1章1「始まりはいつも唐突に」
潮騒が聞こえる。
鼓動のように撃ち出された波濤は、一直線に砂浜へと駆け上がり、やがて膂力をなくして在るべき場所へ還っていった。
その道すがら、呑まれて消えた色鮮やかな貝殻は、砂浜に僅かな轍を刻んだものの、次の波濤で再びまっさらに塗り替えられてしまう。
それが指し示すものは、絶えず繰り返される不変。
不変とは、微動だにしないことではなく、巡り巡って全てが一意に帰結すること。
例えば夜空に浮かぶ新月は、時が満ちればやがて望月となり、完全無欠を世に知らしめる。
雲に隠れた数えきれない星々は、やがて雲間から顔を出すと、互いの出会いを祝福するように燦然と輝き出す。
そう、この世に巡るものの全ては、必然の産物でしかなかった。
即ち人の栄華も生死も、一夜の出逢いも。
「さてと、一体どこにいるのかしらね」
星灯りが映し出したのは、砂浜を歩く1人の少女。
麗しい漆黒の髪は、次第に強さを増す陸風に煽られ、嫋やかにたなびいている。
その漆黒はあまりに深く、まるでスクリーンのように星灯りを映していた。
それを抑える左手は、陶磁器のように真っ白。
触れれば壊れてしまいそうな華奢な身体は、厳格さにものを言わせた軍装束とは致命的に不釣り合いだ。
やがて、風が少し収まったところで漸く少女は立ち止まる。
淡く金色に光る双眸が、ゆっくりと海岸線へ。
そして、吊り上がる口角。
「…見つけた」
彼女――千宮寺千里の視線の先には、波打ち際に倒れこむ、才波凛月の姿があった。
「…ンタ!ちょっと!聞いてる!?いつまでそこで寝てるつもり?早く起きなさいったら!」
朧げな意識の中、凛月は確かにその声を聞いた。
芯が強く真っ直ぐで、からりとした夏風のような声だ。
それが引き金となり、彼の意識と身体は徐々に本来の鋭敏さを取り戻していく。
まず視界に入ったのは、砂浜に打ち上げられた己の左腕。
肌には真っ白な砂粒がふんだんにあしらわれ、ザラザラとした感触とともに確かな乾燥を彼の脳に伝えてくる。
それは、これまで海中で生活してきた彼にとって、味わったことのない奇妙な感触だった。
湧き上がった興味の赴くまま、左腕を動かそうとしていた彼に、突如襲う強い衝撃。
焦点の定まらない視界の中で、彼はどうやら自分が揺さぶられていることに気づく。
その源は、彼の肩に触れた掌。
彼は左腕に力を込め、ゆっくりとそれを掴んだ。
それは温かく乾いていて、そして強く握れば壊れてしまいそうなほどに脆い。
――人か?
いまいち判然としないまま、ゆっくりと顔を上げる彼の視界に飛び込んできたのは、こちらを見つめる黒髪の少女。
第一印象は、とても美しい人だった。
長くて艶のある黒髪は、黄色の瞳にとてもよく映えているし、顔の各パーツはどれも息を呑むほど端正だ。
しかし、感情任せに吊り上がった眉毛が、全てを台無しにしてしまっている。
そんな呑気なことを考えているうちに、彼の視線に気づいた少女はパッと瞳を輝かせた。
「…やっと起きた!もう、心配させないでよ!」
彼女は安堵とも呆れとも取れる息を吐くと、こうしてはいられないとばかりに勢いよく後ろへ振り返った。
その拍子に、月光を反射した黒髪がしなり、宙に大きく花開く。
「よし、じゃあ…涼!車の準備はできてるわよね?無事と分かればさっさとトンズラよ!」
「へーい」
息巻く彼女に対して、遠くから聴こえる『涼』と呼ばれた男の声は弛緩しきっている。
その温度差に少し面食らう凛月だったが、いや、そんなことよりも。
――今、『車』って言ったか?
車というのは確か、地上で用いられる移動手段の一種だったはずだ。
アトランティカには荷物を運ぶ『貨車』くらいなら存在するが、恐らくそれと彼女が言う『車』は似ているようでまるで違う。
そこまで考えたところで、彼は漸く何かを思い出したように目を見開いた。
――そうだ、俺は。
脳裏にフラッシュバックしたのは、視界いっぱいに広がる蛸の形をした化け物。
それと対峙した自分は、無理やり共倒れへと持ち込んで、そこから先は何も思い出せない。
否、『自分はこんなところで油を売っている暇はないはずだ』、それだけは自信を持って思い出せる。
――俺は…!
感情の赴くまま、言葉を紡ごうとした彼だったが、不意に動きが止まる。
理由はまるで分からないが、喉に何かがつっかえたように、全く声が出せないのだ。
そのままパクパクと口を開閉すること数秒、彼はある重大なことに気がついた。
――呼吸ができない。
「…ッ!…ガッ!ガハッ…!」
肌に張りつく砂粒、異常な渇き、極めつけには呼吸のできない環境。
まさか、此処は…。
「え、なに、急にどうしたの!?」
彼の様子に気づいた少女が、慌てて駆け寄ってくる。
彼女は彼の背中にそっと手を当てた後、何かに気づいたようにポンと手を叩いた。
「…そうか!海棲人は地上で呼吸できないんだったわ!」
彼女はそう言いながら、自ら腰元に手を伸ばし、そこから水筒を引っ張り出す。
そして、淀みない手つきでキャップを外すと――水筒の口を、凛月の口へと勢い良く突っ込んだ。
「ガバボッ!?」
呼吸ができないこととは別の危機を本能的に感じ取った彼は、懸命にもがいてみせるが、彼女の力は思いのほか強い。
彼女は、なおももがく彼の首根っこを捕まえると、今度は打って変わって優しい声を紡いだ。
「大丈夫、落ち着いて。すぐに楽になるから」
その言葉に、凛月は漸く抵抗をやめる。
相変わらず訳のわからない状況だったが、やがて彼の口内に何か冷たい液体が触れた。
反射的にそれを飲み込むと、彼がこれまで味わったことのない渋い茶の風味とともに、ほんの少しだけ喉の渇きを潤してくれる。
その行為を繰り返しているうちに、呼吸は次第にいつもの調子を取り戻し、やがて完全に安定するに至った。
まだ、水筒から口を離せるほどではないが、思考が正常に働く分、先ほどよりは随分マシだ。
――どうやら俺は、この子に助けられたらしい。
彼が感謝の意を込めて手を軽く挙げると、彼女は大きく胸を撫で下ろした。
「はぁ~。ビックリさせないでよ、もうっ!」
彼女はそう言って、彼の肩を小突く。
「これでやっと、落ち着いて話せるわね…しっかし、どこから話したものやら」
顎に手を当て思案に耽る彼女だったが、すぐに背後から迫る声により断念させられてしまう。
「ちょっと、千里ちゃーん?」
現れたのは、先ほど気の抜けた返事をしていた男。
年齢は恐らく凛月と同じくらいだろう。
目を引くのは、額がよく見えるよう、後頭部へと流されたオールバック風の金色の髪。
赤みがかった瞳、首元には真っ黒なヘッドフォン。
彼は、ヘッドフォンに片手を当てたまま、少し慌てた様子で彼女の元へ駆け寄ってくる。
「まだお取り込み中?そろそろ潮時っていうか、なんなら囲まれちゃってるし」
「…あんまり悠長もしてられなくなったわね」
彼の言葉を受けた少女が立ち上がる。
そして、凛月の方へくるりと振り返り。
「ここは地獄よ。私たちとともに生き長らえるか、それともここで死ぬか。選びなさい」
そう言って、真っ直ぐに手を差し伸べる。
だが、一部始終を見ていた凛月はすぐには動かなかった。
彼の胸中に渦巻く感情は『疑念』。
彼女たちが嘘をついているようには見えない。
ならば此処は地獄であり、このまま留まっていても命の危険が待ち受けているのだろう。
しかし、それが即ち、彼女たちを信用する理由になるわけではない。
彼は選択しなければならなかった。
生に縋るか、死を受け入れるか。
――考えるまでもなく、答えは一つだ。
俺には、果たさなければならない約束があるから。
守らなければならない人がいるから。
それに――こういうシンプルなのは嫌いじゃない!
彼は一瞬の静寂の後、しっかりと彼女の手を掴んだ。
「決まりね」
彼女――千里は満足げに頷くと、握る手に力を込め、凛月を引っ張り上げる。
「肩貸すから捕まって」
立ち上がった彼は、自分の身体が何となく重いことに気がついた。
それはまるで、地面から伸びる鎖に引っ張られているような。
彼の感覚は正しい。
海中では主に塩分濃度と浮力の関係で、常に身体が浮いているような感覚で生きていたのだから、彼にとって重力を全て身体に受けるという経験自体が初めてだ。
彼は大人しく彼女の言葉に甘えることにした。
彼女の導きに従ってゆっくりと歩を進める二人、それに対して不意に鳴らされる大きなクラクション。
音の鳴る方へ視線を向けると、そこには一台の白い車と、運転席から顔を覗かせたヘッドフォン男がいる。
「お2人さん、へいへい!」
「…ッ!見てないで、少しはアンタも手伝いなさいよ!」
「はは、ごめんごめん」
彼女は男の態度に大声で噛みつきつつ、既に開かれた後部座席へと凛月を運び、そのまま車内へと押し込んだ。
その拍子に、彼の頭頂部が背もたれに勢いよく激突。
――雑!
文句を物理的に言えない彼が恨めしげな目で見つめるも、彼女は意にも介さずピシャリとドアを閉め、自分は車の後ろを回って助手席へ。
「はい、いっちょあがり!さあ、行くわよ!」
「オーケー…と、その前に」
シートベルトを装着する彼女を横目に、男が運転席に座ったまま後部座席へ振り返った。
視線が交錯する。
「初めまして。ボクは、比々谷涼燕って言うんだ。これからよろしくね、名無しの海棲人くん」
――別に、好きで名乗ってないわけじゃねぇ。
無言で睨みつけると、男――涼燕はふと、何かに気づいたように眉を上げる。
彼の視線の先には、凛月が咥えたままの水筒。
「あれ、その水筒、まさか間接キ…」
彼がそこまで口に出したところで、不意に隣から伸びた拳が、彼の脇腹を正確に貫いた。
「うごッ!」
「さっさと出発しなさい」
有無を言わせぬ彼女の剣幕に、身の危険を感じて口を噤んだ涼燕は、運転席に座り直すと、シフトノブに手をかける。
そして、ノブを勢いよく下ろし、ドライブモードに切り替えると。
「さて、名無しの海棲人君。もしかして、ドライブは初めて?なら…楽しんでいこう」
――そう言って、アクセルを目一杯踏み込んだ。
夜道を疾走する一台の車。
否、それはもはや『道』と呼べる代物ではない。
一見してそれは、海沿いにすらりと伸びた高速道路であったが、ところどころに穿たれた大穴や、道を塞ぐ瓦礫の山、そして得体の知れない死屍累々が折り重なり、かつての面影はどこにもない。
しかし、そんな荒廃した荊道を、車は悠然と駆け抜けていく。
ハンドルを片手で握りながら、鼻歌交じりにフロントガラスの向こうを眺めている涼燕の様子から察するに、これが日常なのだろう。
それは、凛月が書物などから知識を得て、密かに思い描いていた地上の世界とは、あまりに乖離した風景だった。
やがて車は、一本のトンネルへと差し掛かる。
と同時に、凛月が車窓から眺めていた景色は一転して黒塗りされ、代わりに反射した自分自身と目が合った。
瞳に宿る感情は『落胆』か『不安』か、それとも…。
「…もうすぐ出口だよ。出待ちされちゃってるけど、気にしない方向で」
運転席から涼燕の声が聞こえてくる。
釣られてフロントガラスに向き直ると、トンネルの向こう側に微かな光が差し込んでいるのが見えた。
だが、それ以外は依然として真っ黒。
にも関わらず、彼はまるでトンネル内部の構造を把握できているとでも言わんばかりに、躊躇なくハンドルを切っている。
助手席の千里は、窓枠に肘をついたまま微動だにしない。
静寂。
と同時に、視界を徐々に蝕んでいく眩いばかり光。
そして遂に、トンネルを抜ける。
目を細める凛月の瞳に、飛び込んできたのは。
――なんだよ…これ…。
歪に変貌した動植物が、世界を覆い尽くしている光景だった。