第二章 66 手をつないで
雨季に入ったというこのクレアシア王国の今朝は、ここに来て凄まじい雨音と共に一日が始まった。
朝食を持ってきてくれたメイドの話によると、雨季と言っても今日のような日は珍しく基本的には弱い雨が長く続く場合が多いのだそうだ。
それを聞いた俺はぼんやりと、この世界にも地球温暖化や異常気象なんてものが存在するのだろうかと考えていた。
邪竜がいて、それに伴う魔物のいるこの世界で気候までもが人々に牙をむくなんて事があるのだとしたら、それはとんだ理不尽だなと思う。
あまりに命を脅かす危険が身近すぎる。
確かに俺のいた世界だって決して不幸がなかったわけではないけれど。
争いや騙し合い、そして理不尽な死なんてものも少なからずはあったけれど。
それでもこの世界の住人達に比べればとても幸福で恵まれた環境にあったのだと思う。
―――生きていくには殺す道しかなかった。
あの兄妹はそう言って、俺はそれを咎めなかった。
そんな世界に放り出された事のない人間がそれを否定する権利はないと思ったからだ。
でも、これは違う。
この殺しは違う。
生きていくためでも、まして守るためのものでもなかったこの犯罪は、明確な理由は分からないままただの外道に落ちたのだ。
あの四人とあの一人を手に掛けた時点で情状酌量の余地なくなった。
いや、本当は最初からそんなものなどなかったのかもしれない。
理由なき殺人、快楽かそれとも憂さ晴らしなのか。
何であっても俺は行かなくてはならない。
例え誰であったとしても、どんな理由があったのだとしても、あの殺人鬼は俺が止めたい。
「おい、聞いておるのか?そこのぬしじゃ、ぬしに話しかけておる!」
城の軒で空を睨みながらどうにか雨が弱まらないものかと様子を窺っていると、激しい雨に打たれた小さな影が声を掛けてくる。
少し驚きつつもよく目を凝らしていると、それはもさもさと緑を揺らしながら俺の目の前までやってきた。
偉そうに胸を張り佇む緑のそれは、またもや偉そうに鼻を鳴らすのだった。
相変わらず雨に打たれたままで軒に入ってこないのは、昨日も言っていた通り城に入れない…という事なのだろうか。
「あぁ…お前か。どうした、今日のその格好は?草と葉っぱの鎧か?」
「儂が雨に濡れておるとぬしが要らぬ心配をするので作ったのだ!どうだ、これなら文句なかろう?」
「あぁ…ずいぶん立派なの作ったんだな、似合ってるぞ。」
「…ぬし、今日は元気がないんじゃな。昨日の伊勢はどこへ置いて来たのだ!そんな事では立派な大人になれはせんぞ!…まぁいい、人の心は移ろいやすいものだと儂も承知しておる。ほら、今日はこれを返しに来たのだ、受け取れ。」
そう言った少女は懐に手を突っ込むとずるずると大きな布を取り出し始めた。
その絵面はなかなかの恐怖映像だったのだが、少女があまりにもやりきったような清々しい顔をしていたので苦笑いでやり過ごす。
「…あぁ、俺の貸した外套か。助かるよ、どうやってこの軒から出ようかと思ってたところだったんだ。雨も弱まりそうにないし…いや本当に助かった。」
「ふん、礼を言うのはこちらの方なのだが…これでは昨日とあべこべだな!儂がぬしに外套をやるなどと…いや、これは元々ぬしのものであったか。そういえば、儂のやった花はどうじゃ?綺麗に咲いておるだろう。」
「あぁ、不思議だな。切り花ってすぐに萎れちゃうかと思ってたけど、昨日一日胸に差してたのに今もこの通り綺麗に咲いてるよ。」
「当然じゃ!言ったであろう、それは儂のとっておきなのじゃと!ぬしのような人間ならばそうそう枯らすまい。」
少女は緑をもさもさと揺らしながら豪快に笑う。
この振る舞い、この喋り方、どれをとっても普通の少女だとは思えない。
リアにも…恐らく一緒に居た子供たちにもこの少女は見えていなかったのだろう。
だとすると答えは一つなのだろう。
「なぁお前、名前はなんていうんだ?人間…ではないんだろ?」
「お?なんじゃ、気づいておったのか?つまらぬのぉ、いつか驚かせてやろうと思っておったのに。まぁいいか。うむ、いかにも儂は人ではない。儂は花の開花を知らせ種を運ぶ者、名をミラという。今はわけあってこの城に住み着いておるが、元は湖と星の境に住んでおった。」
「ミラ、か。いい名前だな。それで、お前はここで何をしてるんだ?」
「儂か?儂はこの城を守っておる。以前ここの子供と約束したのだ、『城の中は僕が守る、だからミラは城を外から守って欲しい』とな。いやぁ、実を言うと儂はそんな強くはない…というかべらぼうに弱いのじゃが、友にそう頼まれては断れまい?なのでこうして儂なりに、この城を守っておるというわけじゃ。かれこれ三十年以上もじゃ、すごいじゃろ!!」
「三十年!?こりゃ驚いた…いろいろと。というか、お前を見えるって俺だけじゃなかったんだな。」
「そうじゃな、人の子は無意識に儂の存在を捉え一緒に遊んだりもしておるが、約束をしたその子はぬしのようにしっかりと儂の姿が見えていたようじゃ。今も見えるのかどうかは…知らんがな。」
「なんだ、会ってないのか?」
「うむ!お互い約束をしたその日から会ってはおらぬ。しかし案ずるな、この城が今もこうして成り立っているのはその子が今も頑張っておる証拠じゃ。儂らの約束は未だ破られてはおらぬ。」
「三十年以上も…か、すごいな。」
「友を思えばこそじゃ!ぬしにもおるであろう?大切な友の一人や二人。」
「あぁ…いる。これから会いに行くところだ。」
「うむ、そうであったか。では行って参れ、戻ったら改めてぬしの話を聞かせよ!儂はいつも暇であるからな!」
そうしてまたもや豪快に笑うミラに見送られながら俺は城を後にする。
跳ね橋をすぎると次第に雨は激しさを増し、雨粒が滝のように外套を濡らしていく。
街へ続く坂道も川のように水が流れ、気を付けないとどこまでも滑り落ちてしまいそうだ。
俺は足元に注意しながら一歩一歩着実に歩いて行く。
するといくらも進まない内に前方に人影らしきものが見え始めた。
この雨の中ではたいした距離ではなくともそれが何なのか認識することが難しく、少しずつ距離を詰めながら目を凝らす。
形や大きさからして人…それも先ほど会ったミラと同じか少し大きいくらいの子供の様に見える。
だがこんな雨の中に子供が一人、歩くでも動くでもなくただ佇んでいるというのはどういう状況だろうか?
困っている様子ではないがここで声を掛けないわけにもいかない、俺はゆっくりその子供に近づいていき声をかける。
「こんな所でどうしたんだ?雨もひどくなってきたし危ないぞ。誰か待ってるのか?」
「えぇ、待っていましたのです。どうせリアが来るよりも先に向かうだろうと思って先手を取らせてもらいましたのです。」
「リア…。」
顔を上げた子供…リアはきつく俺を睨みつけながら手を取ると俺に背を向け歩き出す。
握られたその手はとても冷たく、長い間雨に濡れていたのだという事を容易に悟らせた。
俺が一人で行こうとしている事に気づき、そしてそれを阻止するためにずっとここで待っていてくれたのか。
ここで待っていれば必ず俺が通り、そしてここまで来たら追い返すようなこともしないだろうと見込んで…。
俺の手を強く握り前を歩くこの少女は本当によく人を見ている。
ノエル以外は興味がないと言いつつも、こうして他人の些細な変化を見逃しはしない。
なんて優しくも頼もしい少女なんだろうか。
傷つけた相手にさえ心を砕き、俺の戸惑いや迷いを悟って手を引いてくれている。
それは誰にでも出来る事ではないと、俺は思う。
「…リアの手、冷たいな。風邪、引かなきゃいいけど。」
「引くわけないのです。リアは頑丈に作られていますので、あなたと一緒にしないでください。」
「あぁ、そう…だな。リアは強くて頑丈で、俺なんかとは大違いだ。」
「………あなただって十分強いのです。ただ少し優しさが過ぎるだけで、決して弱くはないのですよ。」
「っ、そう…思うか?」
「思うのです。そうでなくては、リアの大切な姫様の友人なんて名乗れないのですよ。…大丈夫、リアが一緒に居るのです。」
「……ありがとう。それと、この間はごめんな?」
「…何の話なのか分からないのです。リアは忘れました。」
「なんだぁ、それ。」
空を仰ぎ見ながら腹から笑ってみる。
顔に打ち付ける冷たい雨も熱を持った目を冷やすにはちょうどいい。
ついでに頭も冷やしてしまおうとフードを取ってからリアの隣に並んで歩く。
俺を見たリアが深いため息を漏らしたような気がしたが雨の音で聞こえなかった事にしよう。
さぁ、目的地が見えてきた。
今回は本当だから、どうか安心して欲しい。
俺はリアに視線を向け満を持して口を開く。
「行こうかリア、今日で終わりにしよう。」
「はい!」
雨に打たれながら、俺とリアはこの事件を終わらせるべく歩みを進める。




