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プロローグ

 赤い警報ランプの光がおどり狂う廊下を、少年はひた走る。涙と血で汚れた顔を恐怖に歪ませ、小脇に緑髪の幼い少女を抱えながら。

 何より大切にしていた両親と兄が目の前で惨殺されてから、まだ一〇分も経っていない。家族の死に対する心の整理はおろか、なにが何だかわからない状況で逃げ続ける。子供一人と先に負った足の怪我、疲労など、いくつもの枷が走る速度を著しく低下させる。

 それでも足を止めることは許されない。

 迫り来る轟音が、それを許さない。

 数多くの命を摘み取った怪物の追走――足音の周期は遅い。しかし一つ一つが腹を揺さぶる衝撃を発し、天井を崩落させながら追って来るのだ。

 音は徐々に近づいて来て、猛々しい咆哮が全身の毛を逆立てる。

 少年の前に機械の扉が立ちふさがった。

「……くそっ、開かないっ!」

 電子ロックが掛かっているのだが、少年は開け方を知らない。仮に知っていたところで、電気が通っていないのでは正規の開錠などできない。

「ちょっと待ってて」

 少年は生きた目をしていない女児を廊下の隅に立たせ、自身の細く若々しい身体を扉に叩きつける。

 何度も、何度も。

 懸命な体当たりに対して強固な金属扉はビクともせず、いたずらに少年の体を痛めつけるだけだった。続けるうちに肩から鈍い音が鳴り、激痛が走る。骨が折れたのだろう。

 背後で足音がピタリと止まった。

 少年がおそるおそる振り返ると、息を荒くした巨大な怪物が立っていた。身体は見るからに硬い鱗に覆われ、頭部は高い天井に遮られて見えない。

 爪から赤い液体が滴っている。それには少年の家族の血も混じっていた。その光景は、まさに絶望そのもの。

 ――もう諦めようか。

 頭の片隅で生まれたそんな考えが、じわじわと侵食を広げる。もう家族はいない。加えてこの状況は袋のねずみ、助かる算段もない。ここで足掻く意味があるのか、少年の心に迷いが生まれる。

しかし――横目で脇に立たせた少女を見る。なにを思うことすらままならない小さな命がそこにはあった。そうして自分の使命を見出す。

まだ、何もかもを諦めるわけにはいかない。

 世界の全てだったと言っても過言ではない両親と兄の死で、久遠寺夕凪は生きる希望を失った。しかしこの幼い少女は、まだその希望を見つけてすらいない。

見つけても失うかもしれない。ここで死ぬことの方が幸せなのかもしれない。時には死が救済になり得るのだと、今ならば思えてしまう。

 突然襲いかかってきた理不尽な不幸を噛みしめると、涙が頬を伝った。しかし同時に、家族と過ごした幸せな時間も思い出される。失った悲しみは大きいが、少年にとっては今までの幸福の方が大きい。

 だから少年は奮い立つ。

「今は希望がないとしても――っ!」

 声を張り上げ、握り拳を作り、己を鼓舞する。そして素早く女の子を抱きかかえた。

「君は生きるんだ!」

 小さな頭に手を回して、怪物を睨みつける。

「…………」

 女の子は無表情で黙ったままだ。

「いいかい、俺が少しでも時間を稼ぐから、走って逃げるんだ。絶対に振り向かないで、隠れながら逃げて」

 少年は腕の中で身じろぎもしない少女に言い聞かせる。

「……お兄ちゃんは一緒じゃないの?」

 渇いた声が返ってきた。ひどく弱々しい、今にも消え入りそうな声だ。

「ごめん。多分、一緒には行けない」

「わたし、お兄ちゃんと一緒にいる。一人は……イヤだから」

 チクリと胸が痛んだ。無力感に飲み込まれそうにもなった。

 今の彼らには希望がない。無事に絶望から逃げられたとして、その先にも光がないのだ。うまく事が運んだとして、ただ死という状態から離れられる、それだけのこと。

 そんな心理状態で、この子が逃げ果せるはずはない。

「じゃあ、さ……また後で会おうか」

 自然と言葉が口から漏れる。もちろん出まかせだ。

「あとで?」

「そう。別々に逃げて、あとでまた会うんだ。それならどうかな」

「…………うん」

 彼女はまるで状況を理解していない。だからこそ、こんな言葉を簡単に信じてしまう。

 迎えに行けるかどうか、少年にはわからない。おそらく不可能だろう。それでもこの約束が一人になった後での希望――その一欠片にでもなれば良いと、そう思った。

 今は追い詰めた獲物を観察している段階だが、怪物もそう長くは待ってくれないだろう。少年は唾液に恐怖を包んで飲みこむ。

 たった十二年しか生きていないが、少年は人生でこれほど使命感に燃えたことはない。これほど瞳に活力を漲らせたことも、これほど生を実感したこともない。

 ふと、笑みがこぼれた。

 抱える子を安心させるためでもあり、もうすぐ家族と会えるという安堵でもあり、価値ある行動に対する満足でもあった。

「それじゃ、また後で」

 少年は少女をきつく抱きしめ、怪物にも劣らない叫び声を上げて走り出す。

 上方から二人を捕食しようと牙が降りてくる。

「……今だ、逃げろッ!」

 牙の一本が少年の背中を貫く瞬間、その腕から小さな体が放り投げられる。二転三転と地面を転がった後に、少女はむくりと立ち上がった。

「こっちを向くな、走れぇッ!」

 吐血と共に吐き出したこの言葉は届いただろうか。鋭い牙に上下から貫かれ、視界も思考も濁っていく中で、彼女が走り去る姿を見た。

 頼りない背中と足取りで、それでも健気に少年の言葉に従っている

 角を曲がって見えなくなるまで、ついに彼女が振り向くことはなかった。

 ――強い子だ。あれなら、大丈夫。

 きっと無事に逃げられるだろう、そう信じて少年は安堵する。

 幾度か咀嚼され、死は間近にある。もう何も見えない。痛みも感じない。

 あの子はいつか自分を恨むだろうか、ろくに働かない頭でそんなことを考える。約束をしておきながら果たさない、それが心残りではある。

 ――なにを思っても今更か。

 心に蓋をするように、自ら思考の停止を試みた。唯一働いていた聴覚も薄らいで、肉を裂いて骨を砕く不快な音が徐々に小さくなる。

 そんなとき、聞こえるはずのない声を感じた。

「……間に合わなかったか」

 無音の中でハッキリと響いてきた。聴覚の衰えをも無視する、異質な若々しい声。

「面倒なことになったのかもね、僕も……君も」

 意識が闇に沈みかける中で、少年は神に出会った。



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