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アクアテラリウム  作者: 真島 悠久
1章 『Welcome to the Extraordinary』
14/113

1章8「伝統と未来の温泉回」

 『努力は成功の必要十分条件か?』


 たびたび交わされる議論であるが、議論に上がった時点で、大半は結果が決まっている。


 それは『努力と成功の関係は、必要条件にしか成り得ない』ということだ。


 つまり、努力は必ずしも実らない。


 日々、過酷な任務をこなす凛月たちにとって、これは最早もはや常識である。


 彼はこれをこう解釈している。


 『成功するために努力するのは当たり前。そこから先は運8割に気合い2割』


 だから彼は、成功者が自身の成功を努力のみにる物と解釈するのはおごりであると思うし、やって当たり前の努力を人に誇示こじするのも間違っていると思う。


 ただそうなると、『自分は努力してるが、運が悪いだけ』派や『結局運だから努力しない』派が息巻く温床おんしょうとなるため、滅多なことは言えない。


 とどのつまり、何が言いたいのかというと。


 ――たまには失敗する時もあるよね!ということだ。






 時は、3時間前にさかのぼる。


 今日の任務も護衛だった。


 目的についてはよく知らない。


 しかし、事前にかえでがこう言っていた。


 『癒やしですよ、I・Ya・Shi。私たちの仕事って、死と隣り合わせじゃないですかー?だから、そう、大事なのはメリハリなんですね。…ということで、この企画!ババン!いやー、実際苦労したんですよ、この企画を通すのはー。しかしですね!最終的にゴリ押し…いえ、地道な努力の結果、遂に!採用されたんですよ!これは画期的に違いありません!私天才!…あ、というわけで詳細は追って説明するので黙って働いてくださいねー』


 「――なあ、あれ…どういう意味?」


 「ボクが分かるわけなくない?」


 「だよな」


 「「…はぁ」」


 一方的にまくし立てられ、訳も分からぬまま駆り出された凛月りんげつ涼燕りょうえん


 時刻は午前1時。


 地上には、彼らの他には誰もいない。


 肌に吹きつける風は、心なしかいつもより冷たい。


 ――帰りたい。


 そんな凛月の想いに釘を刺すべく、涼燕が気だるげに口を開く。


 「とりあえず、ボクらはここで敵の侵入を防いでればいいんだっけ」


 別行動の千里ちさとと楓、その他の関係者は、彼らの奥で何やら作業をしているらしい。


 彼女らの作業は皆目かいもく検討がつかないが、ときおりただよってくる、卵の腐ったような臭いは無関係ではないのだろう。


 「うえぇ…鼻曲がりそ」


 「なんだこれ、う◯こ?」


 「凛ちゃん、そういう低レベルな下ネタすきだよね」


 「うるせぇ、高レベルなやつは自粛してんだよ」


 「…できないだけのくせに」


 「は?」


 噛みつく彼に、涼燕はやれやれと首を横に振ると。


 「…来たよ。中型種かな。3時の方向、数は10くらい」


 そう言ってヘッドフォンに手をかける。


 右腕には【灰】色の輝き。


 「分かった、じゃ俺が前に出る」


 剣を構えた凛月の左腕に【群青】色の光が灯る。


 静寂せいじゃく


 ――やがて、静寂を切り裂く大きな地響きが、開戦の合図を告げる。


 「行くぜッ!」


 気合いの入った掛け声と共に、凛月が大きく一歩踏み出した。






 それからは、敵が現れては斬り捨てての繰り返し。


 初めは陸上での動きが覚束おぼつかなかった彼も、今ではかなり慣れ、本来の動きを取り戻しつつあった。


 この程度の烏合うごうでは、肩慣らしにもならないといったところ。


 着実に敵の死体の山を作り上げ、戦闘を数回繰り返すうちに、気づけば1時間が経過していた。


 「それでとりあえず最後かな。おつかれー」


 ヘッドフォンを外して近づく涼燕。


 凛月は手ごろな岩場に腰を下ろし、軽く手を挙げる。


 「おつかれ。しっかし…遅いなあいつら。まだ終わんねぇのか?」


 「んー、まだ作業中っぽそうだねぇ」


 涼燕はそう答え、彼の隣へ。


 「つーか、敵少なくねぇか?」


 彼が言っているのは、初任務のことだろう。


 確かに、敵が際限なくなだれ込んできた初任務に比べて、今回は異様に敵の数が少ない。


 しかし、それは異常という程のことではない。


 「普段はこんなものだと思うよ。前回、敵が多かったのは死套デス・ヴェールのせいだね」


 「どういうことだ?」


 「あの動物たちは、死套デス・ヴェールに巣を負われて逃げて来てた、ってこと」


 「なんだ、じゃあタイミング最悪だっただけかよ」


 「そうなるね。せめて死套デス・ヴェールの出現周期でも分かればいいんだけど…あ」


 不意に涼燕が立ち上がる。


 「千里ちゃんたち、撤収し始めたっぽい」


 「やっとか…じゃあ俺たちも、帰る準備しようぜ」


 「そうだね…と言いたいところだけど、また敵来たみたい。4、いや、5匹」


 「チッ…空気読めねぇなぁ」


 そう言って凛月が、気だるげに一歩踏み出すと。


 「…ん?」


 かすかな違和感。


 「なんか、音が聴こえないか?」


 彼の言葉に首を傾げていた涼燕も、次第に異変に気づく。


 「確かに…なんだろこれ?ゴゴゴゴゴって」


 「どこから聴こえる?」


 「うーん、これは…足下?」


 刹那せつな鳴動めいどうする大地と、鼓膜を揺らす轟音ごうおん


 違和感が確信に変わる。


 「なんかヤバい!逃げるぞ!」


 慌てて離脱を試みる凛月。


 だが、時既に遅し。


 地響きは既に、身動きもままならない程の大きさに達していた。


 「涼、どうなってんだこれ!」


 「ボクに言われても分かんないよ!とにかく落ち着いて…!」


 涼燕がそこまで言ったところで、その正体が現れた。


 地表を割り、勢い良く飛び出てきたのは――大量の水。


 なぜか白い煙を帯びている。


 吹き出した水に押され、不意をつかれた2人は空中へと放り投げられた。


 「うおおおおっ!?」


 「な、何これ!?水…くさぁ…って、熱っ!!!」


 「熱熱熱熱死ぬ死ぬ死ぬ!!!」


 「「はぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!????」」






 「…で、2人はそのまま床びたーんで戦闘不能。そのどさくさで敵の侵入を許し、見事に任務失敗…ってわけ?」


 ――そして現在、身も心もボロボロになった凛月と涼燕は、千里と楓のおしかりを受けている真っ最中であった。


 正座で縮こまる2人に対し、彼女らは意気揚々と。


 「丁度作業が終わったからカバーが効いたものの、プロ意識が足りないんじゃないかしら?」


 「全く、気が緩んでますねー?」


 「ちょっと待て!」


 凛月が勢い良く立ち上がり、勢いそのままに弁明を試みる。


 「あれは避けれないだろ!くせぇし熱いし…だいたい、何であんなとこから湧いてくるんだよ!運負けだ運負け!俺たちは悪くない、運が悪い!」


 「そうだそうだ!運負けだよ!これをボクらのせいにする横暴を許してはいけない!」


 「お黙りなさい。言い訳無用。運負け主張は甘えよ、覚えておきなさい」


 「「ぐぬぅ…」」


 卵の腐ったような臭いを漂わせながら、押し黙る2人。


 その様子を見て流石さすがに可哀想だと思ったのか、彼女は表情を緩め、腕組みを解いた。


 「…まぁ、次は気をつけなさいな。幸い、こちらの仕事はとどこおりなく済んだわけだし、大目に見るとしましょう」


 これでお終い、と手を叩く音を聞き、2人は正座を解いて立ち上がる。


 「…で、何だったんだよ今回の目的は?そろそろ教えてくれ」


 凛月がそう問うと、千里がくるりと振り返ってきた。


 その表情は『驚愕きょうがく』。


 「え!?知らずにやってたの!?」


 「あぁそうだよ!残念なことにな!」


 「楓ちゃんの説明がアバウトすぎたね」


 「あ、確かにそんな気もします。てへへ」


 みんなの視線を浴びた楓が、ペロッと舌を出した。


 あまり反省した様子は見られない。


 剣呑けんのん雰囲気ふんいきを感じ取った彼女は、ダメ押しとばかりに、カツーンと頭を叩いて☆マークを飛ばす。


 …が、いくらかわいく誤魔化しても、今日という今日は許さねぇ。


 「全く…楓は相変わらずよね。ま、いいわ。じゃあ早速ネタばらしといきましょうか。私と楓で報告行くから、2人は洗濯でもしておきなさい」






 20分後。


 集合した彼らが、千里に先導され向かった場所は。


 木製でそれなりに広く、地下都市には珍しい、瓦張かわらばりの古風な建築物。


 辺りに薄く漂う白い煙。


 暖簾のれんには『ゆ』の文字。


 「なるほどね…」


 涼燕もようやく気づいたようだ。


 それを横目に、ただ1人、首を傾げる凛月。


 「ほう、これはつまり…何だ?」


 「まあ、文化が違うから無理もないわよね…というわけで、さぁ楓!教えてやんなさい!」


 「了解ラジャです!正解はですね…ジャカジャカジャカジャカ…ドゥルドゥルアブドゥルドゥル…」


 そして彼女は、勢い良く建物に両手を広げると。


 「ババン!――銭湯せんとうです!」


 「戦闘…?」


 「そんな物騒ぶっそうな単語じゃありません」


 楓はうっとりとした表情で両手を組む。


 その姿は、まるで天に昇る気分とでも言わんばかり。


 「銭湯、それは乙女おとめの至福。入ればたちまち疲労回復、お肌ツヤツヤ、血行促進…まさに神アイテム!…まぁぶっちゃけ、シャワーの上位互換みたいなものでーす」


 「あの、臭いだけの温水が?」


 「チッチッチッ、分かってませんねー。あの臭いは腐卵臭ふらんしゅうと言いまして、硫化水素りゅうかすいその臭いです。アレがいいんですよアレが。えぇ、きっと」


 「楓の言う通りよ、きっと」


 「へぇ、そうなのか…きっと?」


 一瞬、丸め込まれかけた凛月が再び首を傾かしげるが、2人は気にしない。


 待ちきれない様子で暖簾のれんをくぐり、中へ。


 「いやー、頑張った甲斐かいがあったわね!」


 「ですねー!ワクワクです!」


 千里と楓は特に凛月たちの方を振り返ることもなく、建物の中に消えた。


 遅ればせながら、彼らもそれに続く。


 まず目に入ったのは、広めの玄関と木の板が几帳面に貼られた床、ベージュのスリッパの入った大量のロッカー。


 スリッパに履き替えたその奥には、たたみ張りの座敷と、背の低い長机が整然と並べられている。


 しかも、その隣には食堂付き。


 「うわ、結構本格的だ」


 「なぁ、銭湯…って風呂入るところじゃなかったのか?」


 「まあ基本的にはそうだけど、お風呂に入って出るだけってのも味気ないからね。聞いた話では、風呂上がりにのんびりするための、休憩施設を取り入れる銭湯もあるらしいよ」


 「へぇ」


 興味深げに辺りを見渡す凛月。


 すると、彼の視界に見知った人影がぎった。


 「…あ、興津風おきつかぜ少将!」


 千里と楓に囲まれながら、談笑している興津風蓮は、彼に呼応するように片手を挙げる。


 「やぁ君たち。任務お疲れ様。此処ここに来たということは、被検体第一号ってことかな?」


 「被検体?どういうことですか?」


 「おや、彼女たちに聞いてないのかい?」


 「いえ全く」


 ――ウチの女どもは、一言も二言も足りないらしい。


 凛月が胡乱うろんな視線を向けると、2人はペロッと舌を出した。


 目を反らしているのは、せめてもの反省の証か、どうか。


 「つまり、どういうことだ?説明してくれ」


 「では、それについては私から」


 千里が歩み出で、こほんと咳払いを一つ。


 「今任務の目的は『銭湯を作ること』だったの。私たちだけではなく、一般客も視野に入れた娯楽施設としてのね。…で、それに際して問題となるのが『お湯』なのよ。普通のお湯でもよかったんだけど、どうせならってことで、活火山のふもとから水路を引く計画を建ててたの。で、首尾は上々だったんだけど、ここで新たに問題が1つ。それは何でしょう?…はい、凛!」


 「…あ、俺?」


 凛月は驚いたように顔を上げると、腕を組んで考え込む。


 『被検体』…『湯の供給以外の問題』…それらが示す答えは…。


 「『水質』…か?実際の効き目とか、安全性はまだ分かってない、的な?」


 「おおむね正解!」


 その答えに満足したように千里が頷く。


 「当然、ある程度の水質チェックは済ませたわ。…でも、いきなりお客さんに提供するわけにはいかないのよ、商売的に。だから、私たちで効能を確かめよう…ってわけ。おしまい!」


 彼女は大きく手を叩き、話を締めくくった。


 「よく分からんけど、大掛かりだな…って、あれ?」


 そこまで聞いた彼にふと、疑問がぎる。


 「興津風少将がどうしてここに?」


 「ん?あぁ…」


 そして蓮は、なんてことのないように。


 「費用を全額負担したの、僕」


 そう言って、自分の顔を指差した。


 沈黙。


 「…は?嘘だろ…?」


 「ホントさ。ウチは、そこそこ小金持ちだからね。面白そうな話だったし、これを機に投資でもしてみようかと」


 「そんな、自販機でジュース買うみたいに」


 苦笑する涼燕の横で、凛月は必死に指を折っている。


 「なあ涼…その金でジュース何本買える?」


 「知らないけど、少なくとも、ジュースがどうこうってレベルじゃなくない?」


 「そ、そうか…」


 彼らのやり取りを楽しげに眺めながら、蓮は大きく手を広げると。


 「と、いうわけで諸君!最終チェックをよろしく!勿論もちろん料金は要らないよ。…さて、僕はまだやることがあるから、これで失礼」


 「少将は入らないんですかー?もしかして、被検体1号で様子見してから…とか」


 「フフフ…」


 怪しげな笑い声。


 是とも非とも取れるその声に、凛月の首筋に冷や汗が流れる。


 「…マジで?」


 「大丈夫大丈夫、冗談だよ。やることあるのは本当さ。これでもここの経営者だからね。それに…國晴くにはるを探さないと」


 「國晴…?」


 「あぁ、才波くんはまだ会ったことないかな」


 蓮は思い出したようにポンと手を打つ。


 そのフォローをするように、千里がちょいちょいと凛月の服を引っ張った。


 「汪我おうが國晴大佐のことよ。そのうち会うと思うわ。水の能力者で、今任務の、特に源泉げんせんの確保と水路の整備でお世話になってるの」


 「そんな訳で、僕は失礼するよ。お疲れ様」


 「お疲れ様です」


 別れの挨拶を交わしたあと、蓮はせわしなく玄関へと消えていった。


 「さて!じゃあ早速、入りましょう!」


 千里はパンパンと手を叩き、嬉しさのにじんだ表情でそう言った。






 女性陣と別れ、男湯の暖簾のれんをくぐった凛月と涼燕。


 ガラス製の扉を抜けると、奥に広がるのは白い煙と巨大な温泉。


 温泉は大きな石で取り囲まれ、壁は全面木張りで、何やら古風な面持ち。


 身体を洗い、早速湯船に浸かると、心にみるような温かさが全身を襲う。


 「おー…いい感じじゃん。帰巣本能くすぐられるわ」


 「本能て、大袈裟おおげさな…」


 今までシャワーで済ませていた分、全身を水にゆだねる感覚は凛月にとって、アトランティカでの生活以来だ。


 「でも深さが物足りねぇな。もっとこう、頭のてっぺんまで浸かるくらい湯を張るべきじゃね?」


 「それじゃ、ボクらが溺死できししちゃうよ。…そんなことより」


 いつになく真面目な顔で、静かに腕を組む涼燕。


 こんな表情は、任務中にも見たことがない。


 走る緊張感、自然と凛月の背筋も伸びる。


 「え…なんだ、やぶから棒に?」


 「大事なことを忘れているよね、ボクら。考えてもみてほしい、ボクらは今、裸だ。…なんで?」


 「なんでってそりゃ、風呂だからだろ」


 その答えに満足したように頷くと、彼は。


 「じゃあ、この向こうには何がある?」


 そう言って――木張りの壁を指差した。


 壁は1枚隔てた向こう側には、当然女湯。


 つまり。


 「…お前、本気か?」


 「ボクはいつでも本気だよ。と、いうわけでさ」


 彼は湯船から勢い良く立ち上がると自信満々に、されど声は小さめに。


 「やろうよ、のぞき!」


 そして、ビシッとガッツポーズ。


 これには凛月も驚きを隠せない。


 「どうりでさっきから、ソワソワしてると思ったぜ」


 「武者震いさ。この壁の向こう側にあるのは…そう、『伝統』と『未来』。おとこには、命をして果たすべき神命しんめいがあるのだよ」


 「伝統と未来…」


 「その通り。というか、逆に考えてみて。この場面で『覗かない』って何?それは2人に『女性としての魅力が全くない』って言ってるのと同じじゃない?それはもはや失礼だよ。そう、ボクらは()()()()()()()()()()んだ」


 「…なるほど、な」


 湯船にタオルを浮かべ、風船を作りながら聞いていた凛月は、逡巡しゅんじゅん


 そして、風船を潰して立ち上がる。


 「お前、天才か?そうと決まれば早速やるぞ!」


 「素晴らしい…心の友よ!」


 互いに拳を重ね合い、完全に意気投合した2人。


 こうして、未来を掴むための戦いが幕を開けた。






 「さて、問題はどこから攻めるかだね」


 そう呟きながら、木張りの壁を入念に調べる涼燕。


 残念ながら新品のため、隙間には期待できない。


 さてどうするか…と彼が、ロダンの考える人のポーズで思案していると、湯船から凛月が顔を出した。


 「おっ、来たね。どうだった?」


 「ダメだな。配管で繋がってはいたが、人が通れる大きさじゃない」


 「くっ…手詰まりか」


 壁は薄いようで厚い、まさに難攻不落のとりで


 その堅牢さに歯噛みしていると、何か思いついたように凛月が手を叩く。


 「木なら、押して隙間を作れないか?というか、もうこれぐらいしか残ってない」


 「正面突破だね。それでこそ漢!」


 壁にそっと触れる凛月。


 少し押してみると、耳を済まさなければ聴き取れないほどのきしみは生じ、少し隙間から光が漏れたようにも見える。


 ――行ける。


 彼のガッツポーズを受け、涼燕はご満悦の様子でゴーのサイン。


 凛月の手に、少しずつ力がこもる。


 そして、小指の先が捻じ込めそうな大きさまで、隙間が広がった、そのとき――。


 「――はぁッ!」


 突如、壁の向こうから、謎の掛け声と鈍い音。


 壁伝いの衝撃で、身体を密着させていた凛月は、受け身を取る暇もなく吹き飛ばされる。


 そして、頭から湯船に突っ込んだ。


 「ガボッ…ゴボゴボッ!!」


 「凛ちゃ――ん!!」


 慌てて駆け寄る涼燕。


 「ゴボゴボ…あ、そういえば俺、呼吸できるんだった!」


 彼は設定を思い出したように、跳ね起きると。


 「急に何しやがる!危ねぇだろ!」


 慌てて、偶然もたれかかっただけの村人Aを装うが…。


 「――おい」


 壁の向こうから、地獄の底からい出でたような、低い声。


 怒りを一切隠そうとしないそれに、凛月と涼燕の背筋が凍る。


 さらに、壁を殴りつける鈍い音。


 「次。余計な。こと。したら…殺す」


 「「はい、すいませんでした」」


 尋常じんじょうではない殺気に、2人はすぐさま、日本のお家芸『Do・Ge・Za』を敢行かんこうしたのだった。






 「全く、これだから馬鹿どもは…」


 女湯。


 壁の向こうが静まったところで、やっと千里は拳を下ろし、湯船へと身体を沈める。


 隣には、伸びをする楓。


 「逆に何で、聴こえてないと思ったんですかねー?」


 「知らないわよ、馬鹿の考えることなんて」


 どうやら、彼らの会話は全て筒抜けだったらしい。


 それもそのはず、木張りの壁に大した防音性能などない。


 「やっと落ち着いて入れるわ」


 そう呟く千里の口にはゴム紐。


 黒の長髪を、湯にからない高さで束ね、肩までゆっくりと沈みこむ。


 「ああああああ。気持ちいいいいい…プクプクプク」


 いつもの凛とした表情はどこへやら、緩みきった表情で泡を立てる彼女の横で、楓もご満悦の様子。


 「やはり私は天才だった…」


 「ホントアンタ天才。もう最高〜」


 「えへん」


 惜しみのない賛辞を受け、胸を張る楓。


 それを眺めていた千里の笑顔が…不意に固まる。


 「…どうしました?」


 不思議そうに顔を覗き込むと、彼女はある一点を凝視していた。


 それは楓の肩の下、燦然さんぜんたる1対の双丘そうきゅう


 詰まっているのは『未来』。


 「どういうこと?目の錯覚かしら…」


 ゴシゴシと目をこすり、再び目を開く千里。


 当然景色は変わるはずもなく、彼女の顔はいよいよ驚愕きょうがくゆがむ。


 「え、待って?いや、無理無理無理!おかしい、絶対におかしい!え、なんで?遺伝?遺伝のせいってこと?じゃあつまり…運?運負けってこと?」


 運負け主張は甘え、それは一体誰の言葉だったか。


 「え、何ですか急に…あ」


 事態に気づいた楓が、ポンと手を叩く。


 そして、彼女を傷つけぬよう、慎重に言葉を選びながら。


 「んー…大丈夫です!十人十色!みんな違って、みんないい!」


 そう言って、ビシッと親指を立てた。


 ついでに☆マークも飛ばす。


 「馬鹿にしてるでしょ、このぉぉぉ!!」






 その後、屈辱くつじょくから機嫌を悪くした千里は、八つ当たりのように凛月たちにキツい制裁を加え、桃源郷の代わりに地獄を見せたそうだが、それはまた別のお話。

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