1章10「月に叢雲」
鼓膜を打つ微かな音、それは笛の音。
ときに小鳥の囀りのように可愛らしく、ともすれば龍の轟きのように大きく荘厳。
抗いがたい暖かな微睡みの中、凛月の瞼がゆっくりと開いた。
視界いっぱいに広がるのは純白の天井。
そよぐ風、はためくカーテン。
全身を包む柔らかな感触と、痛いほどに清廉を極めた芳香が鼻孔をくすぐる。
その中で、彼の意識は徐々に覚醒し、自身が置かれる現状を少しずつ理解し始めた。
彼の最後の記憶には、身体が痺れ動けない自分と、それに駆け寄る千里の姿。
ならばここは病院、或いは天国。
少なくとも、地獄ではないと思いたい。
彼が力を入れると、すんなりと上半身が起き上がる。
痛みはあるが、痺れはない。
「どっちだ…?」
更に身体を動かし、自分の状態を確かめようとする彼に。
「――少年。動かないで」
不意に、諫めるように語りかける、優しい声音が響く。
唐突に止む音色。
その声に惹かれて振り返ると、そこには――窓枠に腰掛ける、1人の男がいた。
一つ纏められた髪は、萌ゆる栴檀の葉の如き翠。
瞳は花の薄紫。
幾重にも重ねた羽織は、十二単を思い起こさせる。
その姿は、錦上に添えられた花、或いは泥中の蓮。
「…誰?」
彼のシンプルな問いかけに、男は静かに口を開く。
「私は流浪。此処へは唯、音を奏でるために訪れました」
「ル…ルロ…?」
頭に疑問符を浮かべる彼に構わず、男は笛に口をつけ、再び演奏に戻る。
――は、話が通じねぇ…。
それが凛月の率直な感想。
彼は仕方なく会話を諦め、笛の音色に耳を傾けることにした。
透き通ったその音色は、呼吸で取り込む空気のように自然に、心地良く彼の身体に染み入る。
細胞は活性化し…次の瞬間、傷口が徐々に塞がっていく。
「え?」
驚愕に満ちた彼の視界の端に捉えたのは【萌葱】色の輝き。
光源は、音楽を奏でる男の右腕。
――回復能力か?
そう考える凛月の眼前で、やがて男は笛から口を離し、凛月を静かに見つめた。
「少年、具合は?」
「え?あ、あぁ…」
気づけば彼の身体は完治していた。
痺れどころか、先ほど感じていた痛みすらもない。
「大丈夫です。えっと…ありがとう…ございます?」
「では、役目はお仕舞い」
男はそう言って、流麗な所作で笛を懐へ仕舞う。
そのまま姿を消すかと思いきや、その瞳は再び凛月の方へと向いていた。
「ときに少年」
「…はい?」
「貴方には今、疑問が生じていますね?例えばそう…自分を襲った敵が、何者なのか」
その言葉に、彼は春雷で胸を撃たれたような思いがした。
「知ってるんですか?」
「それは追い追い。ですが、貴方には関係ないのでは?今一度、己の目的に向き合ってみて御覧」
「…」
彼の目的は、アトランティカに帰ること。
敵の正体が何だろうと、所詮は一時の付き合いで、地上のことなど本当は関係ないはずだ。
「月に叢雲。半端な好奇心は、貴方の覚悟を霞ませる」
彼の言う通りかもしれない。
自分はそれを知るべきではない。
早々に斬り捨てて、その外側で安寧を享受すべきなのだ。
だが。
「それじゃ、いつまで経っても俺は…陸を想う憐れな魚のままだ。俺は、知りたい」
たとえそれが偽りであろうと、安寧に生きることは容易い。
しかし、一歩。
先も知れぬ荒野へ踏み出してしまった足を引くことを、現状維持に固執することを、彼の心が許さなかった。
「そう、君は知るべきです。花は根に、鳥は古巣に。進むことを辞めなければ、いずれ貴方の望みは実を結ぶ。それは、全てを知ってからでも遅くないでしょう」
男は瞳を閉じ、満足げに首肯する。
「じゃあ教えてください。あいつらは…」
「彼らは、一言で表すならば、そう…」
男はそこまで言ったところで――唐突に口を噤む。
「…?」
「おっと、思わぬ来訪者が。花に嵐。残念ながら、此にて御免」
彼はそう言い残し、窓の外へ姿を消してしまった。
「はぁ!?ちょ、おい!」
凛月は慌てて窓を覗き込むが、男の姿は既にそこにはなかった。
「なんだったんだあいつは…」
結局、敵の正体も、彼自身の正体すらも分からなかった。
そんな消化不良の思いを抱えていると――不意に、背後の扉が開く。
スパーンという小気味よい音とともに現れたのは。
「凛!無事!?」
そこには、大急ぎで駆けつけたからか、髪も呼吸も乱れた千里の姿。
彼女は、窓際にぼけっと突っ立っている凛月を視認すると、安堵の息を漏らし。
「良かった!…というか、目覚めたのなら連絡しなさいよ!」
「連絡手段がねぇだろ!それより…涼は?」
「アンタより随分早く目が覚めたわ。そっちには今、楓が行ってる」
「そうか…良かった」
胸を撫でおろすのも束の間、今度は千里が質問をする番。
「もう歩いて大丈夫なの?傷は?」
「なんか…治してもらった」
「誰に?」
「えっと、確か…ル、ルロイとかいう人に」
「誰?」
「俺が聞きてぇよ」
「はあ?」
そんな押し問答を続ける2人に。
「…木更だな」
「「総帥!」」
音もなく、病室に入ってきたのはイグニス。
「木更…瀧川木更中将ですか?そういえば確かに、ここへ来る途中、笛の音が聴こえていたような…」
「中将?めっちゃ偉いじゃねぇかあの人」
「…奴はどこに?」
「さっき『此にて御免』とか言いながら、窓から出て行きました」
「はあ?もしかしてアンタ、ふざけてる?それともまだ夢の中?」
「ふざけてんのはあっちだよ。言ってることもちょいちょいよく分からなかったし」
「…成程」
それを聞いたイグニスは、静かに腕を組む。
「…そういえば、木更に課した仕事の報告が、1か月ほど滞納しているな」
つまりはそういうことだった。
「無茶苦茶じゃねぇか、あの人…」
「上司には絶対したくないわね。凛もやっと、隊長たる私の偉大さが分かったかしら?」
「あれと比べなきゃいけない時点でお察しだよ」
「何ですって!?」
喧嘩を始める2人を、イグニスは無言で眺めると。
「…そろそろいいか?」
「あ、失礼しました…」
千里が気恥ずかしそうに引っ込んだ。
そこでやっと、凛月の脳裏に1つの疑問が過る。
「そういえば、総帥がなんでわざわざここに?」
「…やっと本題に入れるな」
イグニスはそう言って、病室の壁に寄りかかる。
「…先の任務の報告を、今しがた千宮司から受けた。お前も気になっているところだろう。己が邂逅した敵が、何者なのか」
身体に緊張が走る。
やはりそれは、これから『先』の話にあたって、避けては通れぬ道のようだ。
「はい。…なんなんですか、あいつらは?」
「…その話をするにはまず、我々の目的を再確認する必要がある」
「目的…ですか?」
凛月の知る限りでは、彼ら地下都市の人間は『陸路の開拓』を望んでいる。
それは襲い来る敵を退け、生活に安寧をもたらすためだとばかり思っていた。
しかし、イグニスから紡がれたのは、別の言葉。
「――我々は、世界の謎を解き明かす。奴らはそのための、重要なパーツの1つだ」
「世界の、謎…ですか?」
その壮大な言葉に、凛月は少し動揺してしまった。
予想外の答えだったからだ。
それに、彼がこれまで知るイグニスの姿らしくない。
しかし、彼は至って真面目だ。
「…お前は、『世界の貌』を知っているか?」
「え?世界って…地球ですか?それはえっと…球体」
「…その認識で今は構わない。しかしそれは、本当か?お前はそれを、見たことがあるか?」
「いえ、ない…です」
「…そうだ。我々は、その誰しもが、世界の本当の貌を知らない。それを知らずに、今ものうのうと暮らしている」
彼は続ける。
「…それを記した書物は少ない。『纏空封壊』により、我々は知見を、そして歴史を失った。然し世界は、無智で生きるにはあまりにも過酷だ」
「それと奴らの正体に、一体何の関係が?」
「…奴らは『合成獣』。獣の能力を手に入れた、元人間だ」
「合成獣…」
言葉を失う凛月。
しかしそれとは裏腹に、彼の心にストンと腑に落ちる部分があるのも確かだった。
月光の下で蠢く、巨大な植物や哺乳類の群れ。
何度か剣を交えたそれらと、彼らは根本的に違う。
それに彼らは、どちらかと言えば…。
「…そうだ。奴らは、お前たち『海棲人』に近い」
「総帥、その言い方は…」
横から釘を差すのは千里。
だが、当然ながらイグニスに、凛月を責める意図はない。
「…海棲人であるお前は、なぜ地上で呼吸ができる?肺があるからだ。しかしそれは本来、海棲に必要な機能ではない。つまり、海棲人も、元は地上で暮らす人間だった…そうだな?」
彼の指摘は正しい。
海中都市に棲む海棲人の祖先は海で暮らし、何らかの理由で生活圏を海に移した…凛月はそう聞いている。
その理由とは『纏空封壊』。
ならば、それが起きる前は。
「…我々は、元は1つの人間だった。それが『纏空封壊』をきっかけに分岐し、今の貌に至った。それらを解き明かすことが、世界を知ること、引いては全ての同胞を守ることに繋がる」
イグニスの話はそれで終わりだった。
彼は壁から身体を離し、静かにその場を後にする。
しかし、それに待ったをかける声。
「総帥」
「…なんだ」
「世界を知ったその先に、あるのは『平和』ですか?それとも…」
「…それを決めるのは俺じゃない。俺はただの観測者に過ぎない。それを決めるのは…そうだな。お前らの働き次第だ。期待する」
彼はそれだけ言い残し、完全にその場を後にする。
残された2人の間には沈黙。
千里は静かに、凛月が次に紡ぐ言葉を待っている。
「…千里」
「なに?」
「俺は今まで、ただ漠然と外の世界に憧れてた。その先に何があるかなんて、考えてもいなかった」
「そうね。それは、私も同じだったのかも」
「だけど、それじゃつまんないよな。全ては繋がっていて、その入り口は、いつも俺の目の前にあったのか」
彼の答えは、とっくに決まっていた。
「…燃える」
瞳に宿る『熱』。
彼のその呟きに、千里は心の底から楽しそうな笑みを浮かべた。
月に叢雲、花に嵐。
たとえ夜道を照らす月光が翳れど、咲いた花が無残に散れど。
その行く道を知る限り、土壌に種が潜む限り。
――歩みを止めることはない。