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アクアテラリウム  作者: 真島 悠久
序章 『Over the Silence』
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序章3「後悔の色を知った日」

 その後はただの談笑だった。


 普段よほど腹を割って話せる相手が身近にいなかったからだろうか、アリシアの口から流れる言葉はとめどなく、およそ1時間ほど止むことはなかった。


 暗に時間を伝えることでようやく談笑から解放された凛月は、別れの挨拶あいさつを口にしてやっと、アパートへ帰宅した。


 そこは一見、廃墟はいきょと見間違うようなボロアパートで、家賃は幽霊ゆうれい物件かと聞き間違うほどに安い。


 正面はエントランスとは名ばかりのザル警備で、10階建てにも関わらずエレベーターなどどこにもない。


 しかし、こちらに関しては、安くてボロいからではなく、海の中にあるから。


 陸上と違い、上下の移動は泳げば簡単に行えるのだから、正面玄関を経由せずとも、直接自宅の扉へ向かえば良いというわけだ。


 「ただいまー」


 そう言いながら扉をくぐると、部屋を仕切る扉の向こうから何やらバタバタと騒がしい音が聞こえてくる。


 彼はそれに構わず靴を脱ぎ捨て、リビングへと踏み入った。


 リビングは白を基調とした簡素で、真ん中には4人掛けの大きなテーブルが一つ。


 他に家具と呼べるものは箪笥タンスと食器棚くらいのもので、設備が十分に揃っているとは言い難い。


 両親の死後、それまで住んでいた家を引き払わざるを得ず、家具の多くを手放したのだが、この大きな机だけは手放すことをがんとしてこばんだのだ。


 凛月ではない、拒んだのは…。


 「おかえりー!」


 溌剌はつらつとした声がリビング中に響き渡る。


 声のした台所の方へ目を向けると、そこには仕切りの奥からちょこんと飛び出した、黒のポニーテール。


 同時に聴こえ始める鼻歌。


 それに合わせてポニーテールが、オーバーぎみに左右に揺れている。


 ――海藻かいそうみてぇ。


 彼がそんな失礼なことを考えている間に、台所から一人の少女が姿を現した。


 黒髪に映える鮮やかな青色の瞳と、人懐っこい笑顔。


 「お兄ちゃん、なにボサッとしてるの!早く着替えて、ご飯の支度したく手伝って〜♪」


 水玉模様のエプロンが、少女の動きに合わせて揺らめく。


 凛月の妹――才波さいば海音みおんはいつもこんなテンションだ。






 「今日はごちそうだよ~♪」


 着替えるために離席した凛月が再びリビングへ戻ると、食卓には既に料理が並んでいた。


 今日のメニューは貝類。


 アトランティカの料理は基本的に海藻か魚類、しかも青魚が多い。


 料理とは言え火が使えないため、そのまま食べるのと大して変わらない。


 毎日青魚ばかりでも飽きるので、貝類があるなら今日は確かにごちそうだ。


 「海音、どうしたんだこれ?よく手に入ったな」


 「えへへ~、今日はアリシアさんの生誕祭でしょ?だから安くしてくれたの~♪それに…明日は白浜しらはまデパートのバーゲンセールだよ!英気を養う意味も込めて、今日はいいものをたくさん食べないと!」


 「へー」


 白浜デパートで開催されるバーゲンセールと言えば、服やその他の雑貨類が半額以下の値段で買える、正真正銘しょうしんしょうめいの神イベント。


 なぜそんなものが明日行われるのかというと、恐らくアリシアの生誕祭にあやかっているからだろう。


 王族パワー、恐るべし。


 「へー、じゃなくて!お兄ちゃんも行くんだよ!頼りにしてるよ、荷物持ち!」


 海音は凛月のとぼけた態度が気に入らなかったのか、柳眉りゅうび倒豎とうじゅに立ち上がる。


 続け様に腕をまくってガッツポーズ。


 しかしそれを見た凛月の視線は、なおも白々しい。


 「えー」


 「えー、も禁止!明日服を手に入れなくちゃ、今年いっぱい真っ裸(マッパ)だよ!ご近所さんの目が痛い!」


 「目が痛いだけでめば、むしろラッキーだけどな」


 「才波家の秩序ちつじょ体裁ていさいを守れるか、その命運はあたしたちの手にゆだねられた!さあ、立ち上がるのだお兄ちゃん!」


 そう言って目を輝かせる彼女は、一歩もゆずる様子が見られない。


 実は両親がいるいないに関わらず、才波家の実権を握っているのは他ならぬ海音だった。


 彼女の言うことは絶対かつ最優先事項。


 なんだかんだ言いながらも、結局最後は自分が折れることになるんだろうな。


 凛月は貝の身を咀嚼そしゃくしながら、まるで他人事のようにそんなことを思った。






 翌日、海音ともに白浜デパートへ繰り出した凛月は、すぐにおのれの軽はずみな考えを後悔することになる。


 「なんだこれ…」


 開店時刻は8時で、今は7時過ぎにも関わらず、見渡す限りの人、人、人。


 その誰しもが瞳の奥に確かな闘志とうしをギラつかせ、一触即発のサバンナといった具合だ。


 静かに絶句する凛月の隣では、長袖のシャツを肩までまくった海音みおんが、まるで日常茶飯事にちじょうさはんじとでも言わんばかりの涼しげな表情で屈伸くっしんに勤しんでいる。


 …屈伸?


 「いやいや、ちょっと海音さん?」


 「え、なに。お兄ちゃんも急に動くとケガするから、ちゃんと準備体操しときなよ〜」


 彼女はそれだけ言って、凛月から視線を背けて自分の準備に戻った。


 戸惑とまどう彼が半ば逃げるように視線を泳がせ、辺りの人々の様子をうかがうと、なぜこれまで気づかなかったのかと自分を疑いたくなるほどに、誰もが動きやすい軽装でしっかりと準備運動を行っている。


 どうやら自分は、とんでもないところに足を踏み入れてしまったようだ。


 「おいおいおい、聞いてねぇぞ。か、帰りてぇ…」


 そんな弱音をポツリと漏らすと、それを聞きつけた海音が髪を逆立てて顔を上げる。


 「しっかりしてよ、お兄ちゃん!そんなんじゃ、みいる強豪と渡り合えないよ!」


 「並みいる…なんだって?」


 彼女の口からつむがれるあまりにも予想外の言葉に、咄嗟とっさに聞き返すと、彼女はぐるりと周りの人々を見渡した後、真剣な眼差しであごに手を当てた。


 視線の先には、細身で鋭い目つきをした一人の女性。


 「例えば…ほら。あそこにいる女の人は『ヘビにらみのカワダ』さん。いつも人混みをスルリと抜けて、狙った獲物を逃さない、今回最も警戒すべき相手の一人だよ」


 「…は、急になに言ってんだお前?」


 海音は彼には取り合わず、さらに目つきを深める。


 「それに、カワダさんの奥にいるのは『辻斬つじぎりのジェニファー』さん。あの人いつも、すれ違いざまに人の買い物カゴから商品を奪うの」


 「猟奇りょうき殺人鬼さつじんきみたいな二つの名の割に姑息こそく!ていうかそれ、マナー違反だろ!早く此処ここからつまみ出せ!」


 「あっ、よく見ると『セト夫妻』も来てる!普段は温厚な老夫婦だけど、バーゲンセールと見るやいなや血相変えて値切りに精を出してるんだ。夫のテツジさんは隙あらば『1、2、3、4…今何時かのう?』で硬貨をチョロまかそうとするし、妻のルミコさんは『これオマケして!』が口癖なの」


 「見慣れた老夫婦の私生活に意外な一面が!ていうかさっきから、ただの迷惑客紹介じゃねぇか!いいから全員摘み出せ!」


 「あ、あれは…ッ!」


 騒ぐ凛月を完全に無視して海音がハッと口元に手を当てる。


 釣られて彼女と同じ方を向くと、そこには若い金髪の男が一人。


 見た目はこれといって特徴のないモブ顔で、街ですれ違っても振り返ることすらないだろう。


 凛月は心の中で、彼のことをモブと呼ぶことに決めた。


 しかし海音は、大袈裟おおげさに凛月の肩をツンツンと叩く。


 「『四天王』が来てるよ!」


 「あいつが?なんのだよ」


 「購入品数ランキングだよ!毎年、白浜デパートのバーゲンセールで購入した品数が多かった上位5名が顔写真つきで貼り出されるじゃん!つまりあの人は、正真正銘の上位ランカーだよ!」


 「お尋ね者がさらされてるだけじゃねぇか。にしても、あんな若造が…」


 凛月がそう呟いて、モブ男を静かに見つめていると、視線に気づいて顔を上げた彼と目が合ってしまった。


 慌てて目を逸らすが、時既に遅し。


 「…キミ、もしかして」


 そう声をかけられてしまった手前、何も反応しないわけにはいかない。


 凛月は関わり合いになりたくないという気持ちをできるだけひた隠しにしながら、恐る恐る顔を上げる。


 「あ、はい」


 モブ男は吟味ぎんみするように凛月の顔を見つめた後。


 「ビギナーさんかい?」


 ポツリとそんな言葉をかけてきた。


 「え、まあ…」


 「やっぱり。足取りで分かったよ」


 「一歩も動いてないっすけど」


 「こ、細かいことはいいじゃないか。…ビギナーさんに、このボクから一つアドバイス」


 モブ男はそこで一旦言葉を切り、大仰おうぎょうに間を取ってから、ゆっくりと大きく息を吸うと。


 「キミは戦士の顔をしていない。バーゲンセールとは即ち戦場。覚悟のない者は辞退をオススメするよ!」


 そう言って、悪意100%のあおりをかましてきた。


 恐らくそれは、初心者へと浴びせる決まり文句の洗礼だったのだろう。


 あるいはライバルを一人でも蹴落けおとすための処世術しょせいじゅつだったのかもしれない。


 何にせよ、こんな低レベルな煽りには無視をするのが安定だ。


 しかし、当の凛月はというと。


 「へぇ、面白いこと言うなお前。…試してみるか?」


 「えっ?」


 モブ男の間抜けな声が響く。


 彼には知る由もないことだが、凛月は昔から売られた喧嘩けんかを必ず買うタイプであり、この手の挑発はご法度はっと


 その一部始終を隣で見ていた海音は、そんな兄を見るたび『アホだなぁ』といつも思う。


 「お兄ちゃん、アホだなぁ」


 ――あ、口に出しちゃった。






 それから約1時間後、白浜デパートは静寂せいじゃくに包まれていた。


 まもなく開店時間。


 と同時に、凛月とモブ男の負けられない闘いが始まることになる。


 参加者が息を潜め開店の合図を待っていると、やがて店長とおぼしき人物がデパートの入り口から姿を現した。


 彼は参加者一同の顔つきを見て満足げに頷くと、軽やかに台に上がり、一礼をしてからカンペを盛大に広げて、朗々(ろうろう)とした声をつむぐ。


 「皆様、本日は白浜デパートにお越しいただき、誠にありがとうございます。本日はなんと出血大サービス!店内の全品、とてもお買い得となっております。これを機にぜひともご購入の検討を。…そしてお客様がバーゲンセールをお楽しみいただくに際し、いくつかの注意事項があります。まず一つ…」


 店長はそう前置きをすると、『押さない』『盗まない』等の、サルでもわかる注意事項をダラダラと読み上げていく。


 凛月は、いな、その場にいる誰もが彼の言うことなど歯牙しがにもかけていない。


 それは例えるならば、全校集会における校長の長話のようなもの。


 欲しいのはたった一言、たった一言だけなのだ。


 「では、これより開店です!」


 ーーこれだッ!!!


 かくしてさいは投げられた。


 店員が一斉いっせいにドアを開け放つと同時、人々は我先にと店内になだれ込んでいく。


 案の定、注意事項など誰も守っていない。


 守っていたら何も得ることができないことを、彼らは知っているからだ。


 だからこそ彼らは人を押しのけ、引っ張ってでも無理やり店内に押し入ろうと躍起やっきになっている。


 そしてその頃、凛月はというとーー先ほどまでの威勢いせいの良さはどこへやら、人波の最後尾で独りみじめにもがいているのだった。


 「ぐぎぎぎぎぎ…!」


 その原因は、彼がしてしまった致命的なミス。


 彼はなんだかんだと言いながらも、店長の注意事項を守ろうとしてしまったのだ。


 その一瞬のほころびを突かれ、後ろの人に肘打ちをくらい、服を引っ張られ、転倒して最後尾に追いやられ今に至るというわけだ。


 ――こ、これが…バーゲンセール!!!


 モブ男が言っていたことは正しかった。


 そう、バーゲンセールはれっきとした戦場で、覚悟のない者が気軽に踏み入っていい領域ではなかったのだ。


 己の甘さ、未熟さに反吐へどが出る。


 しかしそれでも、諦めるわけにはいかなかった。


 此処ここで負ければ才波家は来年まで真っ裸(マッパ)が確定。


 両親不在の今、才波家の秩序と体裁を守るのは、兄である自分の役目だ。


 「あせるな…まだ突破口はあるはずだ…!」


 そんな使命感に気持ちをたぎらせながらも、彼は冷静に人混みを注視し続ける。


 すると、彼の飛び込んできたのは、同じく最後尾でもがくモブ男の後ろ姿。


 散々えらそうなことを言ってそのザマはなんだ、と一笑いっしょうに伏したいところだったが、生憎あいにく今の凛月にそんな余裕よゆうはない。


 ーーそうか、その手があったか!


 脳を駆け巡る落雷にも似た電気信号。


 彼は思いついた勢いそのままに力強く地面を蹴り、モブ男の背中にしっかり焦点を合わせると。


 「くらえっ!」


 出始めに、モブ男へ思いっきりドロップキックをかました。


 「ぐほおっ!!!」


 背後からの突然の一撃に反応できなかったモブ男が前のめりに倒れ込む。


 そして新たにできる1人分のスペース。


 全ては彼の目論見通りだ。


 「四天王の一角、破れたり!」


 凛月はそう勝利宣言をしてから、地面に倒れ込む彼の上をひょいっと飛び越え、隙間へと身を投じる。


 それは彼が『モラルの申し子・サイバ兄』という二つ名を引っ提げて、無事迷惑客リスト入りすることになった歴史的瞬間でもあった。


 ――まだ戦いは始まったばかりだ!






 その十数分後。


 「な、なぜこんなことに…」


 凛月は今――白浜デパート内の、簡素な交番の取調室にいた。


 原因は十数分前にさかのぼる。


 彼がモブ男にドロップキックをかました直後、運悪くその行為を警備員に見られていたようで、声をかけられてしまった。


 しかし目論見通りであれば、人混みにまぎれて逃げおおせたはずだったのだが、ここで再び経験不足が足を引っ張り、またもや人混みから弾き出されてしまったのだ。


 そのため簡単に確保され、交番へしょっぴかれて今に至る。


 「困るんですよねぇ、そういうことされると。毎年必ず、そういう人が現れるもんですから」


 「はい、すいませんでした…」


 いかに『モラルの申し子』と言えど、国家権力に逆らうことなど到底できない凛月は、いつになく神妙しんみょうな面持ちで頭を下げている。


 「今回は、相手方の配慮はいりょもあって傷害しょうがい沙汰ざたにはなりませんでしたが、次は気をつけてくださいねぇ?」


 なんと、モブ男は警官にそんな口添えをしてくれたらしい。


 『なんていい人なんだ』と凛月が内心感激していると。


 「…んじゃあ一応、『個人色カラー』の提示をお願いしますね」


 そう言って、警官はズボンのポケットから個人色カラーチェッカーを取り出した。


 『個人色カラー』とは、海棲人マーピープルが生まれつき一色ずつ持つ、個人を示す要素の一つであり、アトランティカでは個人証明書としての役割を担っている。


 個人色カラーは一つの能力とひもづき、色の属性によって本人が持つ能力の種類を類推することができる。


 例えば【青】は水系の能力、【赤】は炎系、【黄】は雷系、といった具合にだ。


 アトランティカの住民は、海に棲んでいるという性質上、【青】もしくは青系統の個人色カラーがほとんど。


 そして個人色カラーは、利き手の手首に付けている腕輪で判別することができる。


 この腕輪には特殊な石がめ込まれており、能力の使用と同時に、個人色カラーと同じ色に光るという特徴がある。


 先のエアロテール戦で、凛月が凍結能力を発動した際に腕輪が光ったような感じだ。


 彼が大人しく差し出した左腕に軽く力を込めると、腕輪は【群青ぐんじょう】色の輝きを放った。


 「えぇっと、この色は…え、【群青】!?」


 警官は驚いた様子でチェッカーを二度見している。


 しかし、その反応は無理もない。


 なぜなら個人色カラーは、十二色相環のうちいずれかである場合がほとんどだからだ。


 十二色相環とは、【黄】【黄緑】【緑】【青緑】【緑みの青】【青】【青紫】【紫】【赤紫】【赤】【赤みのだいだい】【黄みの橙】のことであり、これらから外れる個人色カラーの持ち主は非常に珍しく、強力な能力を持つと言われている。


 まさか、バーゲンセールに乗じて人にドロップキックをかまして捕まるような若造が、こんな個人色カラーを持っているなんて、夢にも思わないだろう。


 「あ、まあ…はい」


 個人色カラーを驚かれるのは、彼にとっての日常だ。






 その後、凛月は事務手続きを済ませ、交番を後にした。


 色々なことがあった結果、海音と完全にはぐれてしまった。


 もっとも、初っ端に人波から押し出された時点で既にはぐれていたのだから、一概いちがいに警官のせいだとも言えないのだが。


 彼女は今どこにいるだろうか、そう思いキョロキョロあたりを見回すと…案外すぐに見つかった。


 正確には、彼女自身ではなく、人と人の隙間で揺れる彼女のポニーテールが。


 あの髪型は昔から、彼女を見つけるのに非常に役に立つ。


 今度こそ見失わないように目で追うと、ポニテは人込みを上手にすり抜け、グングンと奥に進んでいく。


 ――あれにはさすがに追いつけないな。


 そう悟った彼は、追うのをあきらめ、大人しくその辺で待つことにした。


 行く宛てもなく直進すると、目の前に現れたのは大きな広場。


 それで思い出したのだが、確か白浜デパートの『白浜』の由来は、海の青に映える純白の砂でできた土地にあったはずだ。


 なるほど確かに、広場に敷き詰められた白砂は、海と太陽が織りなす幻想的な風景に一役買っている。


 広場の中心ではショーが開催されており、子連れの家族で賑わっている。


 反対に、隅のベンチは閑散かんさんとしており、座って休むにはちょうど良さそうだ。


 彼はベンチにもたれかかると、頭上から差す太陽の光に釣られてデパートの天井を見上げた。


 相変わらず存在するのは、金色の太陽を反射した水面みなも


 今日も平和だ。


 それが彼にとっては、時折とても退屈なものに映ってしまう。

 

 凛月は欠伸あくびみ殺しながら、ゆっくりとまぶたを閉じようと…。


 次の瞬間。


 いつもの景色、代り映えのない日常が。






 何の前触れもなく――闇に包まれた。






 「なんだ…?」


 それは一瞬の出来事だった。


 無意識にベンチから飛び起き、辺りをうかがう凛月の目に入ってきたのは、同じく事情が呑み込めず右往左往する人々の群れ。


 そこからは何の情報も得られないことを悟った彼は、視線を足下に落としあごに手を当ててから、何とか今の状況を理解しようと思考を巡らせる。


 ――暗くなるのはなぜだ?


 当然、太陽光がさえぎられるからだ。


 ――なら、太陽の光はどうやって遮る?


 逡巡しゅんじゅんの後、頭上の水面へと視線を向けた彼の目に飛び込んできたものは。


 「なんっ…だありゃ!?」


 その正体は『船』だった。


 ここからでは船底のみという断片的な情報しか得られないが、とにかく、太陽光を容易たやすく遮るほどの巨大な船が、真上を通過している。


 陸の世界を知らない凛月でも、船のことは知識として知っている。


 幼い頃は陸の世界に関する絵本を見て育ったし、アトランティカには船をした移動手段だって存在する。


 本来の船とは確か、陸上の人間が楽に海を行き来するため、水面に浮遊ふゆうし並行移動するもの。


 と、そこまで思い出したところで彼は不可解な点に気がついた。


 ――こんなもの、いつ現れた…?


 船が現れる直前まで少し気を抜いていたとはいえ、こんな巨大な物体が現れれば、真上に現れるよりも早く存在に気づくはずなのだ。


 つまりこの大船は、蜃気楼しんきろうのように突如として現れた。


 もしくは…。


 「キャー!あ、あれ…!!」


 金切り声に、彼の思考が遮られる。


 それは遅ればせながら、船の存在に気づいた子連れの女性が恐怖を覚えて発したもの。


 そして、恐怖を始めとする負の感情は、周りに伝播でんぱする。


 「なんだあれ…!?」「これヤバいんじゃない!?」「うわぁぁあ!逃げろおおおおお!!!」


 こうなればもう、どうすることもできない。


 不安に感染した人々の阿鼻あび叫喚きょうかんは加速度的にデパートをパニックにおとしいれ、次は無秩序むちつじょり立てる。


 誰もが我先にと出口へ走る様は、更にそれを見た人の不安をも掻き立て、完全に悪循環だ。


 ――しまった…!


 不足の事態が起こったときに一番してはいけないこと、それは『冷静さを欠くこと』だ。


 なぜならそれを失っては、物事の優先順位を見誤るから。


 そこに思考が思い至った瞬間、彼の脳内を駆け巡る一抹いちまつの感情。


 「海音…!」


 歯噛みするくちびるの痛みでようやく、『冷静さを欠いていたのは自分も同じだった』ということに気がついた凛月は、脇目も振らず彼女のもとへと駆け出して行ったのだった。






 「…ッ!海音!どこにいる、海音ッ!?」


 凛月は逃げまどう人の波を押しのけながら、えて逆方向へと泳いでいく。


 最後に彼女を見たのは数分前、店がいくつも立ち並ぶエリアだったはずだ。


 怒号どごうと悲鳴の飛び交う中、懸命けんめいに目を凝らす彼は、少しして店の出口で固まっている海音を発見した。


 周囲にただよっているのは、恐らく客が捨てたであろう色取り取りの買い物袋。


 彼はそれを乱雑に払い除けながら、彼女のもとへ急ぐ。


 「海音、大丈夫か!?」


 勢いそのままに抱きしめると、彼女の身体は震えていた。


 「だ、大丈夫…だけど…」


 兄の存在に安心したからか、彼女の震えは徐々に収まったものの、それと入れ替わるように今度はパニックが押し寄せる。


 「お兄ちゃん!これ…何がどうなってるの!?」


 「正直なところ、分からねぇ。だが、上で何かが起きてることは確かだ」


 そこで初めて船の存在に気づいた海音は、彼の腕からするりと離れ、両手をバタバタと振る。


 「じゃ、じゃあ早く逃げないと!」


 「少し落ち着け。その必要はない」


 「…え?」


 予想外の彼の態度に、海音はピタリと動きを止めた。


 「何か起こってるのは上だろ。店の出口は横方向だぞ。逃げても意味ない。だから、状況把握が先だ」


 彼の理屈はもっともと言えば尤もなのだが、海音からしたらあまりに現実的すぎて少し拍子抜けだ。


 「その落ち着きを、一般人に求めるのは無理があるよ…」


 そんな苦言を言いつつも、彼の態度がこうそうしてか、彼女の肩の力は完全に抜けたようだ。


 「じゃ、じゃあ、しばらくここで待てばいいの…かな?」


 「そうだな…」


 彼は相槌あいづちを打ちながらも、先ほどから静かに船を観察し続けている。


 だからこそ、とある事実にこの場で唯一気づいていた。


 それは…あの船が今に至るまで『何らアクションを起こさず海上に静止している』ということ。


 その行動はおおよそ不可解極まりないものの、何も起きていないなら必要以上に慌てる必要もないというのもまた事実だ。


 加えて…落ち着ける理由なら、もう1つ。


 「――皆さん、もう大丈夫です」


 パニックの渦中かちゅうに突如、透き通った声が響き渡る。


 その声は、誰もが一度は耳にしたことのあるもの。


 ――アリシアの声だ。


 そして、その声が耳に入るのとほぼ同時、【金】色のベールがデパートの上空を覆っていく。


 彼女の有する個人色カラーは【金】。


 その能力――『絶対防御』は、一時的に全ての物質の通過を遮断する。


 さらに、聴く人の心を落ち着かせる、そのしんの通った声音。


 この2つがあれば、心配など不要だということを、凛月は痛いほどに知っているからだ。






 大船襲来の後、アトランティカ王のお膝元ひざもと、『謁見えっけんの間』にて緊急会議が開かれた。


 そこでは、当時現場にいた凛月と、混乱の収拾にいち早く乗り出したアリシアが招かれ、国王と官僚かんりょうたちの前で状況報告を行った。


 役割を終え退席した凛月は、次なる動向を静かに見守っていたのだが…。






 「捜査そうさはしない!?なんでだよッ!?」


 健人の叫び声に、オフィスが静まり返る。


 そこにいる全ての者の気持ちを代弁したその言葉は、凛月にとっても例外ではなかったが、彼は静かに首を横に振った。


 「俺が知るかよ。もちろん捜査を進言したが『NO』の一点張りだ」


 自分たちの街の頭上、何かあればすぐにでも被害を受けかねない場所にある正体不明の船を、黙って見過ごすというのだ。


 これは誰がどう見たっておかしい。


 「だが、こればっかりはどうしようもねぇ。上の決定に口を挟む余地はねぇよ」


 取りつく島もないその言葉の裏には、『これ以上何も起きないで欲しい』という願望がにじみ出ていた。


 しかしながら、捜査を打ち切る打ち切らないに関わらず、船の出現に関する情報は当事者を介して一般人にも広く知れ渡ることとなり、数日かけて様々な憶測おくそくが飛び交う事態へと発展した。


 そのどれもが正確性に欠けるものばかりだったが、人々の不安を駆り立てるには十分。


 刻一刻と時間だけが過ぎていく中、あの大船は――時刻は違えど毎日欠かさず現れたのだった。






 それから1週間後の夜、凛月はアリシアのもとをおとずれた。


 訪問を画策したのは、大船が出現した初日からだったのだが、王族である彼女に一般人である彼が約束を取りつけるのは容易なことではない。


 唯一持てる接点と言えば、以前彼女とエンカウントした、人気ひとけのない協会の尖塔の先。


 終業後、毎回そこに顔を出し、ようやく彼女と出会うことができたのだ。


 彼の狙いは情報収集と、上層部への間接的な直訴じきそ


 彼女であれば凛月たち一般人の知り得ない情報を握っている可能性は高いだろうし、さらに彼女を味方につければ、上層部も無視できなくなるはず。


 彼女の立場を利用するような振る舞いに、罪悪感がないと言えば嘘になるが、事態は一刻を争う。


 そう自分を納得させ、なりふり構わず彼女に詰め寄る凛月だったが…。


 「どうしてダメなのか、理由を教えてくれないか?」


 彼の目論見は失敗に終わった。


 アリシアはその問いに、物憂げな表情を浮かべながらも静かに首を横に振った。


 「それが、私にもよく分からないのです。ただお父様が『この件には口を挟まないように』と」


 『お父様』…つまりはアトランティカ王のことだ。


 それを聞いて、凛月の疑問はさらに深まる。


 上層部の隠しごとは恐らく今に始まったことではないだろうが、とはいえここまで大々的に国民の目にさらされては、隠し通すことはできないだろう。


 にも関わらず、それを国民だけでなく、王の娘であるアリシアにも隠しているのは、不可解極まりないと言える。


 彼の疑心暗鬼の念をみ取ったのか、彼女は少し言いづらそうにまぶたを閉じた後、ゆっくりと瞼を開いた。


 「ただ1つ、心当たりがあるとすれば…」


 「心当たり…なんだ?」


 「4年前にも同様に、船が出現した時期がありましたよね?あの時、調査に出た討伐隊が全滅しましたから…お父様はそれを恐れて、慎重になっている可能性があります」


 「え、そんなことあったのか?」


 「…ご存知ないのですか?」


 アリシアは彼が知らないことに驚いたようだ。


 驚いて固まったまま、彼の顔をいぶかしげに見つめている。


 そんな目で見つめられると、なんだか自分が悪いことをしているような気分だ。


 「出現したってのは、アトランティカに出現したってことか?だとしたら、覚えてないわけが…」


 「え、えぇ…確か、アトランティカからは少し離れたところです…」


 「じゃあ俺は聞かされてねぇかもな。そんときはまだ討伐隊に入ってもねぇわけだし」


 そんな大事が本当に4年前にあったのだとしたら、覚えていないはずはない。


 つまりそれは、上層部によって握りつぶされた過去であると判断するのが自然だ。


 彼女が知り得る情報と、彼が知り得る情報の範囲は、天と地ほどもへだたっている。


 「なるほど…えぇ…そう…」


 彼女は少し考え込んだ後、得心がいったように大きく頷き、自分のくちびるにそっと、ピンと立てた人差し指を添えた。


 「私ったら、うっかり機密事項を漏らしてしまったのかも。念のため、他言無用でお願いしますね?」


 「分かった…で、話は戻るけど、それが今回調査しない理由になるのか?小さな被害を恐れて、大きな被害の種を見過ごすなんて、そんなの本末転倒だ」


 討伐隊の命と、アトランティカ全体。


 仮に被害が出たとしても、どちらがより優先されるべきかは、天秤てんびんにかけるまでもなく分かり切っていることだ。


 4年前に何があったかは知らないが、たとえ何があったとしても、指をくわえて見ている理由にはならない。


 「えぇ、私もそう思います。だからこそ、今回のお父様の判断が不可解なのです」


 沈黙。


 その後に、アリシアは顔を上げる。


 「明日もう一度、お父様にかけあってみましょう。それでも話が進まなければ…」


 「進まなければ?」


 「…いえ、まずは明日に集中しましょう。明日もまた、同じ場所、同じ時間でよいですか?」


 気づけば時刻は21時を回っている。


 これ以上遅くなっては、海音に無駄な心配をかけかねない。


 ここらが潮時か。


 「分かった。じゃあ、また明日」


 「えぇ。また明日」


 思いのほかすんなりと引き下がった凛月は、こうしてはいられないとばかりに片手を上げて、夜の海へと消えていく。


 それを見つめていたアリシアは、なぜか…一抹いちまつの不安に襲われ、無意識に自らの胸元へと右手を伸ばしたのだった。






 そんな妙な胸騒ぎがあったからであろうか。


 翌朝よくあさ目覚めた彼女は、いの一番にアトランティカ王のもとへ赴き、再度捜索を打診した。


 だが、懸命な彼女のうったえを前にしても、王の答えは変わらなかった。


 それどころか、どうやら動きをさとられてしまったようで、待ち受けていたのは緊急性の少ないであろう業務の数々。


 それらを処理している間にも刻一刻と時間は過ぎ、何の成果も得られないままに、約束の時刻を過ぎてしまう。


 半ば無理やり城を抜け出した彼女は、凛月と約束した場所へと急ぐ。


 ーーしかしそこに、彼の姿はなかった。


 約束の時刻になっても現れなかった自分に、しびれを切らして帰ってしまったのだろうか。


 いな、あれほど大船を案じていた彼が、それくらいのことで引き下がるわけはない。


 思えば彼は、昔からそうだった。


 一度定めた正義に準じ、悪く言えば、途轍とてつもなく往生際おうじょうぎわが悪い。


 喧嘩けんかぱやく、それでいて無遠慮で。


 誰かを守るためには自らの犠牲ぎせいをもいとわない、確かな優しさを常に持ち合わせているのだ。


 「嗚呼ああ神よ、もしも私の願いが叶うなら…」


 気づけば彼女は無意識に、首にげたロザリオへと手を伸ばしていた。


 アトランティカに立つ教会は全て、とある神に信心をささげている。


 それは初代国王とともに国を創設したとされる、一人の銀髪の女性であり、彼女は今も『海神様』として民の心のり所となっているのだ。


 もちろんそれは、民だけでなく、彼女にとっても。


 「…何も起きないで」


 平和を望む彼女の弱々しい声が、潮流ちょうりゅうに乗って夜の海へと溶けていく。


 後に残ったものは、静寂せいじゃくと…。


 ーー彼女は18歳にしてようやく『後悔こうかい』という言葉の色を、痛いほどに目に焼きつけるに至ったのだった。

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