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アクアテラリウム  作者: 真島 悠久
序章 『Over the Silence』
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序章1「或る日の静寂」

 そこは静寂せいじゃくに満ちていた。


 眼下がんかで底を満たすのは、無明むみょうに支配された深い青。


 一見してそれは奈落ならくであり、死後と同じく果ての見えない恐怖を否が応にも感じさせる。


 そしてそれと相反するように、頭上を満たすのは(きら)めき。


 水面(みなも)を鋭く貫き、辺り一面に降りしきるその様は、恵雨けいうごと慈愛じあいに満ちあふれ、生物に暖かな希望を与えてまない。


 光の波紋はもんを映す岩肌いわはだと、そこから縦横無尽じゅうおうむじんに伸びる海藻かいそうの群れは、潮流ちょうりゅうおもむくままに左へ右へ。


 巻き起こされる気泡きほうは小刻みに震えながら、水面みなもへ一目散に立ち昇って消えゆく。 


 それらは普段とまるで変わり映えのない、平穏へいおんを体現した、とある海原うなばらの幻想的な風景。


 だがーーそんな仮初かりそめの平穏は、たった一つの大きな異音とともに、きしみを上げて崩れ始める。


 異音はやがて、確かな水の圧となって潮流をき乱し、陽の光に導かれてゆるやかに此方(こちら)へ。


 来訪らいほう


 そして岩肌をめたかと思うと、おぼろのように消えてしまう。


 別れ。


 後に残ったのは静謐せいひつ


 海原の泰然たいぜんとしたその姿は、まるで先刻の異音など取るに足らない日常の一部であると明言しているかのようで、気を確かに持たなければすぐにでも記憶の淵からこぼれてしまいそうになる。


 しかしそれは勿論もちろん、幻覚などとは程遠い。


 異音の震源、此処ここからはるか遠方の海底みなぞこは。


 今――戦場と化していた。






 まず目に入るのは、1つの魚影ぎょえい


 数mにも及ぶ巨躯きょくであるが、それを占める大半は、体に不釣り合いなほどに大きい、扇子せんすのような形状をした尾鰭おひれである。


 旋回せんかいするたびに水を押し退ける推進力は、やがて激流へと変貌へんぼうげ、まるで春のあらしのように周囲のことごとくを破壊し、その残骸ざんがいを振りいている。


 それは人類が叡智えいちを得るためはるか昔に手放した、原始的かつ圧倒的な力の奔流ほんりゅうだった。


 故に、あらがうことは許されない。


 ましてや、打ち倒すことなど。


 だが、そんな絶望的な情景に――おくすことなく立ち向かう、3つの人影。


 「健人けんと!まずは尾の付け根だ!あそこさえ射止めれば、動きは止まる!」


 先陣を切るように、独り飛び出していたリーダー格の男が左手につるぎを掲げ、声を張り上げる。


 それにこたえるように追従ついじゅうする、『健人』と呼ばれた青年は、言葉の端々にありありと苛立いらだちをたずさえながら、左手に構えたボウガンに矢をつがえた。


 「分かってるッ…けど、気泡きほうが邪魔で狙いが定まらねぇ!それにくれぇよ!せめて明るいところに誘導ゆうどうしてくれ!」


 「しょうがねぇな…莉果りか!周囲に他の反応は!?」


 舌打ち混じりに振り返った男の視線の先には、焦燥しょうそうを意にもかいさぬ沈着ちんちゃくさでたたずむ、『莉果』と呼ばれた女性の姿がある。


 下を向く彼女の腕には、水中探知に特化した円状のレーダーがめられており、黄色へ緑へと絶えず点滅を繰り返していた。


 「反応ありません。移動ならばすぐにでも」


 「よし!じゃあ、俺がおとり役になるから、各自上方向に散開!」


 その指示に異論を唱えることなく、健人と莉果は上へ。


 それを横目で確認した彼は――自らの持つ『異能』を解き放つ。


 刹那せつなまばゆい【群青ぐんじょう】色の光が暗闇を照らし始めた。


 光源は彼の左手首に巻かれた腕輪、その中心にほどこされた質素ながらも大きな水晶体。


 やがて彼に呼応こおうするように、【群青】色の輝きを浴びた周囲の海水が、徐々に『凍結とうけつ』し始めた。


 彼――才波さいば凛月りんげつの能力は、『発した冷気で触れたものを凍結する』こと。


 彼を軸として同心円状に広がる凍結領域は、徐々に雪の結晶のように枝分かれすることでみるみるうちに伸びていき、枝先から分離していくつもの氷のやりへと形を変える。


 研ぎ澄まされたそれらのきっさきは、彼が剣を頭上に掲げると同時、魚影へ焦点を合わせーー振り下ろされる剣を合図に、一斉いっせいに撃ち放たれる。


 相見あいまみえるは、先刻から変わらず、あるいは先刻よりも激しく旋回する魚影の尾鰭おひれによって生み出された、水の奔流ほんりゅう


 その圧倒的な暴力を前にして、しかし撃ち落とされることなく水中を泳いだ氷槍は、やがて魚影の表皮へと到達し、ドス黒い血を撒き散らした。


 「グガァァァァァァァァ!!!」


 鼓膜こまくを震わす咆哮ほうこう


 本来、痛覚がないと考えられている魚類だが、その反応はどう見ても痛みにのたうち回っているように見える。


 更に魚影の頭部から覗いたのは、ルビーのように真っ赤な双眸そうぼうと、隠し切れない憤怒ふんどの激情。


 未だ暴れながらも、刺すような敵意をありありと感じ取った凛月は、目論見もくろみ通り、獲物えものの注意が自分に向けられたことを確信した。


 「よし…そうだ、こっちだ」


 彼は勝ち気にうなずくと攻撃を一旦止め、肌をでる潮流に逆らって、海中にピタリと静止する。


 張り詰める静寂せいじゃく


 彼の背後からわずかにこぼれ出すのは、水面みなもを貫くの光。


 それに瞳孔どうこうを細めつつ、彼の行動の真意を見定めるべく静止した2つの赤。


 刹那せつなーー彼の身体は弾かれたように上方向へとスタートダッシュを切った。


 気泡を裂き、一直線に水面へと泳ぐ彼と、一拍遅れて後に続く大きな魚影。


 開かれた上顎と下顎からのぞ奈落ならくのような深淵しんえんは、一度ひとたび呑み込まれれば二度と抜け出すことは叶わないだろう。


 彼と魚影の関係とはまさしく、命からがら逃げ延びんと駆ける被食者と、それを執拗しつように付け狙う捕食者だった。


 その純然たる力関係を前にして、一時は開いていた距離も急速に縮まり、彼の命に指がかかる。


 しかし、魚影のあぎとが彼の一部に達する瞬間を見計らったように、彼は唐突に進路を変え、すんでのところで回避してみせる。


 そしてそれを何度も繰り返し、少しずつ、だが確実に水面へ。


 命の綱渡りに等しいその行動の繰り返しは、見るものに不安をよぎらせるには十分だったが、彼の動きはよどみなく、一瞬たりとも緩むことはなかった。


 その間にも絶えず彼の腕輪から発せられる【群青】色と、相反するように発せられる魚影の双眸そうぼうの赤色。


 暗闇と言う名のキャンパスに線を描くように移動する2つの光は、夜空に流れる彗星すいせいきらめきを思わせた。


 ――やがて、【群青】がピタリと静止する。


 その隙を好機と捉えた魚影の赤は、巨躯きょくに任せて最高速度で標的へ。


 『逃げることを諦めた』誰もがそう感じる中、凛月はおくすることなく振り返り、腰のさや仕舞しまっていた剣のつかに手をかけて。


 「うおおおおおおッ!」


 雄叫おたけびとともに、居合いあい一閃いっせんを抜き放つ。


 そのきっさきは魚影のあごを避けながら、胸鰭むなびれの付け根を切り裂いた。


 噴き出す鮮血はきりのように海中へと広がり、眼前の彼へと降りかかる。


 しかし、彼はそれをまるで気にすることなく、身体を捻り、力任せに剣を振り切った。


 そして、振り切った勢いのまま魚影の進行方向とは反対方向へ。


 咄嗟とっさの方向転換に対応することができなかった魚影は、慌てて全身にブレーキをかけるも、その場に留まることは叶わない。


 そのまま、自らが噴出ふんしゅつした血霧ちぎりと暗闇を突っ切り、陽の降り注ぐ水面へまんまとおびき出されてしまう。


 あまねく一切を照らし出す希望の光。


 それにより、魚影の全貌ぜんぼうが明らかになった。






 巨大な魚影、その正体は――のこぎりのようなひれを持つ、さめに似た風貌ふうぼうの深海魚だった。


 全身をおおう薄暗いねずみ色のうろこと、開かれた口から覗く、まばらに生えた鋭い歯。


 背鰭せびれ胸鰭むなびれは異様に成長し、触れるだけで切り裂かれてしまいそうなほどに鋭い。


 しかし最も異質なのは、身体に不釣り合いなほど巨大な尾鰭おひれの存在。


 これこそが、この深海魚『エアロテール』の名の由来だ。


 ただ泳いでいるだけで、生み出された奔流が周囲を切り刻んでしまうため、第一級危険種に指定された、深海のならず者。


 正真正銘しょうしんしょうめい野蛮やばん


 「グガァァァァァァ!!!」


 胸鰭むなびれから鮮血せんけつを撒き散らしながら、エアロテールが振り返る。


 その双眸には、先刻せんこくとは比肩ひけんしようのない憤怒が刻印され、もはや瞳だけに留まらず、頭部全体に血管が浮き出たような赤色の線が走っていた。


 き出しの害意を前に、誰しもが本能的に恐怖を覚え、足がすくんでしまうような絶望的な状況。


 にも関わらず、それを一心に受けた凛月は、大胆だいたん不敵ふてきわらっていた。


 そして、未だ煌々こうこうと【群青】色に輝く左腕を掲げ、エアロテールを剣のきっさきで真っ直ぐに差し、無遠慮にこう言い放つ。


 「…終わりだ。失せろよ、鮫もどき」


 刹那せつな――エアロテールの傷口から幾つもの氷の槍が飛び出し、その体を内側から貫いた。


 これは彼の能力の一つ、剣のきっさきで触れた傷口を媒介ばいかいとして、凍結領域を拡張する遠隔凍結だ。


 傷口を塞ぐことはおろか、自身の状態を把握はあくすることすら叶わないエアロテールは、彼の能力を前に成す術もない。


 周囲の海水やエアロテールの血液を取り込み、徐々に肥大化していく氷槍はやがて、磔台はりつけだいの如くにエアロテールの体を射止め――海中に美しい氷のはなを咲かせてみせた。


 静かに消えく命の灯火ともしび


 残るのは、海に浮かぶ氷の彫刻ちょうこく、ただ一つ。


 ガラス細工を思わせる精巧せいこうさ、太陽のきらめきを受けて輝く無色透明は、幻想的な海の風景に自然に溶け込み、見る者の心をきつけてやまない。


 それをしばらくの間眺めていた凛月は、やがてフッと肩の力を抜いた。


 「…任務完了だな」


 後はエアロテールの残骸ざんがいを持ち帰り、任務終了報告を済ませるだけ。


 そんなことを考えながら、仲間の方へと振り返り。


 「終わったぞー。さっさと帰…」


 ――ろうぜ。


 そこまで口に出したところで。


 「何やってんだお前ェェェェ!!!」


 怒号とともに突き出された足の一撃が、彼の横腹を目がけて見事に突き刺さった。


 「ゲボワッッッ!!!」


 死角からの一撃に、彼は無様ぶざまな声を上げて吹き飛び、近くの岩場に頭から激突。


 「ぐっ…痛ってぇ…」


 そして状況も分からないまま、れ上がったひたいを押さえて闇雲に声を上げる。


 「どうせ健人だろこれ!急になにすんだお前、殺す気か!?」


 彼を蹴り飛ばした張本人は、本来味方であるはずの健人だった。


 彼はフワフワと岩場の頂点に着地したかと思うと、凛月を見下ろして悪びれもせずに言い返す。


 「一人でオイシイとこ持ってきやがって!なーにが『フッ…キリッ』だ。あーサムイサムイ、これもお前の能力か?」


 「嘘つけ、そんなオノマトペなかっただろ!」


 「ハタから見りゃそう見えたんだよ!絶対ドヤ顔してたよな?俺の目に狂いはねぇ」


 「眼科行けよ…ていうか、援護えんごはどうしたよ!?もしかして、ボサッと突っ立ってましたとか言わねぇよな?」


 彼が出した指示によれば、彼がエアロテールを上方向に惹きつけている間に、迎撃げいげき態勢を整えた健人と莉果が畳みかける算段だった。


 にも関わらず蓋を開ければ、手柄は彼の総取りだ。


 しかし、これには健人側にも言い分があるらしい。


 「俺たちはちゃんと上で待ってたの!お前が独断専行するから陣形が乱れたんだろうが。…なぁ?」


 健人は不満たらたらにそう言うと、背後へくるりと振り返った。


 そこには、同じく海中を緩やかにただよう呆れ顔の莉果がいる。


 「どうでもいいです。結果がともなったのなら、もう良くないですか?」


 「ほらな。『終わり良ければ全て良し』だろ?」


 味方を増やすどころか、結果として凛月を増長させるだけになってしまった展開を察した健人は、大袈裟おおげさに首を横に振る。


 「ハァー。オイオイ、莉果はまたコイツの味方?お前がいつもそんなだから、コイツがつけ上がるんだぞ!」


 その言い草にムッとした表情を浮かべた彼女は、健人からフイッと顔を背け。


 「どうでもいいというのは、口論の中身ではなく、口論自体についてです」


 そう言って、海中にはりつけとなったエアロテールの方へと向き直った。


 「此処ここへ何しに来たんですか…エアロテールの回収は?」


 「「あ…」」


 凛月と健人の間の抜けた声が、平穏を取り戻した白昼はくちゅうの海へと緩やかにこだました。

エアロテール


<由来>

 空気エアロテール

<モチーフ>

中型魚+扇子

<特徴>

 体を覆う鱗は薄暗い灰色。ひれは触れたものを裂くほどに鋭く成長し、特に体と不釣り合いに大きな尾鰭おひれは一級品。表面に深い凹凸おうとつを持つそれを、扇子せんすの要領で振り回すことで潮の流れを作り、岩をも軽々と粉砕ふんさいする波濤はとうを撃ち出す。故に別名は『春の嵐』。しかし、旋回せんかいにはかなりの体力を労するため、連続で使用するとバテてしまう。更に振り回している時は、支点である尾の付け根が一点に留まることが知られているため、付け根を遠距離攻撃で狙うとよい。

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