第一章 12 再来の恐怖
何が起こったのか分からず呆然としてふと顔を上げると、目の前に黒い靄のようなものあった。
それはゆらゆらと揺らいでいて、いまいち距離感が掴めない。
なんだろう、これ…?
というか、俺はいったいどうなったんだ?
ノエルは?クロエは?
「ナユタ!!」
叫ぶような呼び声が聞こえ、俺は何とか首だけを動かし声の主を探す。
視線を下げた時、クロエに支えられるように立っているノエルの姿を見つける。
良かった、二人とも無事みたいだ。
…あれ、何かおかしくないか?
どうして二人を見るのに俺は視線を下げた?
どうして今も二人は俺を見上げているんだ?
何だ何だ、何がどうなってる。
どうしてノエル達は下に居る?といか、そもそもなんで俺は浮いてるんだ!?
段々と痺れてくる頭を働かせるべく、忘れていた呼吸を再開する。
が、どういうわけかいくら吸っても肺に空気が入って来ない。
というか全然吸えていない。
な、なんでこんな…!?
さらに混乱する頭をフル回転させ、何とか体を捻ってみようともがく。
何故かはわからないが、今はもがかなくてはいけないような気がしたのだ。
しかしいくら身をよじろうと腕や腹筋に力を込めようと事態に好転の兆しはなく、圧倒的な力によって現状が維持されているようだった。
だが、そうすることでやっと、俺は俺の置かれている現状を理解することができた。
締め付けられる感覚と骨が軋む音、内臓が圧迫されることにより酸素を取り込むどころか吐くことしかできないこの状況。
そう、黒い靄のような腕が俺の体を掴んで握り絞めているのだ。
「ぐっ、う、あああぁぁあぁぁ!?」
どうにか逃れようと全身に力を入れるも、びくともしない。
それどころか俺を締め付ける力はどんどん強くなってきて、もういつ内臓が飛び出してきてもおかしくない。
先ほどからミシミシという音の合間に枝を折るような大きな音が混じる。
そのたびに激しい痛みが襲ってくるので、おそらくどこかの骨が折れる音なのだろう。
意識を失いそうなってもそれで強制的に覚醒してしまうので、いつまで経ってもこの痛みから逃れることが出来ない。
なんだよ、なんだってんだよ…
俺はこのままよく分からない靄に握りつぶされて死んじまうのか?
意味も理由も分からず異世界に連れてこられて、そんで何も解決しないままあっけなく死んじまうのか?
何だよ…じゃあ何のために俺はここに来たんだよ。
こんな風に殺されるために連れて来ただなんて言うつもりかよ。
ふざけんじゃねぇ、人をなんだと思ってんだ。
まったくよ…
「ふざけてんじゃねぇぞ、こらああああああ!!」
俯いていた顔を上げて残った酸素を全部使い切るように叫ぶ。
理不尽に不条理に俺を握りつぶそうとしているそいつに、何が何でも一矢報いたかった。
だからせめて、俺の恨みを込めた渾身の睨みを利かせてやろうと思ったんだ。
だけど腕を辿ってたどり着いたそいつの姿を見てしまったら…
そいつが何なのかを認識してしまったら…
今まで考えていたことはなどすべて吹き飛んで、ただ”なぜ”という言葉だけが俺の中に渦巻いた。
黒く…ただどこまでも黒いそれは靄か炎のように揺らめきながら、しかし霧散するようなことはなくその形を保っていた。
以前見た時は俺の目の前で力なく横たわっていた者。
それを目にした全てを容赦なく恐怖へと突き落とす存在。
あの時は光を失っていた瞳も今は力強くこちらを見据えている。
嘘だ、だって、あの時は確かに死んでいたはずなのに。
ノエルだってついに討ち果たしたと言っていたはずなのに。
何故…どうして今、俺の目の前にあの時の竜が居るんだ?
「え?なん…っ、い、ぎぃ、あ、あああああ!!」
痛い…あ、頭が割れそうに痛いっ!
何かが洪水みたいに頭の中に流れ込んできて俺の中を無茶苦茶に暴れまわってる。
やめろ、やめろ!入って…来るな!!
壊れる 溢れる
痛い 苦しい
寂しい 怖い
悲しい 虚しい
愛しい 妬ましい
憎い…
ごめんなさい…
「な、に…泣いてんだ…?」
誰かが泣いてる。
この子は誰だ?
謝るなよ、お前はただ…
途端に落ちるような浮遊感が襲ってきて、俺は意識を手放した。
――――――
―――――
――――
……
気が付くと、また知らない部屋に居た。
いや、正確には知らない部屋じゃない。
今朝目覚めた部屋だ。
外を見ると丁度夕日が沈んだばかりの様で、濃紺の空にはまだオレンジ色が残っていた。
また気絶か…
こっちに来てから寝てばかりいる気がするなぁ。
仕事してた時は不眠不休なんてざらだったから、なんか悪いことをしてる気分だぜ。
ま、どれも不本意な眠りだからラッキーだとは思えないけど。
「あれは、何だったんだろうなぁ…」
気を失う前に見た光景。
砂嵐の中に居るみたいに不鮮明だったけど、確かに誰かが泣いていた。
見ていると胸が締め付けられるみたいに切なくて悲しい姿だった。
竜に殺された人たちの怨念だったんだろうか?
でも憎いっていうよりはただ悲しかった。
ただただ、寂しかった。
「ナユタ様、お目覚めでしょうか?」
軽いノックの後に続いてクロエの声が聞こえてくる。
まーたずいぶんとタイミングのいい訪問ですこと。
これが偶然であるというのなら、クロエはメイドに成るべくして生まれたと言ってもいいかもしれないな。
人の寝起きを認識する程度の能力…
使いどころが難しいな。
ひとまず俺が短く返事をすると、開かれたドアからクロエと共にノエルが入ってきた。
おぉ、美少女二人の登場だ!
「ごきげんよう、ナユタ。気分はどう?どこか痛むところはある?」
「いーや、全然。痛かったのがウソみたいに元気だよ。またノエルが治してくれたのか?」
「え、いえ今回はノアヴィス様が…。結構大変な状態だったから…」
そう言ってノエルは少し青ざめながら顔を背けた。
あー…、やっぱ飛び出してたのかな?
何にしても女の子に見せていい光景ではなかったんだろうな、きっと。
悪い事をしたぜ。
いや、俺は悪くないか。竜のせいだな、竜の。
「ってそうだ!竜だよ竜!あの後どうなったんだ?全員無事なのか!?」
俺が最後に見たのはノエルとクロエだけだった。
あとは目の前いっぱいに竜の姿を見て気を失っちまったから状況がまったくわかんねぇ。
ここに二人が居るってことは何とか追い払ったって事なんだろうが、被害の程は計り知れない。
俺ですら一目で力の差が分かるような奴だ、きっと苦労した事だろう。
「あの時、ナユタが叫んだ声を聞いてノアヴィス様やジークさんが駆けつけてくれたの。お二人はナユタが捕まっているのを見て、すぐに攻撃を始めたのだけれど…。」
そこまで言うとノエルは顔を俯かせて口を噤む。
おいおいどうしたんだよ、顔が真っ青だぜ?
まさかその攻撃の流れ弾で俺がぐしゃっとなっちゃったとかって話?
いーよいーよ、今が無事ならもう何でも。
…ん?え?まさか誰か死んだ…のか?
「ご安心くださいナユタ様。皆、傷一つなく無事でございます。」
俺まで顔を青くし始めたので、見かねたクロエがすかさず補足する。
それを聞いて俺はひとまず緊張を解いた。
なーんだ、みんな無事でいやがったのかよー。
…よかったぁ。
「ごめんなさい、ナユタ。私が黙ったせいで変に心配させてしまったわね。そう…みんな傷一つ負うことはなかったわ。不思議なことに竜は私たちに何もしてこなかったの。」
「へ、何もしてこなかった?え?何?俺を掴んでギュッとしただけ?他になんもしてこなかったの?」
ノエルは肯定するように頷く。
…何だそれ。
いや、人も建物も被害がないならそれに越したことはないんだけどさ。
じゃ、あいつは何しに来たんだって話になるよね?
まさか散歩しに来たわけでもあるまいに。
となると……俺を、殺しに来た?
そう思い至ったところで膝が痙攣しているかの如く震え始める。
いやいや、落ち着け俺。
大丈夫、ちゃんと生きてるんだから…大丈夫。
「じゃ、じゃあさ、何もしてこなかったんならそのまま倒しちゃえば良かったんじゃないか?…ん?あれ?もしかしてもう倒した…?」
ふるふる、とノエルは首を振った。
どうやら倒せたわけでもないようだ。
何もしてこない、でも倒すこともできなかった。
そんでもって全員無傷で、捕まってた当の俺自身も生きてる…ということは?
おいおい、本格的に何がしたかったのか分からなくなってきたぞ?
だいたい何故竜は俺を痛めつけただけで殺さなかったんだ?
それに、他の奴を攻撃しなかった理由は何だ?
竜はいったい何がしたかったんだ?
「邪竜にね、私たちの攻撃は何一つ通用しなかった。効かなかったんじゃなくて当たらなかった。まるでそこに何も居ないみたいに、全てがすり抜けてしまって…。そうこうしている内に、竜はナユタを地面に置いて飛び立っていったわ。……私たちにも何が起こったのか分からないの、だって目の前に人が居るのにも関わらず邪竜が攻撃をしてこないなんて今までなかったことなんだもの。それにこちらの攻撃がすり抜けるなんて事もいままで…なかった。ごめんね、きちんと説明してあげたいのだけれど、私たちも混乱…してるんだ。」
そういうとノエルは片手で前髪を上げるように頭を抱えた。
困惑と混乱、そして憔悴しているようにも見える。
何とかして答えを導き出そうと、今も考え続けているのだろう。
しかし一つ一つ自分でも確かめるように放たれたノエルの言葉に、なぜだか俺自身は冷静になれていた。
混乱している時に自分以上に混乱している人を見ると冷静になれるって奴だろうか?
呼吸は静かに、強張っていた手足も今は無駄な力が抜けている。
これなら何を聞いても落ち着いて理解することが出来そうな気がする。
俺が聞いても意味はないのかもしれないけど、それでも何も知らないままで居るのは居心地が悪い。
ノエルも話して聞かせる事で新しく気が付くことがあるかもしれないし、ここはひとつお願いしてみる事にしよう。
「ノエル、話してくれないか?あの時起こったことをはじめから、全部。」
「え、あの時の事?…うん、わかった。じゃあ、ノアヴィス様とジークさんが駆けつけてくれたところから話すね。」
俺は居住まいを正すとノエルの話に耳を傾ける。




