希望の翼2
なにをしてもうまくいかない人間というのはいる。
昔から、運動も勉強もそこそこ止まり。なにかの賞に入賞したこともない。
学生時代は、ひたすら目立たない冴えないやつで、就職してからもそれは同じことだった。
そんなツキに見放された俺を待っていたのは、過酷な労働と人間の尊厳をまるで考えない非道な上司だった。毎日の深夜まで続く残業と、それのせいで削られていく睡眠時間。奴隷のように働かされた挙げ句に待っているのは、精神を崩壊させる上司のパワハラだった。
心身ともに疲れ果てた俺に待っていたのは、さらなる追い打ちだった。
「別れましょう」
学生時代から付き合っていた彼女から別れを切り出された。
残業や休日出勤続きでデートの時間も作れず、連絡もおざなりになっていたせいだった。
すべてが悪循環を起こしていた。
会社を辞めたところで、すでに大きく崩れた関係は修復されることはなかった。
俺の心はいつでも氷河期。どこまでいっても吹きすさぶ吹雪の音は、俺の胸の中で轟々と響き続ける。
そのうち眠れない日が続くようになった。たまに寝ても悪夢にうなされた。食欲も減退し、体重もかなり落ちた。
死にたいと考えるようになったのは、そんなころからだ。
生きる価値のない人間。
誰からも必要とされていない。
生きていたって仕方がない。
無気力になり、外にもあまり出なくなった。朝起きることがつらくて、一日布団の上で過ごすこともあった。
母さんが心配してよく電話をかけてきたが、返事をするのも億劫で、電話にもでなくなった。
母さん、ごめん。
こんななさけない息子でごめん。
やがて、何日もアパートに籠もるようになる。しばらくはカップ麺ばかり食べて過ごした。しかしそれもなくなり、お腹がすいたのでなにかを買いに行かなければならなくなった。久しぶりに髭を剃ろうと鏡の前に立った。そして鏡を見て愕然とする。
そこにいたのは、とても醜い男の姿だった。
目は虚ろで、顔色も悪く、不潔だった。自分がこんな姿になっていることに、ずっと気づかなかった。
――死のう。
ずっと死にたいと考えていたが、それを本当の意味で決意したのはそのときだったかもしれない。
俺は髭を剃り、シャワーを浴びてさっぱりしたところで、遺書を書いた。
『もう疲れました。お父さん、お母さん今までありがとう。ごめんなさい。さようなら』
簡単な、つまらない遺書だったが、それだけを書くだけで精一杯だった。
そして俺は、以前から目をつけていたビルへと向かった。
「そして今、ここに至っている」
語り終え、息をついた。あらためて自分のことを振り返ってみて、なんとつまらない人生かと嫌になった。
「もうなにもかもが嫌になったんだ。死んで楽になりたい」
男は少しの間沈黙していた。きっと呆れているのだろうとそちらに目をやると、男はまっすぐに前を見つめていた。なにがあるのだろうと、男の視線の先を見やったが、そちらには無限に広がる空があるばかりだった。
「悲しいものですね。悩み疲れ、自ら死を望む。死んだほうが楽だと、そこまで考えるに至ってしまったあなたが、哀れでなりません」
男はこちらに顔を向け、優しげな微笑みを浮かべた。
その微笑みを見て、なぜだか救われたような気持ちがした。
「哀れんでくれるのか。この俺を」
さっきまではただ馬鹿にしているだけかと思ったが、そうばかりでもなさそうだった。
「あなたは死ぬことを止めて欲しいと言った。ならばやはり、あなたは死んではいけない。私はそう思います」
男の目は、俺の心のうちを見透かしているように思え、俺はその視線から逃れるように頭上を見上げた。
「なんだ。優しいんだな。でももう決めたことなんだ。さっきはあんなことを言ったけれど、止めないでくれ。ほら、今日はこんなに天気がいい。気持ちがいいくらいに青い空が澄み渡っている。こんな日に死ねたら、最高だと思わないか?」
男は黙ったままだった。俺は構わず一歩前に出た。そこから先はもうなにもない。その先には死への旅路が待っているだけだ。
さっと風が吹いた。俺は手を広げ、その風を体全体で感じた。なんて気持ちがいいんだろうか。
「次に生まれ変わるとしたら、俺は鳥になりたいな」
大きな翼を広げ、この雄大な空を縦横無尽に羽ばたく姿を想像する。それは、なんてすばらしいんだろう。こんなゴミみたいな人生を終わらせ、俺は鳥になるんだ。
「あんたももう俺のことなんか構わないで行けよ。俺は新しい翼を手に入れるために、ここから飛ぶんだ。そうだ。希望の翼をなくした鳥は、落ちて死ぬより他に道はないのだ」
俺は目を閉じた。深呼吸して体の中を浄化する。そうイメージする。高ぶって緊張していたものが、少しずつ柔らかく解けていく。呼吸を静かに繰り返し、心を落ち着かせる。
大丈夫だ。今度こそ飛べる。
「最期に言い残すことはありませんか」
隣で男がそう訊ねてきた。俺は少し考えて言った。
「そうだな。ただ、母さんにはすまないと思っている。産んでもらったのにごめん、と。それだけだ」
きっと母さんはこんな俺でも悲しんでくれるだろう。涙を流してくれるのだろう。
「俺はもう行く。止めても無駄だ」
俺は目を開けた。この青い空に飛び立つのだと思えばいい。鳥になるのだと思えばいいのだ。
「俺の人生よ。さようなら」
そして、ついに足を踏み出した。
体が一瞬ふわりと浮いたような感覚がしたかと思った次の瞬間。
俺は真っ逆さまに地上へと落ちていった。




