1章13「唐突に改めまして」
凛月はゆっくりと丘を登っていく。
手にはビニール袋。
中には楓からもらったお結びと水筒。
水筒の中の氷が、彼の歩みに合わせて冷涼な音を立てる。
通り過ぎる風は穏やかだ。
まるでピクニックのような気分で辺りに視線を向けると、地下都市とは思えないほどの緑があった。
ここは、國晴の破壊活動に辛うじて巻き込まれずに済んだ、畑を主とした作物栽培スペース。
それはよく見ると酷く人工的で、本物の自然には程遠い。
しかし幼い頃、アトランティカで見た絵本の景色に少し似ている、ふと彼はそんなことを思った。
昔の地上は、こんな模造品とは似ても似つかぬほど、美しい場所だったらしい。
思案に耽りながら頂上へと辿り着くと、やはりそこに千里はいた。
静かに景色を眺める彼女の横に、彼が黙って腰かけると、振り返ることなく彼女は、静かに口を開いた。
「…ここ、私のお気に入りなの。ほら、綺麗でしょう?」
「まあ、そうだな…」
彼の生返事に、彼女は少し、むっとした表情を浮かべた。
「…今『所詮、偽物だけどな』とか、失礼なこと考えたでしょ!」
「な…!?そんなわけ…ねぇ…よ?」
「アンタ、嘘下手ね」
「ぐっ…」
千里はひとしきり棘のある視線を向けると、やがて怒りを鎮めた。
体育座りで、脚を抱える彼女の腕に力がこもる。
「分かってるわよ、そんなこと。でも…仕方ないでしょ。見たことないんだもん、本物なんて」
「…俺もだよ」
「私たちがこれから進む先には、本物があるの?」
「どうだかな。それに…本物なんて、いざ見てみたら『こんなもんか』って、拍子抜けするんじゃねぇの」
「そうかもね。…でも」
そこでやっと、彼女の視線が凛月を捉えた。
彼を試すように、瞳が儚げに揺れる。
「それでも前に進まなきゃ。世界を変えたいなら、尚更」
「…それもそうだな」
凛月は首肯すると、ゆっくりと立ち上がった。
「言いそびれたけど、俺も思うよ。綺麗だって」
それは嘘偽りない、彼の本心だった。
見てくれの話などではない。
此処は誰がどう見たって、本物とは程遠い偽物、それは事実だ。
天井は青く、時折白く塗って、空の真似事をしているだけ。
大量の照明は、いくら巧妙に隠したって、太陽の真似事。
風に至っては、ただの冷房だ。
風情も何もあったもんじゃない。
なのになぜ…この景色に、こんなにも心さざめき立ってしまうのか。
それは此処が――みんなの夢の景色だからだ。
千里だけではない。
全ての人間がこの景色を夢見て、ここを目指している。
地上の荒れ果てた大地も人外の化け物も、関係ない。
みんないつか、地上がこんな景色を取り戻すことを信じている。
だからこそ心動かされてしまうのだ。
この場所を作った人々の想いに。
この場所を見つめる人々の想いに。
「でしょ」
今度は千里が立ち上がる番。
彼女の身長は、凛月の肩に届くくらい。
だが、並び立つ2人は対等。
「やることは山積みだな」
「まずは陸路を開拓するでしょ。次に身寄りのない子どもたちをみんな助けて、それからあの、いけ好かない合成獣をぶっ倒して、世界の謎を解き明かして、それから…故郷に帰るんだっけ」
「全然帰す気ないじゃねぇか。というかお前、今しれっと自分の目的優先させたろ」
「やーね、みみっちい男」
「おい」
千里は朗らかに笑うと、一歩踏み出し、くるりと振り返った。
その拍子に彼女の長い黒髪が揺れ、隙間から光が零れる。
「じゃあ…改めまして。千宮司千里よ。これからも、私についてきてくれる?」
そう言って差し出す手は、ガラスのように脆く、力強い。
その光景は、彼らが初めて出会った、流線型のあの日と同じ。
あの日から彼の生活は巡るましく変わり、今では懐かしささえ覚えるほど。
――だが、彼の答えは変わらない。
彼は千里の手をしっかりと掴んだ。
「…ああ。才波凛月だ、改めて、これからよろしく」
これから何が待ち受けているのか、それは誰にも分からない。
故郷に戻れる保証も、生き残れる保証もどこにもない。
けれど。
彼女たちといれば、きっといつか。
真夜中の太陽が2人を照らす。
暖かな光を受けて、彼女は満足そうに笑みをこぼした――。