだけじゃ意味がない。拡散させるには強烈な一発が必要なんだ。それに……」
夕凪の柔らかだった表情が少しだけ変化する。切なげで、悲しげで、なにより弱々しい。こんな顔を、粋は初めて見た。小さな拳を振っているユズリに、憂いの目が一瞬だけ向く。
「限界なんだよ。もう俺は死に続ける痛みに耐えられない」
「……えっ?」
ユズリと粋の攻撃の手が止まった。
「そんな弱音を吐くなんて夕兄らしくないだろ!」
「しかたないんだ。目標を一つ、叶えてしまったから。どんなに表面上で生きていたいと願っても、満足した深層心理が死を受け入れてしまう。本当はユズリちゃんと再会した時に消えるはずだったんだ。だけど、みんなと一緒に居たくて、居るのが心地よくて、楽しくて……つい頑張っちゃったんだよな」
夕凪の体から溢れ出る霊素は障壁の中を対流し、神の身を擦り焦がす烈風となる。茜と蒼の霊素が入り混じり、幻想のマーブル模様を描き出している。
「けど、それももう終わりだ。あとは最期に希望を繋ぐ……それを成し遂げる」
意志がさらに強くなり、神の肢体が揺らぐ。形だけではなく、存在そのものが不安定になっている。優勢は一目瞭然だというのに、夕凪は苦痛に顔を歪ませた。
今度はユズリが声をかける。
「夕凪さん。生きていることが苦しいのなら、わたしはあなたを止められません。あなたに辛い思いはして欲しくないから……」
いつしか肩を落としたユズリは、障壁への攻撃を完全に止めていた。力なく下げた手を、胸の前で握り直す。
「でも、もう夕凪さんと離れたくないんです。だからわたしを傍に居させてくださいっ!」
「俺に辛い思いをして欲しくないなら一緒に死ぬなんて言わないで、ユズリちゃんは笑顔で生き続けてくれ。そのためにも世界を守るんだから」
そう言うと夕凪は、神の首を握っている手を少しだけ緩めた。
「それに、君にはユシュちゃんもいるし、新しい居場所もある」
「新しい居場所……?」
ユズリは考えるより前に、聖霊騎士団の一同を見渡していた。まだ輪の中に入って間もないけれど、みんな温かく接してくれる。
「だけどアグマは、俺が見捨てたら一人なんだ。放ってはおけない」
「……夕、凪――っ!」
圧迫されていた喉がわずかに解放され、アグマから苦しげな声が漏れる。
「お前を一人にはさせないから。眠る時も、起きた後の世界でも……そこにきっと、俺はいないけど……争う理由がなくなれば、みんなと一緒にいられるだろ?」
大地が、空が揺れ動いているようだ。神をも凌駕する強大なエネルギーが障壁の中に満ち溢れ、外界にまで影響を及ぼしている。その力を放っている本人以外は誰も立っていられず、翼を持つ者も不可思議な圧力で飛ぶことができない。続々と地に伏していく。
「夕兄、朝兄ッ!」
「夕凪さんっ!」
とりわけ彼らのへの想いが強い二人は、そんな状況でも絶えず叫び続ける。その姿を見て、朝霧は夕凪の口を借りる。
「希望を繋ぐ……か。押しつける、と言った方が正しい気もするが、さておき夕凪にしちゃ頑張った方だ。褒めてやれよ、粋」
「朝兄はこれでいいのっ? 自分が死んでも、夕兄が死んでもっ!」
「良いってわけじゃねぇよ、当り前だ。俺達はきっと人類史上で誰よりも死にたくないから前例のない人間の霊素体、半霊素体として存在できているわけだしな。でもまあ、自分の命より大切なものがあるって、ただそれだけの話だ。だから概ね満足している。今回はお前らに別れの言葉も言えるしな……さよならだ、粋。それとユズリ、再会を邪魔したり夕凪を止めなかったり、お前には何度頭を下げたって足りねぇけど……ごめんな」
朝霧は一方的に言うだけ言うと、口を夕凪に返還する。
「別れの言葉――苦手なんだよな、そういうの。とりあえず粋、瑞音ちゃんと仲良くな。ユズリちゃんは、そうだな……明るく元気に過ごして欲しい。それとみんな……後を頼む。どうか霊素の問題を解決して、アグマを救ってやってくれ。俺の部屋に残留霊素で記録した研究資料があるから、研究部に渡してもらえれば足しにはなると思う」
今や暴れ狂ったエネルギーの嵐で、粋達からの叫び声は聞こえなくなっていた。二人だけでなく瑞音、竹中や吉田、その他の騎士団員も口を大きく開けているというのに、圧が喉奥にまで入り込んで音を押し返している。
これだけ荒々しい景色の中で、音は何一つ鳴っていない静寂。それを突き破ったのはアグマの悲鳴だった。
「やめろ、夕凪っ! やめろおおおおおおおおおおおおッ!」
「お前にも穏やかな未来が、きっとあるから……おやすみ、アグマ」
優しい声と、星を砕くくらいの轟音が重なる。
障壁の中に満ちた久遠寺兄弟の霊素は爆発し、神の身を爆ぜ消す。余った力が障壁を内側から粉砕し、突風と衝撃を放射状にまき散らす。ただ、それは誰の身を傷つけることもなく、木々を薙ぎ払うでもなく、あらゆる物体の周囲を駆け抜けていく。
何も傷つけない、それは夕凪が示した最後の意志だった。
その彼が立っていた場所には、骨の一つも残っていなかった。物理に干渉しない霊素の爆発は何事もなかったかのように、大地をそのままの姿で残している。
夢から覚めた、そんな錯覚に陥るほど綺麗に彼らだけが消えていた。
粋は茫然と立ちあがり、放心したまま夕凪が消えた場所を見続ける。その目からは静かに涙が流れ、頬を伝って地面を濡らす。
不意に冷たい風が吹いた。まるで夕凪の命が燃え尽きたことを示すように、長かった残暑が引いていく。
「……う、あ……っ」
「ユズリ?」
少女の嗚咽声が聞こえて、粋は我に返った。
「……やっと会えて、これからずっと一緒にいられると思ったのに……わたし、もう夕凪さんと会えないの……?」
信じたくない現実を呟き、噛み締めていく。ふらふらと立ち上がり、夕凪が消えた場所へ危ない足取りで歩く。彼のいない景色を見つめるほどに目から光が消え、涙が流れる。
「や、だよ……そんなの……」
行き場のない感情が小さな体を震わせる。血の気が引いた顔は徐々に青白くなり、絶望に濡れていく。顔中に爪を立てて切り裂きたい、首の肉をむしりたい、いっそ自らの心臓を抉りたい……そんな衝動が現れては消える。
「そんなのやだぁ……そんなのやだよぉ……っ!」
小さなガラス玉が一つ、高いところから落ちて割れる音。それに似たものを、ユシュは聞いた気がした。
「う、あ……うぁああああああああああああああああッ!」
全てを引き裂くような甲高い絶叫が響く。どうしようもない現実を壊したくて、あるいはそこから逃げたくて、自分の破滅をも厭わずに激情を吐きだしては絶望を吸い込む。
「粋っ、ボーっとしてないで、ユズリちゃんを落ち着かせるよ!」
瑞音は粋の腕を引いてユズリの前に向かう。
「落ち着かせるって、どうすんのさ!」
「わからないけど……放っておけないでしょ? それにあたし達、久遠寺さんから後を任されたんじゃないの?」
その言葉を受けて、粋は目元を袖で拭った。
「俺も協力するッス」
「俺もだ。子供の扱いはわからんが……頑張ってみよう」
竹中と吉田が歩いてくると、他の団員たちも続々とユズリの周りに集まってくる。各々なだめようとしても、刃のような絶叫を続ける彼女が治まる気配はない。
――が、唐突に彼女は静止した。涙が止まり血色もよくなり、声も止んでいる。
「……ユズリ?」
「違う、私。このままだとユズリの心は耐えられないから、憑装して意識の奥にユズリを沈めておいて、しばらくはこのまま生活する。……もう二度と、ユズリは表に出て来られないかもしれないけど」
ユシュが体を支配したらしい。心が壊れた少女の意識を拘束するのは容易だった。
「でも、活動限界があるんじゃなかったっけ」
「戦わなければ頑張れる、と思う」
そう言うと彼女は、研究所の跡地を背にして歩き始めた。
「……護衛、しなきゃだね」
「ああ、うん。そうでなくてもユシュは守らないと……」
瑞音が少女を追いかけると、団員たちも続く。
「朝兄、夕兄……」
粋はぽっかりと心に穴が空いたように、立ちつくしている。哀しみよりも虚無感が勝っているようで、一度拭いた後に涙は流れなかった。もしかしたら無意識下で覚悟はできていたのかもしれない。どこかで彼らの選択を予想していた、そんな気がする。
「……あ」
草の間になにかが光っている。摘まみ上げて天に掲げると、透き通った珠を陽光が貫いて目に届いた。霊珠だ。おそらくアグマや朝霧を収めていたものだろう。透明ということは、中には何も入っていない。
粋はそれを握り、眩しい光を放つ太陽を見つめた。やや弱々しくなった日光に溜息をぶつけて、冷たい空気を肺に詰めて――。
「……っし!」
気合を入れ直した。