1章11「歓待なき来訪者」
気づけばいつも夢に視ていた。
これは幼い頃の記憶。
視界いっぱいに広がる焔の紅と、鼻を差す焦げた腐臭と、飛び交う悲鳴と、切れた唇から滲む血の味と。
――腕の中で静かに消え逝く、母の温もり。
何もできない自分を嘲るでも呪うでもなく、ただ優しく包み込むその柔らかさを。
慈悲もなく踏み躙る、猛き獣の双眸を。
――今もハッキリと覚えている。
「…はッ!」
唐突に悪夢から醒める。
全身からじっとりと滲む汗。
身体の震えは決して、寒さだけのせいではない。
「はぁ…はぁ…」
荒い呼吸を必死に整え、ゆっくりとベッドから起き上がる。
その拍子に、上着が肩からずり落ちるが、そんなことは気にも留めない。
彼女の左手は拠り所を探すように、身体を支える右手を掴んだ。
「…お風呂入らなきゃ」
孤独を感じた日の夜は、いつもこうだ。
背筋に纏わりついたトラウマは、日を追うごとに薄れるどころか、酷くなるばかり。
首筋を伝う汗を拭った彼女は、身体を奮い立たせるように立ち上がった――。
「はーぁ、やっと退院かよ」
21時、凛月が溜め息とも欠伸ともつかない声を漏らす。
「瀧川中将が治してくれたんだから、あんなに疑わなくたって、もうピンピンだっての」
「仕方ないでしょ。特にアンタの場合は、体構造が普通と違うんだから」
「ジッとしてるのは性に合わねぇんだよ。なぁ、涼?」
「ボクは合法的にサボれて嬉しいけどなぁ」
「というか、楓は?」
今は病院の入り口に、凛月と涼燕、千里の3人。
集合時間はとうに過ぎたが、1人足りない。
「あの子が遅れるなんて珍しいわね」
「…あ、来た」
涼燕が示す先には、大手を振りながら走ってくる楓の姿。
「ごめんなさーい!寝坊しましたー!」
「もう、次からは気をつけなさいね」
「えへへ」
そのやり取りを見て、凛月が訝しげに首を傾げる。
「どしたの凛ちゃん」
「おかしくね?俺が寝坊したときは、問答無用で自宅に凸られたんだが」
「ちょっと、人聞きの悪いこと言わないで頂戴」
むっとする千里の横で、楓が自信満々に胸を張る。
「それは凛先輩だからじゃないですかー?私はほら、千里先輩の好感度、マシマシマシなので」
「いやいやいや、俺は努めて好青年なのに、こいつがやたら当たり強いんだよ。俺は被害者」
「よく言うよ…」
「どうでもいいわ。それより…みんな揃ったなら始めましょうか。まずは、身体の鈍りきったバカ凛どものために、ランニングからー」
「おい、まだ半日だ!こっちのヒョロガリと一緒にするな!」
「いや今完全に、ボクじゃなくて凛ちゃん主体の言い方だったよ」
「なんだとっ!」
いつも通りガヤガヤと、口論をしつつ、緩やかにランニングが進行するかと思われた矢先。
「それなんですけど…ごめんなさーい!私ちょっと、今日はパスで!」
そう言って両手を合わせるのは楓。
「あら、どうかした?」
「昨日の任務から、ちょーっとこの子の調子がおかしくて。なので、整備室でメンテしてこようかと」
彼女は背負った猟銃をガシャガシャと揺らす。
「あら、それは良くないわね」
「じゃあ走るついでに、そこまで送ろうぜ」
凛月のその提案に、楓は首と両手を大きく横に振ると。
「いえいえいえ、大丈夫でっす。皆さん、本日も頑張って行きましょー。ではではー!」
「ちょ、おい!」
彼の静止もやむなく、彼女は背を向けて走り去っていく。
その姿を静かに見送っていた千里は。
「…」
「おい、今日のあいつ、なんか変じゃねぇ?」
「まあ、そういう日もあるんじゃない」
「はぁ?なんだよ、そういう日って?」
「それは…ボクに聞かれても困るけど」
「意味分かんねぇ。おい、千里?」
「うるさい」
刹那、すね蹴りが2発。
「痛ぁ!」「ボク、ちゃんと寄り添ったのに!」
「無神経がウザいから1発、分かってますよ感がウザいから1発、の計2発よ。あいよ大将、お勘定。まいどありー」
「怒涛の理不尽!」
彼らの文句を全て無視して、千里は走り出した。
走ること数分。
「あら、ついてこれるようになったのね」
綺麗なフォームで腕を振る千里の横に、やや荒いフォームの凛月が並走している。
地下都市へ来た当初は息も絶え絶えで、彼女に追いつくことすら難しそうだったが。
「ナめんなよ…抜き去るのも時間の問題だ」
「ふふっ、怖い怖い…あれ、涼は?」
「あいつならどうせ、後ろの方に…」
そう言って振り返る凛月。
しかし、彼の視線の先には…誰もいない。
「まさか…」
「またサボりかあいつ!まったく、油断も隙もねぇ!」
「はぁ…もう、ランニングくらい普通にできないのかしら?まったく、バカ凛どもは…」
「おい今、また俺が主体だったろ!」
「そんなことより」
千里が立ち止まり、それに凛月が倣う。
彼女は、拳を上に突きあげると。
「追うわよ!今日は涼を捕まえた方がジュース奢り!」
「よっしゃ、今日は敗けねぇ!」
ちなみにこれまでの戦績は、凛月の全敗。
「2手に別れましょう!左と右、どっちがいい?」
「断然、左!」
「おっけー!」
こうして、涼燕の探索に乗り出した凛月。
しかし、千里と別れてから数分後、あることに気づく。
「もしかして…個人色使われたら、勝ち目ないんじゃね?」
涼燕が本気で逃げるつもりならば、【灰】の能力で彼らの動きを把握するだろう。
ならば、追う彼ら側が完全に不利。
唯一の弱点は、能力が風向きに依存することだが、こんな開けた場所では全く心配する必要がないことだ。
ならばせめて、室内。
そう結論づけた彼は、身近な軍事施設へ乗り込んだ。
そして『廊下を走るな』という注意書きがないことを確認した後、廊下を全力で駆ける。
しかし、彼は知るべきだった。
なぜそんな注意書きがあるのかを。
「うおっ!危なっ!」
曲がり角に差し掛かったところで、不意に差した影。
すんでのところで急ブレーキをかけるが、たまらず転倒。
恥ずかしい格好で床に倒れこむ彼に。
「凛先輩?…何してるんですか?」
声をかけたのは、呆れ顔でしゃがみ込む楓だった。
「あれ?お前、何でここに?メンテは?」
「さっき終わりましたよー。だから。これから戻ろうかと。というか、『何でここに?』はこちらのセリフです。…まさか、ストーカー?」
自分の身体を抱きしめ、後ずさる楓。
「なわけねぇだろ。涼を探してるんだよ。あいつ、またサボりやがった」
「あらら、それはまあ、涼らしいというか何というか」
楓は苦笑すると、ついでと言わんばかりに有力な情報をくれた。
「涼のことだから、そんな離れた場所にはいないんじゃないですかねー。寂しがり屋さんなので。今来た道を、引き返すが吉」
「おお、ナイス占い」
「えへん」
ありがたいお言葉を受け取った凛月は、そのまま楓に背を向けて立ち去ろうと…。
「頑張ってくださーい。…ん、あれ…?」
唐突に、楓の言葉が止む。
「どうした?」
凛月は一旦足を止めると、視線を楓の向く方へ。
そこにいたのは…一匹の、薄暗い鼠。
壁の影を縫って移動する様は、ともすれば見逃してしまいそうなほど地味だ。
「ん…何だあれ…生き物、か…?」
目を凝らす凛月。
そして、近づこうとした、その瞬間。
「あ…うわあああああぁぁぁぁぁ!!!」
叫び声が響き渡った。
それは意外にも、楓から発せられたものだった。
普段の彼女からは想像のつかない声。
凛月が驚いて振り返ると、彼女は目を大きく見開き、猟銃に手をかける。
そして――閑散とした廊下に、何発も響き渡る銃声。
銃口から飛び出た【向日葵】色の兎はろくに狙いも定まらず、壁を抉りながら跳ね回る。
地面にぶつかった兎は爆裂四散し、建物全体を震撼させる。
「ッ!おい!何してんだ楓!」
彼の声は、もはや彼女には届かないほど錯乱している。
その間にも、被害は拡大していく一方。
これはまともな状況じゃない。
そう結論づけた彼が、後ろから彼女を羽交い締めにして抑えにかかる。
「おい!聞こえるか楓!しっかりしろ!」
「嫌だッ!放してくださいッ!放して…!」
抵抗を続ける楓を抑えながら彼は、この状況をどう打破するかを考えていた。
彼女のことは放っておけないが、同時にあの鼠も何とかしなければならない。
土煙で事態の把握は難しいが、恐らく弾は直撃していない。
だが、自分だけの力では。
「――涼!聴こえるなら出てこい!頼む!」
切羽詰まった叫び声。
するとすぐに、階段から慌ただしい靴音が響く。
現れたのは涼燕。
「え、何事!?…楓ちゃん!?」
「こっちのことはいい!あっちに何か、小さい生き物が逃げてった!追いかけてくれ!」
「マジ?」
彼は一瞬驚いたような表情を浮かべるが、すぐにヘッドフォンを耳に当てる。
【灰】色の輝き。
「それは…良くないね。応援も呼んでくる!」
走り去る涼燕。
後には廊下の壁の焦げた臭いと、息を荒げる楓だけが残っていた。
「楓!凛!」
遅ればせながら到着したのは千里。
視線の先には、ソファーに座りこむ楓と、訳の分からない表情でそれを見つめる凛月。
彼女の顔は未だ青ざめ、身体も少し震えている。
「千里」
「話は大体、涼から聞いたわ。…大丈夫?」
千里が優しく問いかけながらしゃがみ込むと、楓の首が小さく縦に動いた。
「ごめんなさい、私…」
「大丈夫だから、心配しないで」
「なぁ…何が起きてるか、俺にも説明してくれ」
「そうね」
千里はそう言って、再び楓に目を向ける。
「楓…あの話、凛にしてもいい?」
「…はい」
消え入りそうな声。
それ受けて、千里が立ち上がる。
「地下都市に、地上の生物はいないの。登録済みの家畜なんかは除いてね。それらの侵入を許さないよう、常に警備が敷かれているわ。なぜなら…奴らは往々にして、外敵を運ぶ『容れ物』となるから」
「容れ物?」
「地上には植物が繁殖しているでしょう。あれらの種子や胞子を運ぶ可能性がある、だから容れ物。当然、奴ら自身も脅威ね」
アトランティカでは、一部を除き、多くの生き物は海棲人と共生して生きてきた。
だからこそ、凛月にとってその話は、目から鱗だった。
「しかし、今回のように、侵入を許すケースもあるわ。前回は確か、10年近く前。被害は一部の民家にまで及び、事態の鎮静までに複数名の犠牲者が出たわ。そして…その中には、楓の両親も入っていた」
「なっ…!」
「楓は運良く生き延びたけど、そのことがトラウマになっても不思議な話じゃないわよね」
「そんなことが…」
それを聞いてやっと、楓があんなにも取り乱した理由に合点がいった。
「待てよ。じゃあ、今まで…まさか、任務中も?」
「…はい」
か細い声、それは肯定。
彼女の瞳は涙に濡れていた。
それを見た凛月が唇を強く嚙む。
――俺は馬鹿だ。こんなことにも気づかずに。
先のジャイアントハウンド戦、地上に独り残ることを選んだ彼女は、一体どんな気持ちだったか。
気丈に振る舞っていたが、その態度の奥に隠された本当の想いを、気づくどころか、考えることもしなかった。
そんな自分を殴りたい気分だ。
「…先輩?」
不意に彼女に、頭から覆いかぶさる、重くて暖かな感触。
それは凛月の上着だった。
「冷えるだろ…着てろ」
「…ありがとうございます」
少し安心したような笑顔を浮かべる楓を見て、凛月が顔を上げる。
「俺が何とかする。千里、情報をくれ」
「そうね…その前に、生き物の特徴を教えて」
「見た目とかってことか?えっと…毛が灰色で、こんくらいの大きさで、…あと、細くて尻尾が生えてた」
「鼠かしら?さて、問題は…今どこにいるかと、いつどこから入り込んだのか、ね」
顎に手を当て、逡巡する千里。
それを眺める凛月に…ふと、嫌な予感が過ぎる。
「いつ?待てよ…」
初任務、死套から逃げ切ったあと。
自分の視界に一瞬だけ映ったアレは、一体なんだったのか。
悪い予感に、背筋が徐々に冷たくなる。
「凛?」
そんな空気の変化を察してか、顔を覗き込む千里に。
「俺、もしかしたら…あいつ、見覚えあるかも」
「え?…いつ?」
「初任務だ。死套から逃げ切って、扉を閉めたあと」
「え、あの時!?じゃあ…1週間以上前ってこと!?」
「多分。何かマズかったか?」
「マズいどころじゃないわよ!1週間も生き延びてるってことは、繫殖してる可能性が…あ」
「どうした?」
「つまり奴らは、食糧を確保してるってことよ。地下都市でそんなことができる場所は…」
刹那――耳を劈くような轟音が響き渡る。
そして後を追う、立っていられない程の大きな揺れ。
「きゃっ!何が起きてるの!?」
未だ揺れの収まらぬ中で、彼らの耳に届く…誰かの声。
――戦闘員各位!こちら千宮司隊、比々谷涼燕です!敵襲あり!戦闘可能な隊員は集合してください!場所は…。
そして彼が紡いだ言葉は、誰しもが予想し得る限り、最悪の答えだった。
「――食糧保管庫」