1章2「流線型の非日常を駆け抜けて」
凛月は、陸の生物を見たことがない。
今までずっと海中に棲んでいたのだから当然だ。
あるのは主に、子どものころ読んだ絵本や、学校で学んだ小説まがいの書物から得た、曖昧な知識だけ。
比較的平和は保たれつつも、時に退屈なアトランティカで過ごしてきた彼にとって、陸の世界は幾多の妄想を経て、もはや偶像崇拝に近い部分があり、実物を目にすると感動するのではないか、自然とそう思い込んでいた。
しかし、これは――想像を絶している。
まず目に入るのは、大きく歪に成長した植物の群れ。
道路の皹や、建物の隙間から無数に伸びる枝葉、その先端には極彩色の花弁が咲き乱れ、日照権を奪い合うように恥も外聞もなく犇めき合っている。
それらが織りなす巨大な影からは、百匹単位で徒党を組んだ、灰色の小動物たちが路上を縦横無尽に駆け回り、場は無秩序を極めている。
すると、それを咎めるように、静観を貫いていた極彩色の花弁が大きく花開き――花弁の内側を勢い良く地面に叩きつけた。
響き渡る轟音。
暫くの沈黙の後、再び首をもたげた花弁の中心には、ひしゃげた肉塊となった小動物がいる。
どうやらあの植物は肉食のようだった。
咀嚼するように開閉する花弁の脇で、他の花弁も次々に地面へと向かう。
その光景はまるで、川辺で魚を襲う水鳥の群れのようで。
水鳥より遥かに気色悪い風貌の植物は、凛月の本能からくる生理的嫌悪感を、否が応にも刺激してやまない。
しかし、その光景を千里は、まるで日常茶飯事のように、澄ました顔で眺めている。
「チッ、思ったよりいるわね」
「はは。今日も一段とすごいねぇ」
呑気な返事をする涼燕に対し、千里は車窓から視線を逸らして静かに口を開く。
「ねぇ…これ、このまま通り抜けれる?」
「うーん」
その問いに涼燕は、すうっと目を細めると。
「…しっかり捕まって」
そう言って、さらに深くアクセルを踏み込んだ。
車は大きな唸り声をあげながら、これ以上ないほどに加速し、一直線に動植物たちが待つ無秩序の中へ突っ込んでいき――スレスレで彼らの間をすり抜ける。
車の天井が、ギギッと何かを擦ったような音がしたが、気にしない。
小動物を轢き潰した影響で車体が少し傾くが、それも気にしない。
車窓から見える景色はいつしか流線型に歪んでいき、もはや自分の感情以外に信じられるものは何もない。
その刹那的な快楽が、今はどこか心地よい、そんな不思議な気持ちだ。
やがて、動植物を完全に振り切った彼らの前に現れる、高速道路の続き。
しかし、向こう岸には辛うじて道が続いているものの、そこに至るまでの道が完全に崩落してしまっている。
これではとても渡れない。
にも関わらず、車は止まらない。
「このまま飛び乗るよ!全員、衝撃に備えて!」
涼燕の鋭い声。
それに何かアクションを起こすよりも早く――ひときわ大きなエンジン音とともに、車体が宙に舞う。
――は、はぁぁぁぁぁ!!??
これまで感じたことのない浮遊感に、凛月の刹那的な高揚感は鳴りを潜め、それと入れ替わりで現れる顔面蒼白。
それとは対照的に、運転席の涼燕は上機嫌だ。
「あっはははははっ!これはいいね!」
――バカじゃねぇのかこいつ!
心の中で悪態を吐きつつも、祈ることしかできない凛月だったが、案の定車体の高度は緩やかに下がっていき、やがてフロントガラスに映っていたはずの向こう岸が完全にフレームアウトしてしまった。
このままでは真っ逆様だ。
背筋が凍る凛月の目の前で――突如、車体が物理法則を無視して空中で静止した。
そしてそのまま、まるで空中に見えない道があるかのように、ところどころ不安定に揺れながらも向こう岸へ一直線に進んでいく。
――え?
訳の分からないまま、フロントガラスに映る光景を食い入るように見つめる凛月の視界の端に、不意に【灰】色の光が過ぎる。
光源は、涼燕の右腕に巻かれた腕輪。
その中心に嵌め込まれた水晶体が、いつしか【灰】色の輝きを放っている。
それは奇しくも、凛月たち海棲人が持つ腕輪と全く同じ代物だった。
つまり【灰】が示すものは、涼燕が持つ個人色だということだ。
そんなことを凛月が考えているうちに、車は無事に向こう岸へと辿り着く。
ガシャンと全体が揺れる音とともに、タイヤが道路に密着し、車体は完全に安定性を取り戻した。
…とはいえ、今の衝撃で凛月は、天井に思いっきり頭をぶつけてしまったわけだが。
――痛っつ…。
「痛っ!ちょっと、涼!もう少し優しくできないわけ!?」
そしてそれは、どうやら助手席の千里も同じらしかった。
「ははは、ゴメンゴメン」
「絶対思ってないでしょ?…後で、覚えてなさいよ」
脅迫じみた不穏な言葉に、しかし彼はどこ吹く風。
そのまま、車は高速道路を疾走していった。
「もうすぐアジトに着くわ」
窓から外の景色を眺めていた千里が、不意にそんなことを呟いて後部座席へと振り返った。
「あの白いドームが見える?あそこを左に曲がって、あとは川沿いを行くだけ。ざっと10分ってとこかしら」
彼女が指差したドームは、かなりの規模を誇っていたが、そのてっぺんは既に崩落していた。
あれではとても、中で生活することはできないだろう。
先ほどから、凛月の目に入ってくるのはそんな老朽化した建物ばかりだ。
そこまで考えたところで、不意に彼の脳裏に過る疑問。
――なら今は、一体どこに住んでいるんだ?
それを問おうとしたところで、彼は今更ながらに気がついた。
――呼吸ができる。
試しに水筒から口を離してみると、まだ息苦しさは残るものの、先刻ほどの辛さはない。
「あら、もう大丈夫なの?思ったより早かったじゃない」
千里は彼の様子を見てパッと顔を輝かせた。
「…あぁ。心配かけた」
声は少し嗄れているが、これならば普段の調子に戻るのも時間の問題だろう。
それよりも。
「ん?ていうかお前、俺が呼吸できるようになるって分かってたのか?」
地上の肺呼吸に対して、海中はエラ呼吸。
それらには通常、互換性がなく、つまりエラ呼吸の海棲人が地上で呼吸できるのは論理的に間違っているはずだ。
だが、事実として彼は呼吸ができるようになった。
そんな、張本人の彼ですら俄には信じがたい事実を、どうして目の前の彼女は簡単に受け入れているのだろう。
「うーん、私も詳しい原理は知らないけど、海棲人も慣れれば肺呼吸できようになるって聞いたわよ」
「誰に?」
「それは…」
彼女が言葉を続けようとしたその時――急ブレーキとともに、突然車が停止した。
「ぐえっ!」「え、ちょっと、なに!?」
慌てて2人が運転席の方へ顔を向けると、そこには今までにない渋い顔をした涼燕。
彼が見つめているのは前方。
「おっと…これはマズいかも」
釣られて前を向いた凛月が目にしたものは――フロントガラスいっぱいに広がる植物の群生だった。
無数に折り重なった巨躯は『壁』と形容するに相応しく、その全貌は高速道路の幅をゆうに越えている。
「なんっだありゃ!?」
驚愕するより他にない凛月の前で、千里は小さく溜め息をつくと。
「…これは逃げれないわね」
観念したようにそう呟いて、前を向いたまま左手を凛月の方へ差し出した。
「武器をちょうだい。後ろにあるから、早く!」
言われるがままに後部座席の奥へ振り返ると、そこには荷物置き場と思しき収納スペースと、床に転がる一本の太刀。
身の丈ほどのそれを引っ張り出し、柄を彼女の手に置くと、彼女はしっかりと柄を握り、蹴破るように助手席のドアを開け放つ。
「私が出るわ。涼は援護して!」
「りょうかーい」
涼燕の言葉に頷いて、飛び出して行こうとする彼女に、凛月が慌てて問いかける。
「おい、俺は!?」
だが、その問いに千里は振り返らないまま言葉を返した。
「まだ全快じゃないんでしょ?なら怪我人と同じじゃない。怪我人は大人しく休んどきなさい」
それは恐らく、彼女なりの善意のはずだ。
「…分かった」
「ならよし」
凛月の返事に、今度こそ千里は走り去っていった。
植物の前へと辿り着いた千里は、鞘から静かに太刀を引き抜いた。
その刀身は星灯りを受け、淡く銀色の光を放っている。
目前には、蛇のように畝る無数の枝葉。
それらが次の獲物を見つけたように、一斉に彼女の方へ向いた。
「さぁ…来い!」
千里の掛け声と同時、飛び出す無数の枝葉。
しかし、それらが彼女に到達することはない。
刹那――眩い【銀】色の輝き。
振り下ろした太刀が描く軌跡は、やがて【銀】色の斬撃となり、触れるもの全てを引きちぎる。
宙を舞う枝葉。
緑がかった樹液が服に飛び散るが、彼女はそれを歯牙にもかけず、再び太刀を振り被る。
そして、間髪入れず襲い来る植物の猛攻を軽やかに躱しながら、幾度も太刀を振り抜いた。
その度に生み出される【銀】色の斬撃は時に、植物をコンクリートごと抉り、大地に癒えぬ傷を残している。
彼女の持つ個人色は【銀】。
その能力――『万物両断』に、断てぬものなどありはしない。
「なんだありゃ、滅茶苦茶だな…」
その一部始終を、凛月は車の中から眺めていた。
放たれた【銀】色の斬撃によって、ありとあらゆる道理を無視して全てを破壊する彼女の戦闘スタイルは、見ていて非常に爽快だ。
しかし。
「勝てるのか…本当に?」
彼は気づいていた。
このまま戦い続けても、結果は見えている。
その理由は、植物の再生能力。
斬られた枝葉は、一時的に植物の動きを止めるものの、間髪を置かずに超速再生しているようだった。
あれに対処するには、枝葉は無視し、植物の核となる部分を破壊しなければならない。
それは彼女も重々承知しているようだが、あの物量で核を探し当てるのは、口で言うほど簡単な話ではない。
つまりは、ジリ貧。
そんな状況で、自分ばかりがいつまでも、指を咥えて静観しているわけにはいかない。
――核はどこだ…?
凛月は必死に目を凝らす。
核は恐らく、枝葉の生え際にあるはずだ。
それは人間で言うところの心臓と同じで、体全体を滞りなく支配するために、全ての枝葉が繋がる場所にある。
彼女が斬り落とした枝葉、それらが一体どこから再生しているのか…。
「――見つけた」
彼が見つめていたのは、植物のてっぺん、花の裏。
花弁と花弁の間に、わずかに赤く光る何かがある。
恐らく、あれが核だろう。
しかし。
――どうやって破壊する?
千里が持つ【銀】の個人色は破壊力こそ抜群だが、その並外れた威力ゆえ、離れた場所をピンポイントで狙うのは難しいだろう。
個人色とは、その人を表す要素の一つであり、つまりは適材適所がある。
「おい…涼燕って言ったか」
運転席と助手席の間から身を乗り出した凛月は、運転席の彼へと顔を近づける。
すると彼は、ヘッドフォンに片手を当て、顔を前方から動かさぬまま、眼球だけを凛月の方に向けた。
「涼でいいよ。どうしたの?」
「もしかして、お前の能力は『風』か?」
彼――比々谷涼燕の個人色は【灰】色。
その能力は、風を操ること。
先刻、車体を持ち上げていたのも風の力だ。
彼は今、両手でヘッドフォンを抑えているが、千里の周りの風が不自然に渦巻いていることから、彼女の援護をしているのだろうと推測できる。
「ご名答。それがどうかした?」
「アイツの核を見つけた。だが、あの女の攻撃じゃ届きそうにない。お前なら行けるか?」
「うーん、どうだろ。届きはするだろうけど、いかんせん決定力に欠けるかなぁ」
――くそっ…どうする?
歯がゆい思いに、自然と手に力がこもる。
その拍子に、所持していた水筒、正確には中に包まれたペットボトルが少し凹んでしまった。
それを目にした凛月の頭に、不意に過る一閃。
――待てよ。遠距離攻撃なら、ある…!
「おい!打開策を思いついた。協力してくれ」
涼燕は、ヘッドフォンを抑えたまま。
「んー、ちょっと今忙しいんだけどなぁ…分かった。ボクはどうすればいい?」
息が切れる。
噴き出す汗を、千里は手の甲で拭った。
吹きつける風に砂でも混じっていたのだろうか、肌は微かにざらついている。
――あぁもうっ、お風呂入りたい…。
戦場にも関わらず、彼女はそんな場違いのことを思った。
目の前で蠢く植物の群生は、残念なことにまだまだ元気が残っているようだ。
「チッ、しつこいわね…」
彼女はそう吐き捨てながら、再び銀色の斬撃を振るい――ただひたすらに、時間を稼ぐ。
彼女は待っていた。
車内に残した彼が、打開案を思いつき、この窮地を切り抜けてくれることを。
それは期待にも似た『確信』。
なぜなら、例の神託通りなら――彼は私たちにとっての『希望の星』なのだから。
「早くしなさいよ…!」
――私は、守りに徹するのは好みじゃないの!
そんな雑念を抱く彼女の視界の端で、不意に車のドアが開く。
飛び出してくる涼燕と凛月。
凛月の手には水筒が握られている。
――水筒?
足早に駆けつける2人に対して、彼女はとりあえず一喝。
「遅い!…で?何か思いついたわけ?」
「え?お前、さっき休んでろって…」
彼女の態度に困惑する彼だったが、その言葉はすぐに飲み込んだ。
今はそんな、押し問答をしている場合ではないからだ。
「作戦を思いついた。協力してくれ」
――思った通り。
千里は内心喜んでいたが、それを決して顔には出さなかった。
「そうでないと困るわ。…で、私の役目は?」
「今までと同じでいい。でも少しだけ、アイツをその場に留めておくことを意識してくれ。てっぺんにある花弁の位置が、できるだけ動かないように」
「分かった。なるべく手短にね…2分よ」
彼女は快諾すると、返事を聞くよりも早く駆け出していく。
それを見届けた凛月は勢いよく後ろを振り返った。
「時間ねぇな…じゃあ、涼!手筈通り頼むぜ!」
「了解っと!」
彼と入れ替わりで前に出た涼燕の右腕に、【灰】色の輝き。
それとほぼ同時、彼の周りには旋風が渦巻き始める。
「準備万端!」「オッケーだ!あとは…」
凛月が持つ【群青】の能力を発動するには、水分が必要だ。
しかし幸いなことに、此処は海に近いため、空気に含まれる水蒸気で十分だろう。
「行くぞ!」
【群青】色の輝きとともに、彼が大きく振り被って放ったのは…千里の水筒だった。
水筒は回転しながら、植物めがけて突き進んでいく。
多少コントロールに難があるため、狙いがブレているようにも見えるが、そんなことは関係ない。
「涼、頼む!」「オーケー!」
合図と同時、涼燕が溜めに溜めた旋風を前方に撃ち放つ。
風は水筒を巻き込みながら、一直線に植物のてっぺんに咲く花弁へ。
風が生み出す衝撃で、水筒はさらに軋んでしまうが、破裂するには至らない。
そのまま、旋風は花弁に直撃し、ドリルのように肉体を抉った。
そこで遂に、水筒が破裂してしまう。
――今だ!
凛月は左手を翳し、極限まで集中。
水筒の中にある水を触媒として…植物を『凍結』させにかかる。
足りない水分は、辺りの水蒸気で補えばいい。
それらを全て、一点に!
植物は抗うように畝るが、凍結を止める術はない。
やがて――完全に動きが止まる。
「よっしゃ!やった…!」
「いや、まだだ!」
凛月が、突き出した左拳を強く握ると同時、植物を覆った氷が、植物の体ごと弾け飛ぶ。
バラバラに飛散したそれらは、二度とは元に戻らない。
砕け散った氷の破片は、季節外れの霰のように、風に流されどこかへ消えていく。
彼はその一欠片を、そっと手で掴んだ。
氷は掌の熱ですぐに溶けて消えてしまう。
それを見届けた彼が、ゆっくりと顔を上げると。
「そういえば、まだ名乗ってなかったわね」
いつの間にか、目の前には黒髪を靡かせた彼女の姿がある。
彼女は太刀を鞘に収めると、真っ直ぐに凛月の顔を見つめ。
「私は千宮寺千里。アンタは?」
視線が交錯する。
「凛月。才波凛月だ」
瞬間、雲間から溢れ出す星灯りが彼らの頭上に降り注ぐ。
それはまるで、彼らの出逢いを祝福しているようにも見えた。