番外編5「春霞」
春眠、霞み棚引く月光の礼讃を覚えず。
処々に聞く啼泣は、降り頻る理不尽の頂礼を告げ。
今日もまた、穢れを知らぬ無秩序だけが、あたしを彩る。
臍の緒の一糸すら纏うことを許されなかった、あたしが唯一持っていたものは、剥き出しの生存本能。
魑魅魍魎を踏み荒らし、骨と血肉で編んだ揺り籠で、ただ明日を求めていたあたしに。
――未来をくれたのは、あなた。
「おーい、イグニス!」
6年前のある日。
25歳という若さで、異例の躍進を続ける男――イグニス=フォード・ハンニバル中将は、いつもどおり任務を終えて総帥室を後にする最中、そんな声をかけられて立ち止まった。
異分子である彼に、気軽に話しかけられる軍部の者など、数えるほどしか存在しない。
彼はその貴重な一人だ。
「…暮人か」
イグニスが振り返ると、彼――葉崎暮人中将は、快活な笑みを浮かべて大手を振った。
「ああ、俺だとも!こんなところで奇遇だなぁ!」
「…そうか?」
「そうだとも!ところで、面白い話を小耳に挟んだんだが…」
――なにが奇遇だ。
イグニスは、彼が始めから、その話題を振りたくてわざわざ声をかけていたことに気づいたが、彼がイグニスに気づかれることを織り込み済みで、そんな軽口を叩いたことも同時に理解していた。
彼は元々、そういう男だ。
「お前、先日の出撃で、謎の女の子を保護したんだって?」
「…ああ。情報が早いな」
「天網恢々、疎にして漏らさずってやつだ。そんなことより、どういうことだ?俺たち以外にも、何かしらの手段で生き延びた奴らがいるってことか?」
およそ100年前に起きた『纏空封壊』により、地上の人類はほとんど死滅したと言われている。
つまり、彼の言う『謎の女の子』が地下都市以外で生まれた者だと言うのなら、それは地上に我々以外の人類が、全く別のコミュニティを形成していることになる。
しかし、対するイグニスの反応はそっけない。
「…いや、恐らく違う。現に俺が発見したとき、奴は一人で何匹もの化け物を狩り、その肉を喰らっていた」
「へぇ、野生児だな。そいつは今、どこに?」
「…研究室傘下の保護施設を、丸ごと一つ借り受け、そこに収容した」
「つまるところは、実験動物かよ」
退屈そうに目を細める暮人に、イグニスは。
「…いや」
「?」
彼は暮人の目を真っ直ぐに見据え、次の瞬間、とても正気とは思えない言葉を放った。
「…育てる」
「はぁ!?」
暮人の肩が大きく跳ねる。
「育てるってお前…育児経験は?」
「…あると思うか?」
「そうだよな。じゃあ、なんだってそんな…」
その問いに対する、イグニスの回答は単純明快だった。
「…奴は、世界を変える力を秘めている。ありきたりな言葉だが、俺はそう思った」
「お前がそこまで言うか。なるほど…こりゃあ面白くなりそうだ」
暮人は顎髭を撫でながら、興味深げな笑みを浮かべ。
「俺も一枚噛ませろよ。相談してくれりゃ、力になってやる」
「…助かる」
彼らはそんな口約束を交わし合い、その場を後にした。
東区、保護施設。
イグニスがそこに立ち入ると、研究室局員の慌ただしい潮流が目に入った。
「ハンニバル中将!」
「…ご苦労、経過は?」
「はっ。収容から暫くの間、昏睡状態が続いておりましたが、21分前に覚醒。暴走を開始。現在、数名がかりで鎮圧作業にあたっています」
そう言って局員が示すのは、背後に聳え立つ、分厚いガラス張りの隔離室。
ガラスの向こうには、個人色を纏う複数の局員に相対する、10代前半と思しき少女の姿が映る。
肩まで無造作に伸びた黒髪に、大きな虹色の瞳。
それは光の加減によって赤や緑、果ては紫まで変化している。
顔はかわいらしい造形をしているものの、眼光はまるで捕食動物のように鋭い。
「…いかにも野生児らしいな。言語は?」
「簡単な単語レベルであれば。知力測定によると3歳児程度と出ています」
「…なるほど。抗体検査は?」
「今のところ、オールクリア。雑草の容れ物である可能性は限りなく低いと言えます」
「…分かった。開けてくれ、入る」
そう言って隔離室の扉へ向かうイグニスに、局員は慌てて駆け寄ると。
「お待ちください、まだ鎮圧作業は…!」
「…構わない。万一俺に何かあれば、空間を閉じる。それで問題ないだろう」
「ですが、それは…中将!」
局員の静止を振り切り、イグニスは単身で隔離室の中へ足を踏み入れる。
音を察知し、振り向く少女。
局員たちの間から覗く鋭い眼光は、草陰から獲物を吟味する獅子を思わせる。
「中将!?」
「…ご苦労。退がっていい」
突然の登場に驚く局員たちを手で制し、彼はゆっくりと前へ。
少女はその間、様子を窺うようにピクリとも動かず、彼を一心に見つめている。
やがて、あと数歩というところまで近づいた彼は立ち止まると。
「…昨日ぶりだな、俺のことが分かるか?」
「あー?」
少女は首を捻る。
やはり、言葉が通じているようには見えない。
また、瞳からは何の感情も読み取れない。
だが、それは真っ直ぐに彼を捉えて離さない。
「…怖がらなくていい。俺はお前の敵じゃない」
「中将…」
訥々と語りかける彼の後ろから、局員のうち1名が小さな声を漏らす。
そして、踏み出した一歩。
――次の瞬間、少女が一気に動き出す。
突如として、イグニスの視界から消える少女。
遅れて横を通過する突風。
――疾いな。
振り返った彼の視界に入ったのは、倒れこむ局員と、その右腕に齧りつく少女の後ろ姿。
狙いは腕ではなく、腕輪に嵌められた水晶。
それを噛みちぎった彼女の口から、割れた水晶の破片が絢爛に溢れた。
水晶の硬度は、人間の顎如きで砕けるような代物ではない。
怯える局員の腹を踏みつけ、イグニスの方へ振り返った少女の上臼歯と下臼歯の間には、その破片の一部が固定されていた。
破片は透き通っていたかと思うと――次の瞬間、【紫】色の輝きを放つ。
水晶が個人色の発現に必要であることを、彼女は分かっていたのだろうか。
もし分かっていないとすれば、それは。
「…本能か」
イグニスは薄く笑うと、ポケットから右手を抜いた。
腕輪は【濡羽】色の輝きを放ち、彼の足下から全方位に対し、地に広がる水滴のように影が伸びる。
相対する少女から放たれるのは、紫色の霧。
それは個人色が持つ『幻覚』能力発動のための下準備だ。
しかしその霧は、イグニスが放った影に吸い込まれて消えてしまう。
これにより、【紫】の個人色は意味をなさない。
彼がそう結論づけようとした、目の前で。
――少女の個人色が【濡羽】色に変わる。
「…なんだと?」
驚く彼の目の前で、少女の足下から出現した影は、彼が放った影と打ち消し合い、後には何も残らない。
その光景は、まるで。
「…個人色の模倣、そんなことが、可能なのか?」
個人色とは、人間の個性そのものであり、それが変わるということは、本人でなくなることと同義だ。
それをいとも容易くやってのける少女は。
「…まさしく『無秩序』と云うわけか…面白い」
いつしか【赤みの橙】に変わった個人色とともに、イグニス目がけて一直線に飛びかかる少女。
今にも喉元を喰いちぎらんと口を大きく開く彼女に。
彼は真っ直ぐに右手を差し出すと――彼女の額に手の平を当てて動きを止めた。
その対応に不意を突かれ、身を硬くする彼女に対し、彼はゆっくりと、優しく頭を撫でる。
「…落ち着け。先ほども言ったが、俺はお前の敵じゃない」
彼はそう言って、証拠を示すように【濡羽】の個人色を解いてみせる。
掻き消える影。
その中心で、互いの目を真っ直ぐ見据える2人。
「中将…!」
「…何度も言わせるな。もう退がっていい。こいつの面倒は俺が見る」
「はい…」
観念したように後ずさる局員たち。
彼らの見つめる先で、イグニスに撫でられたままの少女は、やがて無垢な笑みを見せた。
それから彼らは、共に時間を過ごすようになった。
不本意ながら隔離解除の申請は通らず、ガラスの外へ連れ出すことは叶わなかったが。
代わりに、仕事の合間を縫って、絵本や遊具を届ける生活が続いた。
教養がないながらも、彼女の脳は10代前後の少女そのもの。
情報を吸収していった彼女は、徐々に人並みの感性や言葉を身につけていき。
――彼の手には余るようになっていった。
「なるほど、それで俺を呼んだわけか」
彼らの邂逅から2ヶ月が経ったある日のこと。
いつも目元につけたクマを、一層深めたイグニスに声をかけられた暮人は、会議室の机に大柄な態度で腰掛けながら、呆れたような声を漏らした。
「…忙しいところ、済まないな」
「一枚噛むって言ったしな、気にすんな。それより、どうした?あいつに何か、異変でもあったのか?」
「…成長は順調、いや、想像以上だ。この様子なら、あと1年もすれば普通の生活を送れるようになるだろう」
「じゃあ万々歳じゃねぇか。何をそんなに、心配することがあんだよ」
「…実は」
歯切り悪く、おずおずと耳打ちをするイグニス。
その内容を聞いた暮人は…。
「ハッハッハ!『女の子らしさに悩んでる』だぁ!?」
爆笑する暮人を、イグニスは睨みつけると。
「…真面目な話だ。奴は恐らく、俺を見て育っている。だが俺を見たとて、学べるのは所詮、つまらない知性だけだ。女性としての品性を会得するためには、男の俺では限界がある」
女性だからどう在れ、という強制は彼の望むところではないが、男と女では生き方が大きく違うというのは純然たる事実だ。
その事実を盲目的に無視し、常に同一化を図ろうとすることこそが全くの無益。
少なくとも、化粧や衣服などに拘りを持つのは、相対的に女性の方が多いことは確かだ。
最終的に何に興味を持つかは彼女自身が選択することであり、その選択に正解も不正解もないが、初めから選択肢を狭めさせるというのは論理に反している。
だが無骨な彼に、全ての選択肢を示してあげることは、とてもじゃないが叶わない。
「俺が笑ったのは、万年人間らしさとは無縁だったお前が、今や一児のパパとして思い悩んでる姿が面白かったからだよ。お前の悩みはちゃんと理解したぜ…だが」
「…なんだ?」
暮人は笑いを引っ込め、真剣な眼差しでイグニスを見据えると。
「お前、あいつをどうする気だ?街に暮らす普通の女の子、或いは軍事力の一部。前者はともかく、後者に女らしさは要らないぜ」
「…非人道的だな」
「人道で全てが罷り通るなら、俺だってそうするさ。それはお前も分かってるだろ?聞いたぜ、『【虹】の構造色』。それが本当なら軍事力として、他の奴が見逃すはずはねぇ」
暮人の指摘が正しいことは、彼もよく分かっている。
彼女を地下都市へ連れ帰ったとき、彼の脳裏に、彼女を『軍事力』として見る気持ちが、全くなかったかと言われれば嘘になる。
だが本当は、もっと単純で、非合理を欠いた感情に突き動かされたからだ。
――雨に震える彼女を、放ってはおけなかったから。
「…済まんな。俺はそれに対する答えを、卑怯にも持たない。ただ、彼女が平穏を望むなら、どんな特別な存在だろうと、俺が普通の生活を与える。彼女が闘争を望むなら、俺が戦い方を教える。今は、そう考えている」
いつも理詰めの彼に珍しい、論理性を欠いた言葉。
それを聞いた暮人は、ニヤリと大きく笑う。
「いいや。卑怯や非論理、感情論、人間らしくて素敵じゃねぇか。お前の気持ちはよく分かった。だったら次は俺の番。望み通り、最高の人事をかましてやろうじゃねぇか!」
彼は面白くて仕方がないと言ったように目を輝かせ、勢いよく立ち上がった。
次の日。
「えぇ〜?ちょっと、ナニコレ…」
イグニスと連れ立って保護施設にやってきたのは、暮人が選抜した一人の少女。
快活な桃色の髪に、長いまつ毛と桃色の瞳。
どう見ても軍法に抵触している短いスカート、そこから覗くピチピチの柔肌と、スラリと伸びた長い脚。
名はローズマリン・ブロード・アガレス。
武勲が認められ、今年から中佐の地位を会得した彼女の18の春には、早速暗雲が立ち込めていた。
「…寧ろそれは、俺が聞きたい。暮人から、何を聞いた?」
「『昇進間違いなしの大仕事を言い渡ーす!』とだけ。これナニ?まさか仕事って、このコのお守り?」
「…概ね正解だ。人間としての知性や品性の欠落した彼女に、人間らしさを教えて欲しいという依頼だったが」
「それでアタシ!?ナニ考えてんの、あのヤニカス無精ヒゲダルマ!?どう考えても、アタシだけはナイっしょ!」
――…自覚はあるのか。
憤慨する彼女を横目に、イグニスは小さく溜め息をつくと。
「…忙しいところ、悪かったな。業務に戻ってくれ。暮人には、俺から伝えておく」
「あのバカヒゲに振り回されて、中将も大変ですねー。それじゃあ申し訳ないけど、アタシはこれで…ハァー。ナニが『昇進間違いなし』よ、口を開けばデタラメばっか」
ヒラヒラと片手を振り、その場を後にしようとするアガレス。
それを遮るでもなく見つめたイグニスが、ポツリと。
「…まあ、昇進というのは嘘ではないな」
次の瞬間――アガレスの動きが止まった。
「今…なんて?」
錆びついた金属のようにギリギリと振り返る彼女に驚いたイグニスは。
「…こう見えて俺は、かなり思い悩んでいる。それを解消してくれるというなら、それなりの礼は約束するつもりだったが…それがどうかしたか?」
「それを早く言ってくださいよ〜!」
刹那、今までのやり取りが全て嘘だったかのように、満面の笑みを浮かべたアガレスが駆け寄り、イグニスの手を取った。
「…この役目には不適だと、先刻、自分で言っていなかったか?」
「やだなぁ、もぉ〜。そんなワケないじゃないですかぁ〜!言葉のアヤですよ、ア・ヤ。アタシの母性にかかりゃ、子どもなんてイチコロですよ〜!」
アガレスはそのままルンルンと、隔離室の扉を開け、仰向けで絵本を読んでいる少女の下へ。
彼女はアガレスの接近に気づき、本を閉じて上半身を起こす。
静寂。
感情の読み取れない彼女に対し、アガレスは陽気に片手を上げると。
「よっ!アタシはアガレス!これからアンタに、オンナのイロハを教えたげる!」
「イロハ…ニホヘト!」
少女は元気よく反応し、真似して片手を上げた。
「そう、よく知ってるじゃない!なんだっけそれ…『若さよ全て、常ならむ』的なヤツ!その通りよ、偉い偉い!」
馴れ馴れしく横に座ったアガレスは、少女の頭を撫でようと手を伸ばす。
すると…少女はその指を、パクリ。
「痛ったァァァァァッ!!!」
アガレスの悲鳴が、隔離室いっぱいにこだました。
――…あいつは一体、何をやっている?
呆れつつイグニスも部屋の中へ踏み入ると、アガレスと少女が揉み合っている姿が目に入った。
「こんのクソガキ!下手に出てりゃ、イイ気になりやがって!」
「キャハハ!クソガキ、クソガキ!」
「ちょっ!スカートの中に頭入れんなスケベ!このッ…!」
「いい匂い…痛い痛い痛い!」
「ハッ!かかったわね!アタシの豊満な御御足に釣られたスケベを絞め落とす!その名も『破滅へ誘う蟲惑の坩堝』!誰にケンカ売ったか、その身に擂り込んであげるわ…!」
「…お前ら、何をやっている」
「あ、中将!」
そこで漸く彼の接近に気づいたアガレスが、少女の頭を抑える太ももをパッと開く。
その隙にスカートの中から這い出た少女は、彼の姿を見つけて目を輝かせ。
「イグニス!イグニス!」
子犬のようにじゃれつく彼女をいなす彼を見て、立ち上がったアガレスはやれやれと首を横に振ると。
「随分懐かれてますねぇ。これアタシ、要りますー?」
「…説明した通り、俺がこいつに教えられる事など、たかが知れている。済まないが、手を貸してくれると助かる」
殊勝に頭を下げる彼の胸の中で、少女はアガレスの方を指差すと。
「コイツ、バカだからイヤ」
「お姉さん聞こえなかったな〜、もう一回言ってくれる〜?」
「ゴリラの力、痛い!」
「ゴリラじゃないわよ〜『お姉さん』。ホラ、言ってごらん」
「ニシロー・ランド・ゴリラ!」
「ローズマリン・ブロード・アガレス!」
少女の頭をまるでバスケットボールのように片手で鷲掴みにし、力を込めるアガレスと、涙を浮かべる少女。
しかし不意に、何かを思いついたアガレスの握力が弱まる。
「あれ、そういえば…このコ、名前なんて言うんですか?」
その問いに、固まるイグニス。
「…そういえば、まだ決めていなかったな」
「は?ウッソでしょ!?もう2ヶ月も経つのに!?」
言われて気がついたが、彼は少女の名を読んでいなかった。
今までこの部屋の中に、2人でしかいたことがなく、識別という意味での名が不要だったから。
しかし、これから増えるであろう交友関係を考慮すると、彼女の名前は必須と言えるだろう。
「名前…あたし、アオムシ!」
「それ、アンタがさっき読んでた本でしょ。しかもそれ、名前じゃないし」
「イチイチうるさいなぁ、アオムシ」
「は?」
「アガレス」
「あっ、名前呼んでくれた♡…って、誤魔化そうとしたってムダよ!」
「…そうだな」
耳元で展開される姦しいやり取りを無視しながら、独り熟考していた彼は、やがて顔を上げると。
「『空海』。空と海と書いて、『空海』」
「え?何でそんな名前…てか、女の子につける名前じゃ…」
ケチをつけようとするアガレスを遮って、少女は嬉しそうに笑みを浮かべると。
「クウカイ!クウカイ!」
「え、まさか気に入った?どんな感性してんのアンタ」
「…決まりだな。名の意味は当然あるが…そうだな」
彼はもう一度、少女――空海の頭を撫でると、薄く微笑んだ。
「…お前がもう少し大きく、その名の通りの立派な人間に育ったら、その時に教えよう」
あの日の口約束を、今日に至るまで、彼女は一度たりとも忘れることはなかった。
それから4年。
理不尽と無秩序以外、何も持たなかった少女が、確かな知性と品格を会得するには十分な期間。
――しかし人とは、思いの外、予測通りにはいかないものだ。
「ゴラァァァ、空海!またアンタ、勝手に先行したでしょ!アブないでしょうが!一言言ってから出なさいって、何度言ったら分かるワケ!?」
「だって、だって〜!」
「だってもヘチマもない!」
「痛い痛い痛い!せめて言い訳させてちょ!理不尽ゴリラの鉄槌、五臓六腑に染みすぎィー!」
総帥室、イグニスの前でいつまでも揉めている2人。
仲が良いのは結構なことだが、この4年で空海に確かな品性は身についただろうか?
――…人選ミスだったかもしれんな。
彼は今更ながらにそんなことを思ったが、時すでにお寿司。
やがて、彼女たちの不毛な争いは、アガレスの頭突きにより終焉を告げる。
タンコブを両手で押さえながら地面に這い蹲る空海をよそに、アガレスは淡々と任務報告を消化すると。
「ほら、もう行くわよ空海!アタシ、お腹すいた〜!」
「おけおけ。どこ行くん?あたし、肉喰いたーい!」
「アンタ毎日飽きないワケぇ?アタシはフツーに、ピザとか食べたーい」
「発想、デブじゃん!今ドキ流行んないよ、ピザデブ!」
「誰がピザデブだ!ピザは野菜乗ってるからヘルシーでしょうが!デブ要素、なし!」
「やだやだやだ!肉食べる――――!!!」
そのまま、総帥室の床で地団駄を踏む空海。
しかしアガレスは、そんな使い古された常套手段に動じない。
「一生そうしてれば?もう知らん、置いてくから。じゃ、あとは総帥、ヨロシク〜」
そう言って彼女は、ヒラヒラと手を振りながら、無慈悲にもその場を後にする。
置いてけぼりにされた空海は、死にかけのカメムシのように仰向けでジッとした後。
「イグニス」
「…なんだ」
最早日常茶飯事となった彼女たちのやり取りを静観しながら、書類を消化していた彼が、呼び声に応じて顔を上げる。
「今のあたし見て、なんか言うことない?」
「…ないな。早く行け」
「冷たいなー、ドイツもこいつもラ・フランスもー!」
彼女は、背のしなりだけで身体を跳ね上げて着地すると、彼の机にガンと両肘を置く。
「そいやさー、あのハナシどうなったー?」
「…なんのことだ?」
「忘れたん?ほら、あたし、空海!」
「…知っているが」
「なんであたし、空海なん?」
その言葉に、イグニスのペンを持つ腕が動きを止める。
「…急に、なんだ」
「イグニス、言ったじゃん。名前の意味、そのうち教えてくれるって。そろそろ教えてくれてもよくなーい?」
「…こうも言ったはずだ。『立派な人間に育ったら』と。床で地団駄を踏むのは、立派な人間のすることか?」
「まあまあ、細かいコトはいいから」
「…」
一度こうなった空海を止めるのは難しい。
というより、面倒臭い。
溜め息をつきながら、イグニスはペンを置くと。
「…空海。今の我々に足りないものが、何だか分かるか?」
唐突なその問いに、彼女は首を傾げる。
「なんだろ。ビタミンCとか?あたし、レモン食べたい!」
「…食べ物から離れろ。だが、当たらずも遠からずだ。ではなぜ我々は、レモンが食べられない?」
「そりゃ、地下都市じゃ作れないからっしょー?チチューカイとか行けば腹いっぱい喰えるよ!」
「…そうだな。海を越えれば新たなもの、人に出逢うことができるだろう。それは我々の住む世界に新たな変革をもたらし、彩りを与えるはずだ」
「そうかなー」
「…我々の領地は陸。それも地下で、太陽に怯える日々を過ごすだけ。この世界にあるのは陸と海と空。我々はそのほんの一部で足掻き、いつ塵に帰してもおかしくない、そんな儚い存在でしかない」
「陸…海…空…」
「そうだ。陸に住む我々が、次に希望を見い出すべき場所は海と空。…分かるか、空海?」
空海、それは今の彼らの世界に足りないもの。
彼女はきっと、足りないものを埋める希望の存在になる。
いや、そうなって欲しい。
それこそが、イグニスが空海の名に込めた想い。
「…お前はそのままでいい。お前の存在はこの世界をきっと変える。少なくとも、俺はそう信じている」
「イグニス…」
「…分かったら、もう行け」
気恥ずかしさからか、彼の言葉は素っ気ない。
しかし空海は、その場をピクリとも動かず、ゆっくりと口を開く。
「イグニス。あたし…さ…」
唇を震わせ、言葉に詰まりながらも、必死で何かを伝えようとする彼女の声は。
次の瞬間――扉を開く大きな音で掻き消される。
「ゴラァァァ、空海!アンタ、アタシをいつまで待たせんのよ――!」
「ぎょえー、アガレス!?」
飛び上がりながら振り返る空海の前に現れたのは、顔を羞恥心で蒸気させたアガレスの姿。
「なんで追っかけてこないの!これじゃ、チラチラ後ろ見ながら廊下歩いてたアタシがバカみたいじゃない!」
「もー!今あたし、ちょっとイイコト言うところだったんだぞー!」
「知らん!とにかくアタシは腹ペコなの!早く来なさい!行くんでしょ、肉!」
「へいへーい…」
これ以上彼女を待たせることはできないと判断した空海は、渋々総帥室を後にする。
そして、扉に手をかけた、そのとき。
「…やっぱ言っとくわ」
「「…?」」
頭に疑問符を浮かべるイグニスとアガレスを他所に、彼女は大きく息を吸い込むと。
「あたし!!!みんなと出逢えてよかった――――!!!」
壁を劈く爆音。
驚きのあまり何も言えない2人を気にする様子もなく、空海は両手を大きく広げて駆け出す。
「うおおおおお!肉たくさん喰うぞ――――!!!」
急速に離れていく背中。
それを暫く見送っていたアガレスは、やがて思い出したように。
「あ…ちょっと、空海!アンタ店の場所知らないでしょ!」
そう言って駆け出していく。
取り残されたイグニスは、フッと頬を緩めてペンを握り直すと。
「…ああ、俺もだ」
その呟きは、きっと誰にも聞こえないだろう。
夜来、風切る残響は、巡り逢う星々を引き裂くこと能わず。
花落つる粗目の大地にも、やがて一対の紺碧と蒼穹を夢視る若葉が萌ゆる。
求めたものは、合理と秩序の犇めく楽園。
手にしたものの一切が、砂塵のように指の隙間を溢れ落ち、最後に残った一握は、俺を象る全てだった。
不合理を斬り捨てた果ての明日に、どんな孤独が待ち受けていようとも。
――未来を掴んだお前はきっと、孤独すら奪って行くのだろう。