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骨ぶり

作者: 尾妻 和宥

        1


 あれほど咲き誇っていた桜が、母の葬儀などで忙殺されているうちにすっかり散ってしまい、見るも無残な葉桜となっていたことに今さらながら気づいた。

 また暑い季節がめぐってくるのかと思うと、郁美いくみはちょっとうんざりした。


 郁美はほっそりとした身体つきをした、初夏の陽気のような性格の美人だ。ときどき天然なところを発揮するのは愛嬌だが。

 三十五になるが、いまだ二十代後半とまちがわれるほど若々しい。ベリーショートの髪が性に合っているのか、十年来その髪型ばかり美容院で選んでばかりいる。


 彼女は首筋に手を触れた。

 首にはまるでチョーカーをしたまま日焼けしたかのように、二センチ幅のアザがついていた。

 見ようによっては、蛇でも巻き付いたように映り、因果な業でも背負っているのではないかと思えてしまう。

 遠目に見ればおしゃれともとれた。だが間近で見ると、まさか誰かに首を絞められたのではないかと、思わず目をみはらずにはいられない。




 母、ふみの葬儀が終わったその夜、叔父のたかしはその足ですぐ神戸に戻らなくてはならないということで、湿っぽい思い出話は急きょお開きとなった。

 老舗旅館の婿養子として招かれ、経営の一手をまかされている手前、一日たりとも宿を不在するのは惜しいという。

 今月はシーズン外れとはいえ、団体旅行客が矢継ぎ早に宿泊する予定となっており、いかな姉の死といえど、おいそれといとまはとれないらしい。


「盛況だと世知辛い時世になっちゃうものね」


 と、郁美は言った。

 チクリとやったつもりではなかったが、当の崇は申し訳なさそうに肩をすくめた。

 さも一刻もはやく帰途に着かんとばかりに、愛用の白い革製のハンチングをかぶり、


「そこをなんとかご理解いただきたいんです。ぼくだって心苦しいと反省してますって」


「別に責めてるつもりじゃないわよ」伯母の章子あきこが助け舟を出した。「婿どのは大変だわね。それでなくても、崇ちゃんったら、子供のころから肝心なところで及び腰になったから。ま、言ってもしかたない。そうと決まれば」と、でっぷり太った腹部をひと叩きし、背筋をしゃんとした。「いますぐにでも決行しましょ。郁美、準備しなさい。手順はお父さんのときと同じ」


「お湯から沸かそうかしら」


「いいですよ、そこまで丁寧にしなくったって。ポットのお湯で間に合わせましょう」


 崇が煩わしげに言い、座布団に座りなおした。


「こう言ってるけど、異論はないの、章伯母さん」


「ダメよ、大切なことなのに手を抜いちゃ。急いでるからって、正式な作法にのっとってやるべき。ましてや崇ちゃんが世話になった姉じゃない。感謝の意をこめてちゃんとしなきゃ」と、章子はふきんで手を清め、一家の家長のような口ぶりで諭し、やおら立ち上がったかと思うと、せかせかと台所を動きまわった。ぎろっとした特徴的な両眼をしており、真横から見ると若干眼球が飛び出ていた。真剣にしているつもりなのだろうが、どこまでもユーモラスな人だ。「いいから、あんたはやかんでお湯を沸かしなさい。しょせんこの人は外様とざまなんだから」


「やれやれ、すっかり主導権を握られちゃってるわね」


 郁美はあきれたように言い、棚からやかんを取って、水を注ぎ入れた。


「どうぞ、ご勝手に。長引くようならお先に失礼するだけですよ」


「急ぐんだったら協力すべきよ。先に仏間で用意してなさいよ。ほら、動く動く」


 と、章子。


「言われなくったって、協力しますよ」




 郁美がガスレンジに火をかけ、仏間に入っていくと、崇が飾り棚に置かれた白木の箱のふたを開け、骨壺を取り出しているところだった。

 うやうやしく両手にかかげ、部屋の中央におろして、白い壷の表面をつるりとひと撫でした。


「誰か、皿持ってきてください」崇が言うと、「ぬかりなく」と、郁美が大皿を運んできた。続いて章子がすり鉢とすりこぎ棒を手にやってきた。


「そういや、思い出したんだけど」と、崇が切り出した。「ふみねえが亡くなるとき、お二人さんが、ふしぎな看取みとり方をしたって話、そろそろ話してくれてもいいじゃないですか。ずいぶんと、もったいぶった言い方したもんだから、さぞかし興味をひく話なんじゃないかと、期待してたんですが」


「ああ……忙しさにかまけてて、すっかり忘れてた。そうだったわ。たしかにあれは話のネタにもってこいかもね」


 祭壇で手を合わせていた郁美がふり返り、楽しそうに言った。


「それについては、わたしが語ってしんぜよう」


 章子が神妙な口調で継いだ。


        2


 郁美の母、ふみは大腸がんに冒され、たび重なる手術と放射線治療を続けていた。そもそも発見の遅れもあって根絶には至らず、やがて死期が迫っていた。

 盛岡で暮らしていた章子は急ぎ、郁美たちがいる山陰の地方都市に戻ってきたのだった。


 とうてい死に目に会えまいと覚悟していた章子だったが、案に相違してふみはまだ持ちこたえていた。少なくとも駅に着いた時点では、まだ息をしていたはずだ。


 タクシーに乗り、総合病院を指定したつもりだった。新人の運転手に当たってしまったらしい。道に不慣れなのか、しばらく迷走した末、貴重な三十分をロスしたのち、病院に着いた。

 ふみは容態が危なくなったので、詰所の隣の病室に移されていた。


 九時すぎ。

 あいにく詰所は看護師が出払っていたタイミングらしく無人だ。こんなルーズな規定ってあるのだろうか。

 部屋に入る直前、詰所のガラス窓ごしに、久方ぶりの郁美の姿が見て取れた。宝塚の男役ばりのベリーショートが似合う顔立ちだが、漂白したように色気がないのは相変わらずだ。


 そんな郁美はいくぶん取り乱した様子で、頭を奥に向けて横たえた人に懸命に呼びかけていた。

 病床のふみは石のように反応がない。


「あ痛」


 章子は額に手を当てた。

 ふみは今しがたまで息をしていたのに、これは絶命したばかりにちがいあるまい。

 詰所の受付で、見舞い人の記帳のことなど眼中にあるはずもなく、祈る思いで病室の引き戸をスライドさせた。入ると、絶望的な遅さで閉まっていった。


 踏み込むと、ぷんと濃密なアンモニア臭が鼻をついた。

 正面に土気色をした顔のふみが横たわり、郁美が白い掛け布団の上から母を揺さぶっている。

 ふみの足の方には心電図モニターが据えられており、一目瞭然、心拍を表す波形は波打っておらず、横線が伸びているだけでピクリともしていない。呼吸数も血圧もゼロの状態だ。


 開口一番、章子は、


「……郁美。まさかタッチの差で間に合わなかったのかしら?」


 郁美がはじめて章子の存在に気づき、


「五分前からなの、息が止まったのは。まだ逝くには早すぎるのに」


 母の顔を覗き込みながら言った。どうにか措置をとればすぐにでも蘇生させることができると信じて疑わない響きがあった。


 しかしながら、ふみの顔は見る間に黄ばんだ色が広がっていき、到底息を吹き返しそうになかった。

 その寝顔はお世辞にも安らかとは言いかねた。

 眼は開きっぱなしで、黒目の部分は青白く濁っており――あとで聞けば、半日間まばたきもせず、荒い呼吸をくり返しているだけで昏睡状態に陥っていた。医師からはなにがしも持つまいと宣告されていた――、口も半開きのままだった。


「それよかあんた、先生はまだ? ちゃんとコールしたの?」


「息が荒くなって、直後に呼び出したんだから、すぐに駆けつけてくれるはずなんだけど」郁美は陶器と見まがうような白い顔で言った。「こんなときはずいぶんと遅く感じるね」


 章子は背伸びし、ガラス窓の向こうを呪わしげに見た。


「詰所に、看護師一人すら待機してないってどういうことよ。どんだけ人手不足なの!」


 かまわず郁美は両手でふみの頬をはさみ込んだ。


「お母さん、章伯母さんが来てくれたのに、いつまでも寝たふりしない!」


「もういいよ、郁美」章子は郁美の肩に手をかけた。「これだけ頑張ったんだから、楽にさせておやり。あんたもよく頑張った」


「わたしの結婚式も見てないのに、これでいいの、お母さん!」郁美は母の頬をさすった。「なにも予定がないわけじゃないのよ。せっかくの晴れ姿も見ないで、このまま死んじゃうつもり?」


「そりゃ名残惜しい。……は。予定がないわけじゃない? そうならそうと、さっさと決めちゃえばよかったのに。グズグズ後手にまわってるからいけないのよ」


「勢いだけで突っ走って、失敗することだってあるわ」


 章子の考えは、すでに業者に葬儀の手配をしないといけないと移行していた。

 受付のかたわらには黄色いタウンページがそなえつけてあったから、それで調べるとして、まず誰から訃報ふほうを伝えるべきか……。


 実の妹が生きるか死ぬかという瀬戸際とはいえ――十中八九、死ぬだろうが――、自身でもあっさりすぎるぐらい平常心を保っていた。それだけ人生の無常さを見てきて、すれっからしになってしまったのだ。慣れが悲しかった。


 冷ややかに頭を回転させているさなか、ふいに心電図モニターに眼をやり、ギクリとした。

 ――驚くべきことに、グリーンの横一線だったHR(心拍数)の線がピクリ、またピクリと波打ちはじめ、微弱ながら規則正しく動き出したではないか。

 そればかりではない。動脈血圧、肺動脈圧、中心静脈圧までもが死にあらがうかように活動をはじめたのだ。


 見る間にそれらの波形は等間隔で続き、肝心の心拍数の値は三〇、四〇、五〇……と高くなり、なんと最大七〇まで回復したから章子は思わず目を疑った。

 にもかかわらず、ふみの表情を見るかぎり、とても死の淵から還ってきたとは言いがたい。その顔は変形し、接着剤で固めたように硬直したままで、おまけに呼吸をしている気配すらないのだから。


「郁美、見なさいよ。これは鳥肌ものの現象じゃない? どういうことなのかしら」


「奇蹟みたい」と、郁美は心電図モニターと母の顔を見比べながら言った。「それとも単に、筋肉の反射反応なの?」


「ちょっとあんた。実もフタもないことを」


「章子伯母さんが駆けつけてくれたのと同時って、偶然にしてはできすぎみたい」


「わたしを待っててくれてたのだとしたら、ありがたいねえ」


 ふと郁美は不思議な既視感に捉われていた。

 同級生である三奈みなの父親が亡くなり、火葬場で焼きあがるのを待つあいだ、三奈やその姉に聞かされた話を思い出す――。


「そうなのよ」喪服姿の三奈は、焼き場の待合室に不釣合いな口調で言った。「まるで父さんったら意識がないのに、四人姉妹が全員そろったのを見計らったみたいに息を引き取ったの。みんな集まるまで踏みとどまってくれてたのよね……」


 その話が郁美の頭をよぎった。

 郁美はひとりっ子だったが、母、ふみ自身は三人姉弟だった。章子がやってくるのを待っていたのは――もっとも、末弟である崇はその場に居合わせていなかったが。崇にはそこまで期待していなかったのだろう――、いかにも几帳面な母らしいお別れの仕方だった。こんなできごとは、世間一般的にわりかし転がっているのだろうか?


 ところがそんな二人の喜びもよそに、しばらくもすればモニターの数値は下降の一途をたどりはじめた。

 波形は乱れ、沈静化し、力なく平坦化していった。

 やはり風前の灯が消えゆく寸前、炎が盛んになっただけにすぎなかったのか。そもそも命の炎とは本来こういうものなのではあるまいか。


 そのとき病室に、ようやく医師が入ってきた。

 うしろには年配の女看護師を従えている。どちらもメガネをかけ、どちらもくたびれきったような表情を浮かべ、見るからに労働環境の劣悪さを全身で表していた。


「遅くなりました、申し訳ありません」と、長身の医師が頭を下げた。「急患が入り、対応に遅れをとりまして。……で、容態は?」


「いったん意識がなくなっていたんですが、つい一分前、わずかながら回復の兆しが見られたんです。ですが、やはり安定せず、このとおり……」


 と、郁美は声を落とした。


「どれ、診ます」


 医師は肩にかけていた聴診器をセットすると、ベッドに横たわるふみの胸をはだけた。チェストピースを当て、神妙な面持ちで診察した。


 郁美と章子は口をつぐんだまま、その様子を見守っていた。

 もとより一縷いちるの期待にすがってはいなかった。お互い、そろそろ彼女を苦しみから解放してやるべきだと思っていた。

 いつの間にか心電図モニターの心拍数の値はゼロとなり、波形も一直線に寝てしまった。

 もはやなんの反応も示さない。


 医師はとおり一遍の診察をおこなったのち、二人に向き直って、


「残念ですが、ご臨終です」


 と、言った。


 郁美たちは泣きつくこともなく、現実を受け容れた。


「そういうことだよ、郁美」章子は郁美の細い肩に手をおいた。そして耳もとでこう囁いた。「葬儀が済んだら、お父さんと同じように、わたしたちで特別に弔ってあげましょ」


        3


「すでにお母さんの心はそこになく、肉体だけで踏みとどまってただけど、まちがいなく章伯母さんが駆けつけてくれるのを待っててくれたわ」


 郁美は正座したまま言い、祭壇の遺影を見上げた。


「だとしたら、涙が出るほど嬉しいね。さすが誇るべき、我が妹だよ」と、章子はしんみりした口調で言い、ハンカチで目元を押さえた。「魂の存在があるかないかは半信半疑だったけど、あれは決定的なできごとだったと思うね。ふみはこのへんで」章子は頭上の空間を手のひらでかきまわすようにぐるぐる示した。「わたしたちがアタフタする姿を見てたような気がするの」


「してみると、不肖のぼくだけが継子扱いされたわけですか。そりゃ残念」と、崇は白いハンチングの位置を正しながら言い、片膝をついて座って頬杖をつき、ふくれっ面をした。「ふみ姉、せめて夢枕くらい、立ってくれてもよかったのにな。実の姉なら怖くないのに」


「そのうち、四十九日が済むまでにおどかしにくるかもよ」


「章伯母さん、それはない」郁美がぴしゃりと言い、「ブラックすぎるのもいかがなものかと思うわ」


「いっぺん崇ちゃんを尻餅つかしちゃって欲しいわよ。だって、こんなに白状なんだから」


「さ、さ、さ。それより始めましょうよ」


「言われなくったって」




 章子は仏間の中央を陣取り、膝をついてしゃがむと、骨壷のふたを開けた。

 そして割り箸を使い、いちばん上におさまった喉仏を取り除き、いったん大皿に置いた。

 それからいろんな形をしたふみの残滓ざんしを大皿により分けるようにして並べ、そのなかで腕の骨と思われる円柱形の骨片だけをつまみ、すり鉢に入れた。

 そしてすりこぎ棒を郁美に手渡し、


「こっからはあんたの手でなさい。はじめてでしょ」


「やってみる」


 と、郁美は頷き、すりこぎ棒と鉢を受け取った。すり鉢を畳に据え、正座した両方の膝で挟み込んで固定した。

 おもむろに棒で、ごつんと骨を真っ二つに折り、入念に押しつぶした。


 そのあと、丁寧にこねくりまわした。

 八畳間に、ごりごりと骨をる鈍い音だけが響く。

 やがて、台所でお湯が沸く音が聞こえてきた。


「やかん、取ってきます」


 いささか気詰まりした崇が言い、部屋から出ていった。

 郁美は一心不乱にすり鉢と取っ組み、骨片を擦りつぶしていく。

 高熱にさらされた骨は海岸に漂着した木材みたいな色をしており、その中のずいは赤茶色だ。お互いをブレンドした粉末となるまで、さほど時間はかからなかった。香ばしい匂いすらしそうだ。


「えいくそ」すっかり郁美のすりこぎに目を奪われていた章子が思い出したように言った。「忘れてた。湯飲みを用意しなきゃ。取ってくるわ」


 すぐさま席を立った。発作が出はじめているのか、やけに高潮し、汗だくになっていた。


「これくらいでいいんじゃないかしら。我ながら入魂のできばえ」


 郁美がひとりごちた。

 崇がやかんを手にし、章子は盆に湯飲みを三つのせて戻ってきた。


「では、下準備も整ったことだし、さっそくいただきましょか」


 と、章子。


「ところで、生前のふみ姉はなにに秀でてたんでしたっけ? なにかとオールマイティーな才能をお持ちだったことは憶えてますが」


 崇は郁美のかたわらにあぐらをかいた。

 郁美は黒のストッキングに包まれた脚を曲げて正座しており、ひざ頭が色っぽく光っているのを、崇は照れくさそうに盗み見た。

 以前は艶っぽさを欠いた姪っ子だと思っていたが、母の葬儀を迎えるころには見ちがえるように変貌したものだ。こんないい女を、世の男どもは放っておくなんてもったいないものだと内心思う。


 けれど、目線を上にあげれば、なんとなくためらうのもわからないでもない。

 その白い首筋を取り巻く索溝さくこうのようなアザはいただけないからだ。――これではまるで、誰かに絞殺されかけた痕跡に見えてしまい、いかに親族とはいえ、おおっぴらに言えぬ後ろ暗い過去があるのではないかと勘ぐってしまう。


「お母さんは聡明で、思いやりにあふれた人だった」郁美はぼんやりした顔で言った。「人の考える先の先まで読んでるような、達観したところが見習うべきだと思うの。わたしなんか、始終ぼーっとしてて、生涯お母さんにはかないっこないな」


「だったら、投資信託でもやっとけばよかったけどね。――そう。ふみは姉弟の中じゃ、抜きん出て勉強家だった。実家は貧乏な印刷屋だったから、ロクな学校に行かせられなかったけど。本人はきっと、高い知識と教養を身につけたかったろうね。主婦をやるようになり、子育てがひと段落つくと、英語や中国語、スペイン語なんかをマスターしたらしいじゃない? 主婦でおさまってなかったら、きっとインターナショナルな仕事で、海外を飛びまわっていたかもよ」


「車の免許を取ったのも五十すぎと遅かったけど、自動車学校の教官たちに、学科の憶えと実技の飲み込みの速さにびっくりされたそう。それにパソコンでエクセルの技術をマスターしたのも六十代半ばすぎ。パソコン教室では模範生として表彰されたこともあったって」


「みごとな研鑽けんさんの賜物ですね。ぼくなんか満足にブルーレイデッキの予約録画すらおぼつかないっていうのに。向上心を失わないってことは、ぜひとも見習うべきですね」


「そういうわけで、ふみからは利発さと向上心をあやかりましょう」と、章子は咳払いひとつし、野太い声で言った。「郁美、次行って」


「はい」


 郁美は三つの湯飲みに、すり鉢の粉末を三等分になるようスプーンで分配した。

 その量は小さじ半分程度。そのあと、やかんのお湯を注いでいく。

 章子はそれぞれの湯飲みをスプーンで優しくかき混ぜた。


 渦はしばらくしておさまり、不純物は器の底に沈んだ。

 これで、わずかに色のついた白湯ができあがった。

 みんなの前に、それぞれ湯飲みが行きわたった。


「では、ふみ姉の(、、、、)をいただきますか。まずは、ぼくから味見を」と言い、崇がためらいもなく湯飲みに口をつけた。「……これでぼくんとこも、子宝に恵まれたら嬉しいのにな」


「猫舌じゃなくて羨ましい」と、章子がぎょろりとした眼でその様子を見守った。彼女はまるで茶道の先生のような手つきで、しばらく湯飲みをくるくるまわした。熱が去るのを待ったあと、器を傾け、のどに流し込んだ。「崇ちゃんのタネなしも改善されたらいいのにね。わたしだって健康体になりたいのはやまやまなの。……なにはともあれ、これでふみは、わたしたちの身体にとどまった」


 郁美もそれにならった。

 湯飲みから立ち上る香気を嗅いだあと、口に運び、


「お母さんの力、宿りますように」


 と、祈るようにつぶやいた。

 三人は時間をかけて湯飲みを空にした。底に沈んだ沈殿物も残さず飲みくだした。


「おかしな風習よね。いくらなんでも、倫理的にどうかなって思う。その反面、これこそ究極の愛情表現であることもたしか」と、郁美は正座したまま言い、窓の外の葉桜と、かなたの青い山並みを眺めた。


「骨噛みって、この土地特有のものでもないんですってね。いくつかの県の、ごく限られた地域で、こうして故人の遺骨をなんらかの形で遺族が取り込むって話は、ひそかにあるって本で読んだことがあるの」


「まあ、おおっぴらに言うのもはばかられますけどね。野蛮人と後ろ指、さされるかもしれない」


「骨灰は妙薬とも言うわ」


 章子はのっそりと声をかぶせた。


        4


 郁美がはじめて骨噛みしたのは十四のときだ。

 激動の時代を生き抜き、一〇八歳まで人生を謳歌し、寝たきりになることなく、理想的な大往生をとげた母方の祖母の骨だった。


 涙雨に降られた告別式を終えると、一転して親族総出の宴会が催され、たちまちにしてどんちゃん騒ぎになったものだ。

 酒宴もたけなわなころ、やおら骨噛みの儀式が開かれた。

 酒に強い大人たちが、


「そういや、昔は骨をかじったものだな。どうだ、祖母のでやるか?」


「いっちょ、再現してみるか」


 と、なかば冗談のノリでそうなった。

 とまどう少女の郁美をよそに、なかば強引に骨粉入りの白湯を飲まされた。その祖母からは、長寿の力をあやかるという名目だった。


 その次の骨噛みは、二十四の誕生日を迎えたばかり秋。

 父、敏晴としはるが逝ったときだった。

 林業を営む職人肌の人で、従業員の不注意で、伐採したヒノキの下敷きになった。


 大学病院の集中治療室で二週間生死の境をさまよったあげく、一命をとりとめたものの、下半身に麻痺が残ってしまった。

 もともと身体が丈夫で、若いころは身体能力が高いと評判で、なかでも俊足の持ち主だった父は、不具となった我が身を呪わしく思い、ひと月経たず首をくくって自殺した。

 寡黙で無愛想な人らしい、侍みたいな死に方を選んだものだと、母は泣きながらもめたものだ。


 その父を火葬場で焼いた直後、釜のなかから出てきた遺骨の一部を、みんなして直接口に入れた。がりりと音を立ててかじった。

 なまじ急な不慮の死をとげた人に対する哀惜の思いは強すぎた。

 そんな父からは頑健さを引き継ぐべく噛んだ。そのときの骨の味の、苦かったこと。


「倫理に反する行為だと思うこともしばしばあるわ。だから公にせず、あくまで近しい身内だけでひっそりとやるものなの」章子が湯飲みを片付けながら言った。「でもね、郁美が言ったように、愛していればこそ、おのずと身体に取り込みたいと願うんじゃないかしら。けっして恥ずべき行為ではないと、わたしは信じてるの。故人を、いまを生きる親族が取り入れ、生かしていけばいいじゃない。故人を忘れてしまう方こそ罪なことよ」


「そうかも。わたしたちの肉体がこの世から消えてしまっても、次の世代に引き継がれ、思いはグルグルまわるのね。だったら、死ぬのを恐れるのも、なんだか気がまぎれる」


「昔は」と、崇は声をひそめて言った。「万病に効果ありと信じられ、墓をあばいて骨を得ようとするやからがいたとか――」




 『明治大正昭和 事件犯罪辞典』(東京法教学院出版刊行)によると、明治三十五年に、島根県出身の持田もちだ 捨太郎すてたろうなる人物が、梅毒に効くとして墓荒らしをくり返し、人骨を盗んだ事件が多発。持田は骨を焼き、木炭やイタチの黒焼きと配合して薬とした。


 この持田以外にも墓荒らしをして骨を盗んだという人間はあとを絶たず、万病に効くとして当時は信じられていた。

 また、田中たなか 香涯こうがい著『我国に於ける食人の風習』(日本民俗学論考)によればこうだ。――「灰屋はいや 紹益じょうえき(江戸前期の京都の豪商、文人)が愛人、吉野よしの 太夫たゆうが死亡したとき、火葬した遺骸の灰を酒にひたして嚥下えんかしたことは、いまなお人口に膾炙かいしゃしている。けれども斯様かような事柄は必ずしもめずらしいことではなく、愛人や肉親の死を悲しみ惜しむあまりにその肉を食し、あるいは遺骨を口にするがごときは我国においても古くから世に行われていた。今も肉親の遺骨を食う風習が伊豆(田方加茂の両郡地方)および沼津近在に行われていることは民俗学の権威たる中山なかやま 太郎たろう先生の記述されたところである。」と、している。




 骨噛みの社会的儀礼・風習は、現在も各地に残っているという。

 調査の結果、愛知県三河地方西部、兵庫県淡路島南部、愛媛県越智郡大島、新潟県糸魚川市などで確認されている。


 長寿をまっとうした人や、生前尊敬されていた人物などが被食対象となっていることから、故人の能力にあやかろうとする純然たる感情が根っこにあると見てよい。とりわけ、最愛の配偶者の遺骨を噛むことは、強い哀惜の念から発生しており、これらも率直な感情表出として捉えるべきだろう。


 もう亡くなって久しいが、俳優のかつ 新太郎しんたろうも同様の行為を行ったとして広く知られている。

 一九九六年、勝は、父である杵屋きねや 勝東治かつとうじの死にはげしく取り乱し、墓前での納骨式の際、火葬場でこっそり懐にしのばせていた遺骨の一部を出して、泣きながら口にした。

「とうとうお別れだけど、これで父ちゃんはおれの中に入った」とコメントした。

 同じく、戦争の悲惨さを描いたマンガ『はだしのゲン』にも、母親の遺骨をかじるシーンがある。


 また、溝口みぞぐち あつし著『撃滅 山口組VS.一和会』には、こんな記述がある。

 一九七五年に始まった山口組と松田組による、当時『大阪戦争』と呼ばれた殺戮抗争のさなかのことである。翌年十月に松田組系の大日本正義団会長・吉田よしだ 芳弘よしひろが、山口組傘下の者たちによって、大阪日本橋の路上で射殺。

 二年後の七月、今度は報復として、山口組三代目組長・田岡たおか 一雄かずおが、大日本正義団の幹部・鳴海なるみ きよしに、京都三条駅前で狙撃され負傷した。

 鳴海は殺害された吉田会長の運転手であり、片腕のような存在だった。


 鳴海は、「親分を取られたからには田岡を取る」と、吉田の遺骨を噛んで復讐を誓ったという(しかしながら田岡組長に致命傷を与えることはできず、逆に数ヵ月後、六甲山中で変わり果てた姿で発見される。皮肉にも田岡はその後、一九八一年に心不全で死去している)。


 やくざの世界ではこの骨噛みを『骨ぶり』と呼んでいる。火葬場での骨揚げの際に、幹部の者たちが組長の魂を体内に取り込むという意味合いでもあり、前述したように敵への復讐を期して骨をねぶり(関西弁で『しゃぶる』の意)、言葉をつめて『骨ぶり』と言ったのだ。


        5


「そういや、あんた」と、章子が郁美に向き直り、大きな眼をむいた。「ふみを看取みとったとき、おかしなこと口走ったよね。たしか結婚は予定がないわけじゃないってニュアンスの話。まさか、いい人がいたの?」


「そうきましたか」郁美は前髪をかき上げ、観念した様子で天井の蛍光灯を見た。「じつはそのことでお知らせがあります。しばしお待ちを」


 と言うと、スマホを取り出し、プッシュしはじめた。耳に当てると、相手はすぐ出た。この時間帯にコールするので、すぐ出られるよう待機していてくれ、と言い含めていたようなタイミングだ。


「郁美だけど。そろそろ家に入ってきて。説明する頃合がきたようなので。……はい、わかった、待ってる。……いいよ、勝手にあがってきて」


 章子と崇は眼をぱちくりさせて、しばらく口を閉ざしていた。

 じきに玄関の引き戸が開く音がし、「失礼します!」と、威勢のいい声が室内に響いた。

 廊下をはずむような足音をさせて仏間に迫ってきた。


 そして突然の来訪者は、障子戸をカラリと開けた。

 廊下の窓から淡い光を受けて、なかばシルエットと化して立ち尽くしていた。

 筋肉質の大柄の身体。一八五はある。浅黒く日焼けし、そのなかにまぶしい白い歯を覗かせていた。


「いきなりお宅に上がり込んで申し訳ありません。郁美さんの紹介にあずかりました桐本きりもと 勝利かつとしと言います。ビクトリーの勝利と書いてかつとしです。ふつつか者ですが、以後、お見知りおきを」


 と、まるで市会議員の選挙活動そこのけの口上をまくしたてたので、章子たちはのけぞる思いがした。


「藪から棒のサプライズね。あんたの婚約者ってのはわかるとして、どういう点数の稼ぎ方をするつもり」


「あー、まだ名乗らなくてもよかったのに……」郁美は決まりが悪そうに言った。「まだ順序だてて説明してないのよ」


 そのくせ、幸せそうな笑みを隠し切れない。


「おっと、勇み足でしたか。こりゃまた失礼」


 勝利は子供っぽく額をぴしゃりとやり、しぼんでしまうぐらい身体を丸めた。なかなかユーモアあふれる男のようだ。


「郁美ちゃんとは、その、付き合いは長いんで? これはノーマークでしたね」


 と、崇は姿勢を正し、勝利を頭のてっぺんから爪先まで眺めた。

 脈絡もなく湧いたように現れた新参者の顔には、実直な硬さと、誠実さからくる柔和が溶け込んでいた。いかにも体育会系な身体からは、そこはかとない色気が発せられている。


 どうりで今日の郁美は喪服が似合い、艶っぽい印象だと思ったわけだ。

 崇は白いハンチングをかぶり直した。なるほど、郁美の奴も遅まきながら人生の春が訪れたんだなと、内心微笑ましく思った。


「交際をはじめてから半年足らずなんだけど、決めちゃいました。職場の上司の方なんです」


「前から気になってたんです。郁美さんのことが。で、いつ言い出そうかと迷ってたら、同僚が先を越そうとしてたので、これじゃいかんと、猛アタックして……いろいろありましたが、ようやくここまで来ました」


「せっかくだから、ジューンブライドを希望してたりしてて」


 郁美が勝利の隣で言い、照れ臭そうに舌を出した。

 日本におけるジューンブライドは、しょせんホテル側の、いわゆる企業戦略の一環にすぎず、必ずしも幸せになれる道理はないのですが……と、崇はツッコミを入れようとしたが、胸の内だけにとどめた。今の二人に、そんな皮肉を口にするべきではあるまい。


「それと、軽率ともとられかねないのですが」勝利は身体を硬くして頭を垂れた。「じつはその……郁美さんのおなかには、すでに新たな命を授かっておりまして。それでいっそのこと、一緒になろうと決断しました……はい」


「キターッ!」崇は素っ頓狂な声をあげた。「できちゃった婚。いとうらやまし」


「なるほど、そっちの方も勇み足しちゃったわけね」と、章子があきれたように言うと、眼の前の二人は恐縮したように身を縮こませた。「……ま、わたしがどうこう言うつもりはないわ。いずれにしたって、この少子高齢化のご時世、めでたいことだし、三十も半ばをすぎて授かったんだから、よくやったと褒めるべきだわね。見たところ、あなたも悪い人じゃなさそうだし――わたしゃこう見えて、人間の目利きに関しては、ほかの人よりか優れてると思ってるつもりだよ――、おたがい、いい年なんだから、自分たちで決めたらいいじゃない。そんなに好きあってるなら、わたしも無下むげにはしないよ」


「ありがとう、章伯母さん。伯母さんなら祝福してくれると信じてた!」と、郁美ははにかんだ顔で言い、「わたし、実を言うとね。この首のアザがコンプレックスっていうか、負い目みたいなものを感じてて、なにをするにつけ、なかなか前に踏み出せないことが多かったの。仕事や恋愛、ましてや結婚だなんて!」


「郁美さんがそんなことにこだわってたなんて、ちっとも存じ上げませんでした。負い目を感じる必要なんか、どこにもないのに」


「別にこだわってたわけでもないでしょ。生まれつきのアザよね」


 章子はためらいもなく口にした。


「なんだ、ぼくはてっきり殺害されかけたあとが残ってるのかと思って、ずっと聞きそびれてました。つまり、我が親族の、触れてはいけないタブーのひとつだったのかと。生まれついてのソレなら、気にすることないじゃないですか」


 と、崇は郁美の秘密が氷解したため、膝を打ちたい思いだった。


「ふみがこの子を出産するときに、へその緒を首に巻きついたまま産まれてきたって聞いたけど、まさか、その痕でできたとはちがうとは思うけどね。それにしたって、因果な傷痕ではあるけれど」


「仮に、仮にもですよ」と、勝利はひたむきな表情で郁美の横顔を見ながら言った。「因果なものを背負っていたにせよ、ぼくはまるごと郁美さんを守っていくつもりです。そんなアザがなんだっていうんですか。見ようによっては、おしゃれじゃありませんか」


 章子が力強く頷き、勝利の背中をどやした。


「よくぞ言った! 男子たるもの、そうでなくっちゃ。小さなことに頓着しない」


「とにかく!」と、郁美は祭壇の遺影をふり返った。「おなかには新しい命が宿り、お母さんの思いもこの子に引き継がれていくわ。そうして命はグルグルまわっていく」


「そうね」


「いつかわたしが死んだときも、この子の身体の栄養素となれば御の字だわ」郁美はそうつぶやくと、喪服の上から、まだ平らな腹部をいとしげに撫でた。





        了


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