1章7「その喜劇が悲劇と知れど」
繰り返される喜劇は、いつだって悲しい。
人は身に余る果実を望まない。
その味を、誰にも伝えられないから。
繰り返される悲劇は、いつだって心地良い。
人は不幸に心を撃たれて止まない。
その歓声が、ボクには聴こえるから。
「報告は以上です」
「…御苦労だった」
ここは地下都市、総帥室。
興津風蓮は結果報告のため、イグニスの下へ訪れていた。
イグニスは彼の報告を聞き終えると、机に手を組んだ姿勢のまま。
「…ときに、才波凛月の様子は?」
「予想以上です。早くも環境に慣れつつあり、戦闘面、人間関係ともに良好かと」
それは蓮にとって、嘘偽りない評価だった。
凛月は今まで陸上戦に乏しく、初任務であれなら何の文句もない。
「…そうか」
満足げな様子のイグニスに、彼は。
「つかぬことをお聞きしますが」
「…何だ」
「彼で一体、何をするおつもりで?」
「…と言うと?」
「いえ、彼を随分気にしておられるようですので」
彼のその問いは正鵠を射たものであり、イグニスは眉根を寄せざるを得ない。
万が一があると面倒だ、そう考える彼だったが、すぐにそれが杞憂であることに気づく。
蓮は――笑っていた。
彼の表情は雄弁に語っているのだ。
『面白そうだから、自分も混ぜろ』と。
そもそも、興津風蓮とはこういう男であることを、イグニスは知っていたはずだ。
「…いずれ話す。それまで、待っておけ」
「…了解しました」
それ以上の深入りはなく、彼は淡々と事務手続きを済ませ、総帥室を後にする。
残されたイグニスは、独り思考を巡らせ、ポツリと。
「――やはり、奴を見つけるしかないな」
翌日。
「ほらほら、いつまで寝てるつもり?心の乱れは生活習慣の乱れから!分かったら、とっとと起きなさい!」
「んあ…なんだぁ…?」
突然、アラームのように響く誰かの声。
それに安眠を妨げられた凛月は、ゴシゴシと目をこすって起き上がった。
現在時刻は夕方6時頃。
昼夜逆転の生活に馴染めていない彼は、ぼやけた視界で辺りを見回すと…ベットの正面には、仁王立ちしている軍服姿の千里。
…。
「え、ちょちょちょ!なんでお前が、俺の部屋に入って来てんの!?」
訳も分からず、布団を掴んだまま部屋の隅に後ずさると、彼女はやれやれと溜め息をつく。
「アンタねぇ…女子か」
「いや、女子か。じゃなくて!今の状況説明してくんない!?」
「何だかんだと言われてもねぇ…」
何だかんだと聞かれたら、答えてあげるが世の情け。
彼女はドアを指差すと。
「普通に、ドア壊してきただけよ」
「おかしいなぁ!俺の世界の『普通』では、他人の部屋のドアは壊さないんだけどなぁ!」
「私の世界の『普通』では、寝坊で遅刻なんてあり得ないけどね。昨日言ったこと、覚えてないの?」
「昨日?…あっ!」
そうだ、昨日の初任務の後。
彼は千里に、『今後の任務遂行にあたって、致命的な弱点がある』と指摘され、勤務開始前の合同トレーニングを義務づけられたのだった。
今日はその初日。
「今何時だ!?…おい、遅刻じゃねぇか!なんで教えてくれなかったんだ!?」
「やっと理解した?…はぁ、アンタ弱点だらけね。『子ども』に、『寝起き』も追加するつもり?」
呆れ顔で退出する千里。
部屋の中は嵐が去った後のように、ぐちゃぐちゃになっていた。
その10分後。
軍服に着替えた彼が寮門前へ向かうと、当然と言うか、既に千宮司隊が集合していた。
「あ、やっと来た!凛先輩、おっそーい!」
「悪い悪い。でも、まだ生活スタイルがだな…」
「言い訳ですねー」「言い訳だね」「言い訳していいわけ?」
「…」
四方八方から浴びせられる言葉に、彼は成す術もない。
なので、話題を変えることにした。
「…で?昨日言ってたあれは何だよ、『致命的な弱点が~』ってやつ」
「すぐに分かるわ…まずは、ランニングからね!ついてらっしゃい!」
そう言うな否や、急にピューッと走り出す千里。
「え?なに…」
立ち尽くす凛月に。
「ビリはアイス奢りですよー!」
聞き捨てならないことを言いながら走り出す楓、そしてシレっとスタートダッシュをかましている涼燕。
「はぁ、それはズルだぞズル!止まれや!」
釈然としない思いを抱えつつも、遅ればせながら、彼もアイスめがけて走り始めた。
しかし、数分後。
「ハァハァ…」
呼吸が続かない。
それもそのはず、陸を走り慣れていない彼は、フォームなど滅茶苦茶。
いくら体力があろうと、そんな状態ではたかが知れている。
「まさか…弱点って、これのことかよ?」
彼はそれを確かめるべく、手始めに、一番近い涼燕に声をかけようと…。
「ちょ、ちょっと…みんな…待って…」
――なんと彼は、凛月よりもヘロヘロになっている。
「お前も人のこと言えねぇだろ!」
「痛ぁ!ボク、なにか言ったっけぇ!?」
叩かれた頭を涙目で押さえる涼燕。
確かに、彼は何も言っていなかった気がしてきたが、そんなことは凛月には関係ない。
「お前、そんなんで今までよく生き残ってこれたな!?」
「だって、後衛には体力作りとか必要ないじゃんかぁ…!」
とはいえ仮にも軍人が、この体たらくでは職務怠慢だ。
「ちょっと男2人ー?遅いわね、やる気あんのー!?」
遠くから千里の声。
隣で恐らく、楓も何か言ってる。
「…聴こえねぇ。楓はなんて?」
「ボクにも聴こえないよ、遠いし」
「は?お前、なんのための個人色だよ?」
涼燕の【灰】の能力を使えば、距離が離れていようが聞き取ることなど造作もないはずだ。
しかし、彼は。
「人がたくさんいるところでは使いたくないんだ」
「はあ、なんで?」
「それは…」
彼の表情が暗くなる。
――そんなの決まってるじゃないか。
しかし、その言葉の続きは、ついぞ口から出ない。
「…なんでもいいじゃん。それより、ボクらはボクらのペースで走ろうね?千里ちゃんたちに感化されたらダメだよ。ボクらはさ、友達…だよね?」
「あぁ、そうだな」
彼の必死の懇願に、凛月はしっかりと頷くと。
「じゃ、お先!」
「ちょ、裏切り者!」
「うるせー!悔しかったら追いついてみろ!」
追い縋る彼を他所に、2人の距離はどんどん開いていく。
当然だ、『一緒に走ろう』と言われて、最後まで並走しているやつらなど見たことがない。
やがて、角を曲がり、彼の姿が見えなくなったところで。
「…はぁ、もういいや」
涼燕は動きを止めた。
その表情は、諦観。
――なぜ個人色を使わないのか、そんなの決まってるじゃないか。
――人が織りなす罵詈雑言の海に、浸っていたくないからだ。
比々谷涼燕は孤児だった。
生まれた時から親の顔を知らず、スラムで野生動物同然の生活をし、10歳の時に孤児院に拾われた。
極めつけに【灰】の個人色。
その不憫さ、奇異さから、周囲の人間が彼に向けてきた視線は冷たい。
憐れみや軽蔑、そして嫌悪の数々。
自分以外の何者かに降り注ぐ悲劇、それは彼らにとって最高のエンターテイメントだ。
彼らが陰口として簡単に口に出し、消費するそれらの言葉が、彼には全て聴こえる。
「…いくら頑張ったって、変わろうとしたって、意味なんてないんだよ」
彼の呟きは、もう誰の耳にも届くことはない。
そこからはもう、よく覚えていない。
彼らを追うのはもうやめだ。
サボったことがバレたら怒られるだろうが、最下位の時点でどのみち同じ。
そう自分を正当化し、行く宛てもなく彷徨っていると…。
「お前…もしかして、涼燕?」
背後からの呼び声。
振り返るとそこには、明らかにガラの悪い数人の男性グループ。
涼燕は彼らに見覚えがある。
「あ…久しぶり」
「おー!最近見ないと思ったら、どしたん?」
リーダー格の男は、馴れ馴れしく涼燕の肩に腕を回す。
彼は逃げるように身をよじった。
「まあ、色々あってね…」
「その服、まさか…従軍?」
「…まあ、ね」
「嘘だろマジかよ!おい、聞いたかお前ら?」
男たちのせせら笑いが聞こえる。
「なあ、涼燕。今からでも遅くない、従軍なんてやめとけ。ヤツら、俺たちスラム出身のカスに、今まで一度だって手を差し伸べたことがあったかよ?」
そう、彼らは涼燕と同じ出自を持っている。
身寄りもなく、盗みを繰り返して生き延びてきた、何者にもなれない者たち。
「お前はいいさ、個人色があるからな。でもな、お前がスラムの野良犬であるという事実は変わらねぇよ。ヤツらはきっと、お前を使い捨てる」
「そう…かな」
「そうさ、根っこが同じだからな。俺たちは誰にも必要とされねぇ。お前だって、同じだ」
「…」
「『友達』じゃねぇか、俺たち。帰って来いよ、また俺たちと面白おかしく暮らそうぜ。お前のその個人色があれば、これまで通り…いや、もっといい生活が送れるはずだ」
「それはもう、嫌なんだ。ボクは個人色を、犯罪の道具にはしたくない」
途端に男の声が低くなる。
「…は?お前もしかして、そんなことが理由で、出て行ったとか言わないよな?俺たちは犯罪でもしないと生きていけなかった。だからそうした…違うか?それが今さら、何だよ?それにお前、罪って言った?従軍して、それがチャラになんの?罪は消えねぇよ、昔のお前と今のお前、何も変わっちゃいないさ」
彼の言うことは正しい。
分かっている、そんなことは。
だが、それでも――。
「ボクは…!」
彼が必死に、言葉を紡ごうとしたその時。
まるで、青空に轟く雷鳴のように。
「涼!やっと見つけたぁぁぁぁぁぁ!!!」
――才波凛月が、彼らの目の前に現れた。
「り、凛ちゃん!?」
「…誰?涼燕、お前の知り合い?」
男の不機嫌そうな唸り声。
睨みつけるその視線の先で、凛月は一言。
「誰って…『友達』」
あっけらかんとそう言った。
「…ハァ?」
「だよな、涼?」
彼の目は、真っ直ぐに涼燕を見つめている。
「え、うん…」
その回答に満足したように頷くと、彼は。
「で、お前らは何?涼の『友達』?」
「…そうだよ。なあ、涼燕?」
「それは…」
なぜだろう、言葉の先が続かない。
男はそれに苛ついたように。
「…涼燕、お前」
「なんだ、違うのかよ。じゃあ涼、早く行こうぜ」
「ハァ?まだ話は終わって…」
「うるせぇ」
彼はそう言って笑う。
「涼!まだ競走終わってねぇからな!…走れ!」
その言葉に、彼は。
「…うん!」
振り返らずに走り出す。
彼にはもう、背後の罵声は聴こえなかった。
「凛ちゃん」
「…なに?」
「もしかして、話…聞いてた?」
「まあ、ちょっとな」
「そのこと、なんだけどさ…」
口ごもる彼を、凛月はそっと手で制する。
「言いたくないなら、無理に言わなくていい。俺も、お前に言ってないこと、たくさんあるしな」
「…そっか」
「でも、これだけは言っとく。…お前の個人色はきっと、人を助けるために与えられた力だ。誰が何と言おうが、昔がどうだろうが、変わろうと思えば…変われる」
「ありがとう」
「というわけで早速、力を貸してくれ」
「――え?」
戸惑う涼燕を尻目に、凛月は。
「すいませーん、連れてきましたー!」
そう言って彼が手を振る先には、何か困り果てた様子の女性の姿。
「この人は…?」
「お子さんとはぐれちゃったんだってさ。お前なら、見つけられるよな?」
彼はそう言って、人差し指で自分の耳をトントンする。
どうやら、個人色を使えということらしい。
「なるほどね…」
涼燕はやれやれと首を横に振ると、目を瞑る。
そして静かに――【灰】の能力を発動した。
探索対象は『母親を呼ぶ子ども』。
声や動作から、合致する子どもを探し当てることは、彼にとって造作のないことだ。
――見つけた。
それに、これは。
再び顔を上げた彼は…苦笑していた。
「…どうした?」
「いやぁ、似た者同士だなぁって思って」
そう言って彼は、人差し指を凛月の後方へ。
その先には。
――泣いている女の子の手を引く、千里と楓の姿があった。
繰り返される喜劇は、いつだって悲しい。
だが、その喜劇を悲劇と知れど、人はきっと、歩まずにはいられないのだ。
誰に笑われようと、誰に哀れまれようと。
変わりたいと願っているなら。