第一章 17 突然の訪問者
クロエおすすめの【騎士の規律】という本を読んでいた時、書庫のドアが控えめに叩かれた。
部屋の主というわけではないので返事をしようか迷っていると、向かいに座っていたクロエが静かに立ち上がりドアの方へと向かって行った。
そうしてクロエがドアを開けると、そこには眉間に皺を寄せたリュカと心底めんどくさいといった態度のアンリが立っていたのだった。
「失礼する。」
短くそう言ったリュカはつかつかと足早に俺の前へとやって来ると、昨日とはまた違った難しい顔をしてじっとこちらを見つめてくる。
おいおい、昨日の今日でいったい何の用だよ。
せっかくクロエとヌコ様のおかげで、落ち込んでいた俺の心も浮上してきたっていうのに。
そう心の中で悪態を吐きつつも、それらが言葉として口から出てくることはなかった。
そう、俺は完全にビビってしまっていた。
リュカとは目が合っている。
だがそれは体が硬直してしまって逸らすことが出来ないだけなのだ。
緊張と恐怖。
この二つが俺の頭の中を占領していて、体のてっぺんからどんどん血の気が引いていく。
…だって、無理だろ。
昨日二人にあんだけ言われてんだぞ。
こちとらとっくにメンタルぼろぼろだっつーの。
そんな俺の心境を知ってか知らずか、リュカは相変わらずの怖い顔にさらに力を込めると、いままで固く結んでいた口を開いた。
まだ何か言うつもりなのかよ!!
「…昨夜は、すまなかった」
…………は?
身構えていた俺に不意に届く謝罪の言葉。
虚を突かれた俺は、ついリュカの顔をまじまじと見てしまう。
な、なんでそんな顔してるんだよ。
そんなまるで、本当に申し訳ないと思ってるみたいな…
「朝食の席に貴殿の姿がない事に気づき、そこのクロエ殿にお聞きしたところ、昨夜の私と…このアンリの言葉にひどく落ち込まれていて食事も喉を通らないのだと聞いた。」
そう言うとリュカはアンリの背を押して隣に立たせる。
当のアンリは不貞腐れているかのように視線を合わせようとしないが、リュカに名を呼ばれてしぶしぶ俺と目を合わせた。
アンリの三白眼が睨むように俺を捉え、思わず姿勢を正す。
「ナユタ殿…といったか。改めて謝罪を。昨夜は私と我が従者が配慮の足らない発言をしてしまった、申し訳ない。特に私のあれは完全なる八つ当たりであった。貴殿に責はないにも関わらず…内に燻る怒りを抑えられなかったのだ。私の不徳の致すところだ、重ねて謝罪する。」
「え、いや…俺も、ずいぶん騒いじゃったし…」
「そうですよ。配慮が足らないと言うなら、この方にだって言える事じゃないですか。だからいちいち謝罪とかいらないんですって」
「バカを言うな。例え相手に非があったとしても、こちらが無礼を働いていい理由にはなるまい。ましてやナユタ殿は、こちらの事情を何も知らなかったのだぞ?詳しく話もせず、ただ察しろという方が無理があろう。ただでさえ分けの分からぬ状況に投げ出され辛い思いをしているというのに…私は八つ当たりをし、お前は要らん説教をしたという。これを非と言わずしてなんとする。」
捲し立てるようにそう言われ、アンリは口を尖らせるようにしてぶつぶつと何か言い出す。
そんな態度にリュカがもう一度名を呼び窘めると、アンリはため息交じりに「わかりましたよ」と言って俺に向かって話し始めた。
「貴方のその体はシャルル様のそれです。これはどんなに認めたくなくても事実ですし、昨夜私が言ったことも間違いなく事実です。」
「アンリ!」
「むぅ、最後まで聞いてくださいよ…。私の言った事は間違っていない。ですが、少し言葉がキツかったのも事実…でしょう。貴方にとっては訳の分からないまま、理不尽に文句を言われてるように聞こえたでしょうし、現に貴方がシャルル様の体に居る事は不可抗力だったのでしょう?ですので…あー…何と言うか………ごめんなさい、でした。」
「ん。という事で、ナユタ殿。どうか我々の愚行をお許し願いたい。無為に貴殿を傷つけるつもりはなかったのだ。申し訳ない。」
そう言うと二人は深く頭を下げたのだった。
何と言うか…変な気分だ。
だってこの二人とは、きっとずっと相容れることはないのだろうと思っていた。
事あるごとにチクチク言われて、ずっと目くじらを立てらるのだろうって…
それなのに、こんな風に二人して真面目な顔しちゃってさ。
なんつーか…すげぇ今更感が漂ってこない?
後で謝るくらいなら最初からするなってんだよ!
まったく、これだから最近の若者は理性が足りないとか言われちゃうんだぜ?
…でも、ま。
こうして謝ってくれてる事だし、ここはビシッと叱ってから大人の余裕で許してあげますかね!
年下の指導も大人の仕事だ、もうこんな事しないように少しきつめに言い含めておこう。
特にアンリは反省してるか微妙な感じだし。
やれやれ、俺って男は人が善いなぁ。
こんな蛮行をしでかした若輩者たちを、誤解も恐れずに叱り飛ばすってんだから。
憎まれ役も辛いんだぜ、ほんとに。
しかしこれも後輩指導だと思って、一言キツイのをお見舞いしてやりましょうかね…
「…っ!あ、あり、がどう…」
あ、あれ?
おかしいな、次の言葉が続かない。
こっから俺のターンが始まるはずだったのに、目から汁が止まらねぇ!
なんだこれ、新種の病気か?
あー…ダメだ。
俺も歳なのかなぁ、全く止まる気配がない。
ちくしょう、こんなことになるのならもっと心構えをしておけばよかったぜ。
こんな不意打ち、効果抜群にも程があるでしょーよ。
まったく…でも、うん。
嬉しかった。
少しでも分かってもらえて。
分かってくれてるって事が分かって、すげぇ嬉しい。
だからだろうな、こんなに涙が止まらないのは。
うれし泣きなんて人生初かもしれないぞ。
一生懸命涙を拭っていると、不意に目の前に白いハンカチが差し出されていることに気が付いた。
俺は驚いてそのハンカチをしばらく凝視してから、ゆっくりとそれを持つ手を遡っていく。
するとそこには、睨むようにしてそれを突き出すアンリの姿があったのだった。
「みっともなく泣かないで下さいよ、こっちがいじめてるみたいじゃないですか。ほら、もう大きいのですからしっかりして下さい。」
「お前…またそんな失礼な言い方を。もう少し言葉を選ぶことはできないのか?」
「余計なお世話ありがとうございます。参考にする気はさらさらありませんので、右から左へ聞き流しておきますね。」
「まったく…いつまで経っても変わらないなお前は。だからシャルルにも呆れられるのだぞ?」
「は?今シャルル様の話してました?どうしてそこでシャルル様が出てくるのか皆目見当もつかないんですけど?なんです?ボケちゃったんですか、そうですか。ご愁傷様です。…というか、貴方もいつまで呆けてるんですか?ハンカチ、要らないならしまいますよ?」
二人のやり取りがあまりに自然体だったので、ついボーッと見てしまっていた。
俺は引っ込められそうになるハンカチを慌てて受け取り、折角なので遠慮なく涙をふき取る。
お、何かいい匂いする!
まるで女の子みたいだな…これぞ貴族の嗜みというやつなんだろうか?
ふむ、とりあえず…くんかくんか。
「ちょ、ちょっと!?何、人のハンカチの匂い嗅いでるんですか、変態!切り刻みますよ?」
そう言ったアンリは腰にさした剣に素早く手を添える。
こわっ!
断罪の決断が速すぎるだろ!
「そ、そんなに怒るなよ、いい匂いだったからちょっと嗅いだだけだろ?それに、そこまで警戒しなくても俺は男に興味ねーよ。」
「ん?いや、アンリはおん…」
「それは良かった、一安心ですね。まったくどうでもいい情報、ありがとうございました。それと、そのハンカチは差し上げますのでどうかこちらに近づけないで下さい。」
お願いしましたからね、と言いながらアンリはリュカを押しのけた。
おいおい、そんな事して大丈夫なのかよ?
さっきから聞いてれば主に対して言いたい放題…アンリって本当にリュカの従者なのか?
何か敬ってる感じ出しつつ全然な態度じゃない?
大丈夫?この二人の主従関係…。
「あー…とにかく、一度しっかり謝罪がしたかっただけなんだ。アンリは…まぁ、いつもこんな態度なので誤解されやすいんだが、一応悪いとは思っているようなので勘弁してやって欲しい。…一応後でもう一度言い含めておこう。」
「いや、大丈夫だよ。二人の謝罪はきっちり受け取ったから。」
そう伝えるとリュカは「そうか…」と零すように呟いて柔らかく微笑んだ。
…なんだ、普通に笑うんじゃん。
ここに来てから眉間に皺を寄せてる顔しか見てなかったから、もっと堅物なのかと思っていたぜ。
そっか、こんな風に笑う奴だったのか…
二人がこうして謝りに来てくれなかったら、きっと俺はこの事を知らないまま…ずっと誤解してビクビクしながら過ごしていたんだろうな。
そう思うと、本当に二人には感謝の気持ちしか出てこない。
これから友人になれたり…するんだろうか?




