序章4「Another Moon」
同日21時、アリシアとの約束の時刻。
凛月は彼女との約束の場所…ではなく、アトランティカの領海を泳いでいた。
その目的はもちろん、大船の捜索だ。
アリシアは再度かけあうと言ってくれたが、恐らく王は意見を変えないだろう。
なぜなら、王が彼女をこの件から遠ざけた理由は、彼女の身を案じてのことだから。
後継者としてこれまでずっとアトランティカに閉じ込めてきた彼女を、今さら外の世界に関わらせるなどあり得ない。
そしてそれは、凛月も同じだった。
彼女をアトランティカという水槽から解放し、外の世界を見せてあげたいという気持ちに偽りはない。
しかしそれは、危険の迫る今ではない。
だからこそ、彼女との約束を反故にしてでも、大船の捜索を強行したのだ。
「なあ、凛月…本当にこっちで合ってんのかよ?」
背後から聞こえる囁き声に釣られて振り返ると、そこにはボウガンを構えたまま、所在なさげに左右をキョロキョロ見渡す健人の姿がある。
彼の目元には夜間巡回用の暗視ゴーグルが装着されており、表情は窺い知れないが、恐らくいつものような溌剌さは期待できないだろう。
「怖かったら、引き返しても構いませんよ?」
凛月が何か言うよりも早く、莉果の挑発じみた言葉が辺りにこだました。
彼女は健人に並走しながら、無表情で腕の探知用レーダーを確認しており、その平時と変わらぬ振る舞いが彼とは対照的だ。
「別にそんなんじゃねぇけど」
「あらそう。参考までに、進行方向は問題なし。周囲の敵も鎮静化していて、現状特に異常ありません」
「ならいい」
そう言って一時的に引き下がる彼だったが、やはり不安は拭い切れないようだった。
だがそれも仕方のないこと。
夜の海は不気味なほどに静かだ。
白昼に絶えず行われる生物の営みは、まるで時が止まったかのように鳴りを潜め、普段は気にも留めないはずの潮流の僅かな音にすら、神経過敏になってしまう。
その、あまりにも平時と乖離した『違和感』こそが、否が応にも人の恐怖を駆り立て、いつも通りを狂わせる。
そしてそれは、凛月も同じだ。
「…付き合わせて悪いな。さっさと目的を達成して帰ろう」
「謝らなくてもいいですよ。みな、納得してのことですから」
アリシアを連れて行くのは論外だったが、一人で捜索に乗り出すのも荷が重い。
そう考えた凛月は健人と莉果に声をかけ、これまでの経緯をありのまま説明することにした。
全てを聞いた2人は快く協力を承諾してくれ、今宵の捜索が実現したわけだが、しかしそれでも安心には程遠い。
ただでさえ普段と違う環境、それに加えて未知の敵と邂逅する可能性すらあると来た。
故に深入りは禁物。
先頭の凛月は、それを再度胸に刻みつつ、足早に目的地へと泳いでいった。
「…止まって。あと1kmで『禁足地』です」
莉果の声に、全員の動きが止まる。
一見するとそこは、これまでと何ら変わらぬ海の続きに見えた。
それもそのはず、アトランティカの領海を仮に10kmと定義しているだけで、そこを境に突然環境がガラリと変貌を遂げるわけはない。
しかし、ほんの少し気を抜けば、瞬間全てが瓦解してしまう。
そんな得体の知れない『何か』が、彼らの背筋を絶えず這い回っていることだけは事実だ。
それが先入観であることを祈りつつ、凛月は2人に向けて声をかけた。
「じゃあ後は作戦通りだ。禁足地から一定の距離を保ちつつ、一周するぞ」
その言葉に無言で頷く2人を見て、凛月は再び移動を開始した。
禁足地から一定の距離を取ってさえいれば、万が一何か不測の事態が起きた際にも、撤退に転じることができる。
この行動は、彼らの間で事前に合意を取った結果だ。
移動の最中、会話はない。
耳を掠める水泡の音すら障るような静寂。
大船の手がかりとなる何かが見つかって欲しい反面、不測の事態は何も起きて欲しくないという、一見して矛盾した感情が胸のうちに渦巻く中、刻一刻と過ぎる時間。
そして、遂に。
「おい…あれ」
不意に立ち止まった凛月が、驚愕の表情とともに見上げた水面の向こうにはーー星明かりを覆い隠さんばかりの大船の船底が確かに存在していた。
背後から彼と同じく、息を呑む声が2つ聞こえてくる。
「な、なあ…もしかして、あれが…」
「間違いない。あの船だ」
確信に満ちた凛月の返事に、健人は暗視ゴーグルを外して目を細める。
その隣で莉果は、探知用レーダーを一瞥し、静かに顔を上げた。
「敵影ありません。近づきますか?」
「…いや、少し様子が見たい」
相変わらず大船は海上で静止している。
乗っているのは何者なのか、そして目的は何なのか。
分からないことが多すぎる中で、性急に動くべきではない。
そう考える凛月だったが、それに対し健人は不満げだ。
「ここまで来といて、そりゃないぜ。ここからじゃ分かるもんも分からねぇよ」
「おい待て!」
凛月の制止も虚しく、健人は海底の岩場を蹴って前へ。
「チッ…!莉果、レーダーから目ぇ離すなよ!」
背後の彼女にそう命じ、健人のもとへ向かおうとした凛月に。
「待って!」
彼女の口から発せられたのは、普段の彼女に似つかわしくない焦燥を孕んだ声。
――なんだか嫌な予感がする。
凛月が彼女の言葉の真意を問うよりも早く、彼女は【青緑】色の輝きを放ったレーダーから目を離し、声を絞り出す。
「14時方向から敵影あり!しかも…疾い!」
「健人、早く戻って来い!」
その鋭い呼び声で、漸く危険を悟った健人が、血相を変えて彼らの下へ戻って来る。
しかしその判断は、あまりにも遅かった。
ーー刹那、凛月の視界の端に映る一筋の影。
それが何か判別する間もなく、影は唸りを上げて彼らのもとへ迫り、彼の目前を通り抜けていった。
続けて襲い来る、渦の奔流。
「ぐっ…!」
その圧倒的な力を前に、吹き飛ばされないよう抗うので精一杯の彼は、左腕を前に突き出し、懸命にただ、嵐が過ぎ去るのを待つ。
荒れ狂う奔流は始めこそ激しいものの徐々に力を失い、やがて舞い踊る気泡とともに海に溶けて消えていく。
そこで漸く目を開けることのできた彼の、視界に飛び込んできたものは。
――透き通った海に不釣り合いの、濁った赤。
それは、土煙のように巻き上がり、視界を霞ませたかと思うと、拡散して徐々に色味を失っていく。
少しずつ露わになった景色の向こうには、所在なさげに揺れる人の足。
凛月は反射的に、視線を足の爪先から腰へと上げていき…そして今度こそ絶句する。
そこには――上半身を失い、変わり果てた姿の健人があった。
「…け…健人…?」
目を疑うような光景に、痺れる身体。
にも関わらず、脳だけは空気を読まずに回転し、彼に鮮明な現実を送り続ける。
――最初から覚悟していたことだ。
大船捜索に乗り出す前、いやもっと前。
討伐隊に入り、命を懸けて闘うことを誓ったあの日から、いつ誰が死んでもおかしくないと心に留めていたはずだった。
しかしそれが、今日訪れるかもしれないという、当たり前の可能性にすら、今まで気づかないフリをしてきた自分が、確かに此処にいた。
血の気が引いたような感覚とともに、視界は歪み、意識は徐々に暗闇へと引き摺られていく。
だが、その現実逃避じみた感情も長くは続かない。
――次が来る。
それを本能的に理解した彼の意識が、唐突に覚醒する。
「くそ…くそくそッ…!」
――何か…何か打開策は…!?
焦燥、憤怒、そして絶望。
様々な感情でぐちゃぐちゃになった脳味噌の中で、辛うじて捻り出した理性を基に、打開策を探す彼だったが。
何も思い浮かばない――それが全ての答えだった。
「…莉果」
「…はい」
横目に彼女の顔が映る。
その顔は恐怖に歪んでいた。
彼女もまた感情の波に圧し潰され、一歩も動くことができずにいる。
「逃げろ」
「え…で、ですが…!」
彼女は躊躇う様子を見せるが、どうしようもないのだ。
もっと強く健人を制止するべきだった。
もっと早く撤退に舵を切るべきだった。
後悔ばかりが渦巻くが、それではなんの解決にもならない。
ならば、せめて。
「…俺があれを引きつける。その間にお前は逃げて、アリシアにこれを報告するんだ」
固まる莉果に対し、凛月はさらに語気を強め。
「行け、早く!」
その言葉に彼女は、意を決したように離脱を開始する。
それを見てから凛月は、彼女と反対方向へ強く蹴り出した。
彼が向かったのは、禁足地のある方向だった。
普段であれば命知らずと罵られるであろう行動だったが、今回ならば好都合。
例え命が尽きようと、囮としての役割が果たせれば十分だ。
意を決して海を泳ぐ彼の左腕からは、彼に呼応するように【群青】色の光が満ちている。
光に照らされ徐々に凝結していく海水。
それを確認した彼は、わざと氷に亀裂を生じさせ、破片を広範囲にばら撒いていく。
時間稼ぎのために用意した、急拵えの打開策は一つ。
それは、逃げ切れないこと前提で、カウンターを決めること。
作戦はこうだ。
生み出した氷の破片を広範囲へ撒き、近づいた敵にそれを踏ませる。
すると接触した瞬間、氷の破片は触媒として更に凍結領域を広げ、敵の一部を水中に絡め取る。
その一瞬の膠着を突き、腰に提げた剣の一振りで斬り返すのだ。
覚悟を決めた凛月は、氷の破片が十分に散布されたことを確認すると移動をやめ、巣を広げた蜘蛛のように、ただ獲物がかかるのを待つ。
暫しの静寂。
ほんの僅かな音も聞き漏らさないように、彼は目を瞑り、心を研ぎ澄ませていく。
ピンと張り詰めた緊張感。
その中で彼はーー微かな音を聞いた。
海を震わすその音は、始めこそ小さかったものの、徐々に鮮明さを増していく。
――来た!
その直感に従って、目を見開いた直後。
視界に飛び込んできたのはーー巨大な蛸の化け物だった。
特徴的なのは、吸盤を持つ無数の触手。
主を守るように蠢く触手の中心には、人の貌をした何か。
覗く黒色の双眸、そこに映る感情は読み取れない。
化け物は凍結領域に体を投じ、海中に縫いつけられるようにしてその動きを止めている。
自分の作戦が通じたことに安堵した矢先、遅れてやってきた生理的嫌悪感に、全身が総毛立つ。
だが、そんなことを考えている暇はなかった。
「嘘だろ…?」
彼の視線の先には、軋みを上げて自壊していく氷の柱。
全身を絡め取っていたはずのそれを、化け物は腕力だけで強引に突破しようとしている。
再び自由が戻ってしまえば、もはや彼に勝ち目はない。
「くそっ!」
凛月は素早く足を蹴り出し、化け物のもとへ近づきながら剣を振りかぶる。
だが、その行動がほんの少しだけ遅かった。
彼が剣を振り下ろした瞬間、鋒が化け物の体に触れるよりも先にーー氷の柱が完全に飛散した。
氷の破片の隙間から伸びる無数の触手が、彼の剣と交錯し鈍い金属音を鳴らす。
一撃一撃が重い。
当然、剣一本で受けきれるはずもなく、あっという間に押し切られてしまう。
「くそっ…!」
吹き飛ばされながらも、何とか体勢を立て直そうとする彼に、再び襲う無数の触手。
――凌ぎ…切れねぇ…ッ!
悪い予感が過る彼の前で、触手の1つが剣の腹から横に飛び出し、遂に彼の脇腹に届いた。
「がッ…!」
海中に舞う、霞のような血飛沫。
次第に薄れていく視界と意識の中、彼は急速に自身の命が失われていくのを感じ取った。
――ここまでか…。
絶望感に打ちひしがれる状況で、彼の脳裏にぼんやり映し出されたのは、他ならぬアリシアの姿。
ーー悪い、約束…守れなかった…。
彼女の孤独を紛らわせ、外の世界に導くのは自分の役目だったはずだ。
だがここで自分が死ねば、彼女は再びアトランティカという名の水槽に、囚われの身となってしまう。
そして恐らく、その運命を受け入れてしまうに違いない。
ーーと、そこまで考えたところで、彼の思考は横殴りの衝撃に遮られてしまう。
元凶は、彼の手足に絡みつく触手。
抗うことのできない圧倒的な力に引き摺られて、彼の身体はゆっくりと化け物のもとへ。
蠢く触手の内側に鎮座する人型の何かの表情は、生み出された陰影により判然としない。
だが、まるで凛月を取り込もうとするかのように、細い腕だけが真っ直ぐに彼へと伸びている。
やがてその手はゆっくりと、彼の心臓に触れ。
次の瞬間――氷漬けになる。
「…!?」
少しだけ動きを止めた、その行動が示す感情は『驚き』だろうか。
そして、化け物の感情が生み出したその一瞬を、彼は見逃さなかった。
ーーこのまま終わりになんて、絶対させねぇ!
彼女の約束を果たすためには、死んでいる暇などないのだ。
彼の瞳には、一度消えかけた【群青】色の闘争心が、再び輝いている。
「うおおおおおおおおおおおッ!!!」
雄叫びとともに繰り出される、全身全霊の一撃。
【群青】色の輝きは彼に呼応するように激しさを増し、夜の海を燦然と照らす。
その輝きは全てを呑み込み――やがて海に溶けるように消えてしまった。
沸き立つ【群青】。
その真上。
そこには、戦いの行く末を見届けるかのように、一隻の大船が浮かんでいた。
デッキの上にはグラスを片手に、ワインを嗜む1人の男。
清潔感、或いは神経質を思わせる純白のスーツに身を包み、几帳面に整えた金色の髪を風に靡かせたその男は、【群青】の灯る海を、まるで演劇でも鑑賞するかのように見下ろし、デッキの縁に身体を預けると。
「…いい眺めだ。まるで、水面に浮かぶもう一つの月のようじゃないか。それだけに今宵、月の不在が本当に悔やまれる」
微笑みを称えたまま、優雅に空を仰いだ。
――そう、彼の言う通り、今夜は新月だった。
代わりに空には満点の星々。
彼らのおかげで地上は光に満ち、夜にも関わらず視界は悪くない。
「だが、それもまた一興だ。なぁ、イルネスタ。君もそう思うだろう?」
そう言って振り返った先には、いつの間にか1人の女性が佇んでいる。
せり出した屋根の陰に隠れ、その顔は判然としないまま、彼女は男を無視して淡々と報告を告げる。
「海棲人を1匹、取り逃がしたそうです」
「うん?別に構わないよ」
男は笑みを崩さない。
それはまるで、世界の全てが自分の掌の上だと言わんばかりの表情で。
「海棲人などいくらでもいるからね。それに…」
彼はワインを一息に飲み干すと、空になったワイングラスを、海へと投げ捨てた。
ワイングラスは星灯りを反射しながら弧を描き、やがて水面を叩いて沈んでいく。
それを見届けてから男は、笑みを更に深めた。
「奴等が掴めるのは所詮、水面に映る月までだ…そうだろう、『Another Moon』?」
その問いかけは、夜風に乗ってどこか遠くへ流れ、誰の耳にも届くことはない。
やがて、静かに動き出した船は、海の静寂に溶け込むようにゆっくりと――夜の帳に消えていった。
タイトルの和訳「もう一つの月」