序章2「Fishes in the Aquarium」
エアロテールの回収からおよそ1時間後、凛月たちは海中都市『アトランティカ』へと帰還した。
そこは彼ら『海棲人』の住まう場所であり、かつて地上に存在したコンクリート製の建造物が海に没した結果できた古代都市である。
アトランティカでまことしやかに語り継がれた伝承によれば、彼らの祖先は元を辿れば地上で生活していたごく普通の人間であったが、地上で勃発した戦争により生活圏を海中に移すことを余儀なくされた。
群衆を率いたのは、とある金髪碧眼の青年。
彼は海底に沈んだボロボロの遺跡を、何十年という歳月をかけ、民とともに国として再建し、そこで初の国王の座についた。
彼の子孫は王族として政に精を出し、今なお国を守り続けている。
国民の数は、ざっと5000人ほど。
縦横無尽に街を泳ぐ人や貨車により、往来は今日も活気に満ち溢れ、水面から降り注ぐ暖かな光とともに、海を穏やかに揺らしている。
そして、その喧騒から離れたアトランティカの外縁、雄々しく聳える国門に――1人の少女が佇んでいた。
透き通るような白い肌。
陽の光を受け、淡く金色に輝く長い髪。
エメラルドを思わせる翠色の瞳はどこまでも澄んでいて、アトランティカの幻想的な景色に溶け込んでいる。
それはまるで絵画。
しかしその中心は紛れもなく少女であり、どんな荘厳な景色も全て、彼女を彩る装飾品の一つに過ぎなかった。
「姫殿下、お時間です」
不意にかけられた声に少女が振り返ると、そこには白銀の鎧を纏った近衛兵と思しき少女が、眉一つ動かさずに立っている。
だがその表情の一枚裏に、確かな緊張感が走っていることを彼女は見逃さなかった。
「あら、もうそんな時間ですか」
彼女は惚けたように首を捻ると、潮流で僅かに揺蕩う髪を片手で抑え。
「では参りましょう」
そう言って、取り繕ったような美しい笑顔を浮かべた。
「先刻、納品完了報告を受けた。相手は第一級危険種だったが、流石の腕前と言ったところか」
エアロテールを納品した凛月たちが向かったのは、煌びやかな街から少し離れたコンクリート製のビルのとある一室。
質素な書斎机の前で椅子に腰掛ける中年の男性は、彼ら直属の上司にあたる人物である。
「知っての通り、我々『討伐隊』の担うべき役割とは、アトランティカを縁の下から支えること。特に昨今、『禁足地』周辺が騒がしく、多くの危険種が縄張りを拡大しつつある。引き続き、業務に励んでほしい」
凛月たちが配属されている討伐隊とは、主に危険種に指定された害獣を駆除し、食用として利用可能なものは持ち帰り納品する、という仕事を課せられた組織である。
アトランティカの平穏は、王家の住む城と周辺に群生する城下町と、それらを守るべくぐるりと敷かれた外壁、そこから同心円状に10kmを領海とし、その内部に侵入した害獣を駆除することで維持されている。
そして、水面の周辺と領海の外側の2箇所を『禁足地』と呼称し、何人たりともそこに踏み入ることは許されない。
水面の向こう側には当然ながら海水がなく、海棲人の棲むべき場所ではないという理屈は納得だ。
しかし、領海の外側には一体何があるというのか。
「危険種は禁足地から来るんですよね?このまま戦い続けたって終わりがない。現に討伐隊は負傷者が増える一方だ。禁足地、或いはその周辺を調査すべきじゃないですか?」
凛月の意見を受け、暫く沈黙を貫いていた上司は、やがて眉間に皺を寄せて腕を組むと。
「…それを判断するのは君たちではない。君たちは今まで通り、君たちの成すべきことを成せばいい。分かったら下がりなさい」
それだけ言って、あとは口を噤む。
それは明確な『拒絶』だった。
「…失礼します」
釈然としない思いを抱えながらも、これ以上の議論は無駄と判断した凛月は、大人しくその場を後にした。
その帰り。
「なぁ…俺たち、このままでいいのかよ?」
オフィスへ戻る渡り廊下の道すがら、そう口火を切ったのは、明らかに意気消沈した様子の健人だった。
「何がだよ」
「言わなきゃ分かんねぇのかよ」
一度はとぼけてみせたものの、彼の主張の真意は当然ながら凛月も気づいている。
隣の莉果は無言を貫いたまま我関せずの状態であるため、仕方なく凛月が健人の方へ振り返った。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ」
「それは…どうしようもねぇ…けど」
討伐隊の構成員をどう扱うか、それを決めるのは彼ら自身ではなく上司を含む上の者たち。
そう突っぱねられては、もはや彼らに成す術は残っていない。
しかし、健人はなおも釈然としないままに問う。
「お前ら、同期の人数覚えてるか?」
「まあ、なんとなくは」
「そいつらのうち、今何人が残ってる?」
「…」
彼らが討伐隊に入隊したのは2年前。
当時は多く在籍した同期も、そのほとんどが負傷、もしくは殉職し、今では数えるほどしか残っていない。
禁足地から限りなく押し寄せる害獣、その度に駆り出される討伐隊の構成員が謂わば『使い捨ての道具』であることは、誰の目にも明らかだ。
にも関わらず、なぜ一向に待遇は改善せず、犠牲は増える一方なのか。
答えは明白――討伐隊に所属する者は皆一様に『地位の低い者』だからだ。
それは例えば、身寄りのない者や莫大な借金を抱える者、さらには犯罪者とその親類。
彼らはアトランティカにとって『履き潰しても一向に構わない命』であり、その理屈は残酷だが単純かつ明快だ。
故に抗うことは許されず、未来に露ほどの希望もない。
「そんなこと、考えても仕方ねぇだろ。俺たちは成すべきことを成す、それだけ考えてりゃいいんだよ」
凛月そんな、上司から引用しただけの心にもない言葉を放ち、それ以上何も言うことはないというようにフイッと窓の外を向く。
陽の眩しさに目を細めつつ、外の景色に目を凝らすと、遥か遠くに見える城、そしてその城下町が普段よりも華やいでいるように見えた。
「外が騒がしいな。今日ってなんか特別な日か?」
何の気なしに問う凛月の隣から聞こえる、莉果の大袈裟な溜め息。
「忘れたんですか?今日はアリシア様の御生誕祭じゃないですか」
「…そういえばそうだったな」
凛月は少しの間、窓の外を懐かしいような寂しいような目で見つめると、やがて窓から視線を背け、それ以上何も言うことなくオフィスへと戻っていった。
賑わう街の喧騒、その正体は、アトランティカを統べる王族の生誕祭を祝うべく、集まった人々が織りなす讃美歌だった。
有事の際のみ開かれる重苦しい城門の奥には、水面を貫かんばかりに聳え立つ白い砦、さらにその眼下に広がる大広間に押し寄せる人の群れは、まるで砂浜に満ちる波濤のように、絶えず揺れ動いている。
彼らが皆一様に見上げているのは砦の上方。
もっと言えば、そこに佇む一人の少女。
そう、先刻アトランティカの外縁にてどこか遠くを見つめていた彼女こそが、王家の娘――アリシア・フォン・カウエルだった。
王家の証であるティアラを頭に載せた彼女は、確かな使命感を携えた強い瞳で民を見つめ、時折微笑みをたたえつつ彼らに手を振っている。
その行動を目にするたび、民は歓喜しより大きな声を上げる。
昨今の『禁足地』の危険種を始めとする不安定な状況において、表舞台に姿を現し、民に希望を与えるのも王族の立派な役目の一つ。
故に、生誕祭の主役である彼女には、常人には耐え難いほどの重圧がのしかかっているはずだが、彼女は毅然とした佇まいを崩すことなく、己の成すべきことを成し続ける。
その宴は、水面に映る金色の太陽が茜色の斜陽に移ろいゆくまで続いた。
宴も酣、城内へ戻ってティアラを静かに外し、ゆっくりと息を吐く彼女を待ち受けていたのは。
「アリシア、お務め御苦労だった」
聞き慣れた低い声に振り返った彼女の視線の先には、髭を蓄えた中年男性の姿があった。
彼が見に纏う衣装は正しく王族のそれであり、どこからか溢れる気位の高さからも、王族としての威厳を存分に窺い知ることができる。
「…お父様。いらしたのですね」
彼女のその言葉に、彼――アトランティカ王はさして気を害した様子もなく、顎髭をさすった。
「なに、少しばかり時間が空いてね。特に心配というほどのことはなかったが、無事に終わって何よりだ」
「ええ。これで少しは、民の不安を拭えたら良いのですが…」
憂いを帯びた彼女の声音を優しく包むように、彼は彼女の肩を優しく叩いた。
「何を言う。私は今日のお前に、かつての母の面影を見たぞ」
「あら、それは光栄です」
「漸くお前も、為政者としての立ち振る舞いが板についてきたようで、私の鼻は高々だ。これからも、その調子でよろしく頼む」
アトランティカ王はそう言って快活に笑うと、もう一度アリシアの肩を叩き、その場を後にする。
残された彼女は嬉しそうに口の端を緩めていたが、やがてポツリと。
「これからも…ずっと…」
不意をついて出たその言葉は、何となく形容しあぐねているうちに、海の青に溶け込んで消えてしまった。
その宵。
白昼の金色とは打って変わった白銀の月光が海を揺らす。
絶えず流転する静と動の理に従って、静謐に没するアトランティカで、微かに蠢く蛍の光の正体は、残業に耽る討伐隊のオフィスであった。
しかし、それも暫くすればプツリと霧散し、やがて人影がノロノロと這い出てくる。
「はぁ、やっと終わったぜ…雑用が多すぎんだよなぁ」
そうやっていつも口火を切るのは健人だ。
彼の隣では、帰り支度を整えた莉果がいそいそと、彼には目もくれず泳ぎ去ろうと画策している。
「明日は休みで助かりました。こんな日は早く帰って寝るに限りますね。それでは、お疲れ様でした」
彼女は早口でそう捲し立てると、すぐに静寂の向こうへと姿をくらましてしまった。
「お疲れ」
「お疲れー…あー腹減った。凛月、お前飯は?」
「今日は家だ」
「言うと思ったぜ。それじゃーな」
「ああ」
短い会話の応酬の後に、健人と別れた凛月が帰路へつく。
彼の家は此処からおよそ十数分ほど北。
しかし彼は、周囲に人がいないことを確認すると淀みない動きで南へ。
そのまま無言で泳ぎ続けること数分、彼が辿り着いたのは、城の向かい側にある小さな教会だった。
少し古びた薄灰色の壁と曇ったガラス窓。
この時間帯では、既に教会内に人気はなく、本堂はなんとなく神に見放されたようで物寂しい。
彼は扉の隙間から本堂を覗いた後、なぜか扉を閉め、教会の外壁と並走して上へと登っていった。
その狙いは、尖塔の先。
そこが彼にとって、昔馴染みの最も落ち着いて腰を下ろせる場所であり、同時に独りで思案に耽るに最適な場所でもあった。
だが――今日は珍しく先客がいた。
暗い宵の海にあって、ほんのりと輝く髪の色は金。
潮流で膨らむ髪と、その後頭部に彼は見覚えがあった。
「…何でお前がいるんだよ、アリシア」
その言葉にピクリと肩を振るわせた先客――アリシアは、ゆっくりと彼の方へ振り返ると。
「何故とはご愛嬌ですね、凛月。どうぞ遠慮なさらず、此方へ」
そう言って笑みを携え、自らが腰かける尖塔の縁の隣を優しく叩いた。
かたや王族、かたや地位の低い討伐隊の捨て駒。
あまりにかけ離れた境遇の2人だが、実は彼らにはとある共通点がある。
それは――彼らが『幼馴染』ということだ。
「今日は生誕祭なんだろ?祝いの席はどうしたよ」
「顔を出しましたよ、始めだけ」
「主賓がそれでいいのかよ」
「よいのです。どうせ途中から、祝いの場ではなくなるのですから。現に…ほら、私がおらずとも宴は続いています。それに…」
そこで一旦言葉を区切ったアリシアが、少し不満げに頬を膨らませて凛月の方を向いた。
「私の誕生日を覚えてない、とは言わせませんよ?」
「なるほどな、それで機嫌悪かったわけか」
アリシアの誕生日――それは正確には今日ではなく、3日後だ。
にも関わらず、なぜ生誕祭が今日行われたかというと、理由は単純明快で、それは王族たちが彼ら間の都合に応じて、彼女の生誕祭を『イベント』としてスケジュール調整した結果の産物だから。
「別に数日くらい、ずれたってよくねぇか?」
「よくありません!私にとって『4月7日』とは、それ自体が特別な意味を持つ日付ですから」
「祝われてんだから贅沢言うなよ。見たろ、国民の喜びようを?」
「ええ、それは素直に喜ばしいことです。しかし…」
言葉に反して、アリシアの表情にはどこか暗い陰が落ちているように見える。
凛月が続きを黙って待つと、彼女は少しして意を決したように顔を上げた。
その瞳には、確かな『憂い』。
「少しばかり…息苦しくもあります。誕生日すら、もはや私の腕から巣立ち、皆の共有物となってしまった。いいえ、きっとそれだけではありません。私の持つもの、ひいては私自身すら、既に私が自由に扱うことは叶わない」
それは凛月にとって想像すらできない世界だ。
彼女は恐らく、公私という概念すら満足に享受していないはずだ。
彼女が民の一人一人を知らずとも、民の誰しもが彼女のことを知っている。
故に、いついかなるときも毅然と振る舞うことを強制され、僅かな綻びすら許されない。
それを彼女が望んだだろうか?
否、アトランティカの王族という出自こそが、彼女を絶えず駆り立てるのだ。
「私は生まれ、やがて死に逝くまで、アトランティカより外の世界を目にすることは叶わない。それに気づいた時、ふと考えてしまったのです。私の個人的な願いなど、端から一つとして叶うはずがなかったのではないかと。人は皆、生まれながらにして『役割』を持ち、そこから逸脱した意志を持つことは許されないことではないかと」
「『役割』…か。考え過ぎ、とも言えねぇな」
人は皆、揺らがぬ意志を持っているはずだ。
それは先の見えない暗がりを照らす一縷の灯火であり、己の人生に勇気と希望を与えてくれる。
にも関わらず、度々訪れる人生の分岐点に於いて、あまりにもそれを軽視した強大な力が働き過ぎているように思う。
その力の源は間違いなく『環境』。
生まれながらに背負った環境を前にして、当人が選べる役割などたかが知れている。
「俺はお前ほど大層な役割を持ってるわけじゃねぇけど、気持ちは分かるよ」
「やはり、貴方も?」
「そりゃそうだ。俺たちは担う役割こそ違えど、行き着く先は結局同じ。アトランティカを廻すための歯車に過ぎない。それをただこなすためなら、意志なんて要らないんじゃねぇかって思うよ」
「えぇ…」
それを聞いたアリシアの視線が、再び海底へと落ちる。
人に意志を芽生えさせた元凶は、恐らく知能の発達だろう。
だとすれば、色取り取りに身を寄せる珊瑚礁や折り重なって海を舞う魚群、そしてそれを呑む捕食者は、意志などなくとも己の役割をこなしているはずだ。
にも関わらず、意志の芽生えた海棲人でさえ、役割に縛られていると云う。
ならば意志とは一体何の為にあると云うのか。
彼らにとってアトランティカは――雁字搦めの水槽だった。
しかし、その水槽の中に於いても、彼の瞳は輝きを失っていない。
「だが、こなすだけじゃダメなんだ。歯車はいずれ錆びて歪む。取り替えれば見た目は直るが、僅かに、着実に軋んでいく。その先にあるのは瓦解だ」
「役割だけを着実にこなすことで瓦解の一本道へと進む、何とも皮肉なものですね」
「あぁ。それを繋ぎ止めるための意志だ。ただ役割をこなすだけじゃなく、俺たち自身が少しずつ変わっていく。そうすれば、やがてその変化は全体に波及して、今まで通り廻転し続けることができる。『変わり続ける』ことこそが変わらずにいるために必要なことなんだ。それを成すのがきっと意志。具体的なことは…まだ何も思いつかねぇけど」
才波凛月には枷があった。
両親の死後、高校すら行かずに討伐隊の業務に準じ、いつ両親の後を追うかも分からない中で尚も働き続けている。
当然、願いを望む余力などなく、叶えるなどもっての外。
しかし彼は、そんな状況だからこそ、確かな意志を燻らせていたのだ。
「きっと答えは、アトランティカの外にあるんだ。禁足地の向こうにはまだ見ぬ何かが眠っていて、それが俺たち海棲人の意志を育み、アトランティカに変化をもたらし続けてくれる。だから俺は、此処を抜け出してもっと遠くの世界が見たい。広がってるって分かってるのに、知らんぷりなんて勿体ねぇだろ?」
そう言って笑う彼の瞳には、確かな希望の光があった。
それが眩しくも頼もしい。
さらに言えば、普段抑圧されていたであろうその想いを意気揚々と吐露する相手が、自分であったことが嬉しい。
アリシアは瞳に落ちた陰を振り払い、彼を真っ直ぐに見つめると。
「そのときは、私も攫ってくれますか?役割に意志を囚われた私を、王子のように颯爽と!」
そう言って、年相応の無邪気な笑みを見せる。
釣られて笑った凛月は、面倒臭そうに首を横に振ると。
「王子っつーより悪人の所業じゃねぇか。まあ、考えといてやるよ」
「…約束ですよ?」
何気なく交わした彼と彼女の約束――その本当の意味を知るのは、まだ当分先の話だ。
タイトルの和訳「水槽の中の魚達」