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アクアテラリウム  作者: 真島 悠久
5章 『Blooming like Tatarian Aster』
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番外編5「春霞」

 春眠しゅんみんかす棚引たなびく月光の礼讃らいさんを覚えず。


 処々(しょしょ)に聞く啼泣ていきゅうは、降りしき理不尽りふじん頂礼ちょうらいを告げ。


 今日もまた、けがれを知らぬ無秩序むちつじょだけが、あたしをいろどる。


 へそ一糸いっしすらまとうことを許されなかった、あたしが唯一ゆいいつ持っていたものは、き出しの生存本能。


 魑魅ちみ魍魎もうりょうを踏み荒らし、骨と血肉で編んだかごで、ただ明日を求めていたあたしに。


 ――未来をくれたのは、あなた。






 「おーい、イグニス!」


 6年前のある日。


 25歳という若さで、異例の躍進やくしんを続ける男――イグニス=フォード・ハンニバル中将は、いつもどおり任務を終えて総帥室を後にする最中さなか、そんな声をかけられて立ち止まった。


 異分子である彼に、気軽に話しかけられる軍部の者など、数えるほどしか存在しない。


 彼はその貴重な一人だ。


 「…暮人くれひとか」


 イグニスが振り返ると、彼――葉崎はざき暮人くれひと中将は、快活な笑みを浮かべて大手を振った。


 「ああ、俺だとも!こんなところで奇遇だなぁ!」


 「…そうか?」


 「そうだとも!ところで、面白い話を小耳に挟んだんだが…」


 ――なにが奇遇だ。


 イグニスは、彼が始めから、その話題を振りたくてわざわざ声をかけていたことに気づいたが、彼がイグニスに気づかれることをり込み済みで、そんな軽口を叩いたことも同時に理解していた。


 彼は元々、そういう男だ。


 「お前、先日の出撃で、謎の女の子を保護したんだって?」


 「…ああ。情報が早いな」


 「天網恢々(てんもうかいかい)にして漏らさずってやつだ。そんなことより、どういうことだ?俺たち以外にも、何かしらの手段で生き延びた奴らがいるってことか?」


 およそ100年前に起きた『纏空てんくう封壊ほうかい』により、地上の人類はほとんど死滅したと言われている。


 つまり、彼の言う『謎の女の子』が地下都市以外で生まれた者だと言うのなら、それは地上に我々以外の人類が、全く別のコミュニティを形成していることになる。


 しかし、対するイグニスの反応はそっけない。


 「…いや、恐らく違う。現に俺が発見したとき、奴は一人で何匹もの化け物を狩り、その肉を喰らっていた」


 「へぇ、野生児だな。そいつは今、どこに?」


 「…研究室ラボ傘下さんかの保護施設を、丸ごと一つ借り受け、そこに収容した」


 「つまるところは、実験動物モルモットかよ」


 退屈そうに目を細める暮人に、イグニスは。


 「…いや」


 「?」


 彼は暮人の目を真っ直ぐに見据え、次の瞬間、とても正気とは思えない言葉を放った。


 「…育てる」


 「はぁ!?」


 暮人の肩が大きく跳ねる。


 「育てるってお前…育児経験は?」


 「…あると思うか?」


 「そうだよな。じゃあ、なんだってそんな…」


 その問いに対する、イグニスの回答は単純明快だった。


 「…奴は、世界を変える力を秘めている。ありきたりな言葉だが、俺はそう思った」


 「お前がそこまで言うか。なるほど…こりゃあ面白くなりそうだ」


 暮人は顎髭あごひげでながら、興味深げな笑みを浮かべ。


 「俺も一枚噛ませろよ。相談してくれりゃ、力になってやる」


 「…助かる」


 彼らはそんな口約束を交わし合い、その場を後にした。






 東区、保護施設。


 イグニスがそこに立ち入ると、研究室ラボ局員の慌ただしい潮流ちょうりゅうが目に入った。


 「ハンニバル中将!」


 「…ご苦労、経過は?」


 「はっ。収容からしばらくの間、昏睡こんすい状態が続いておりましたが、21分前に覚醒かくせい。暴走を開始。現在、数名がかりで鎮圧ちんあつ作業にあたっています」


 そう言って局員が示すのは、背後にそびえ立つ、分厚いガラス張りの隔離かくり室。


 ガラスの向こうには、個人色カラーまとう複数の局員に相対する、10代前半とおぼしき少女の姿が映る。


 肩まで無造作に伸びた黒髪に、大きな虹色の瞳。


 それは光の加減によって赤や緑、果ては紫まで変化している。


 顔はかわいらしい造形をしているものの、眼光はまるで捕食動物のように鋭い。


 「…いかにも野生児らしいな。言語は?」


 「簡単な単語レベルであれば。知力測定によると3歳児程度と出ています」


 「…なるほど。抗体検査は?」


 「今のところ、オールクリア。雑草ウィードれ物である可能性は限りなく低いと言えます」


 「…分かった。開けてくれ、入る」


 そう言って隔離室の扉へ向かうイグニスに、局員は慌てて駆け寄ると。


 「お待ちください、まだ鎮圧作業は…!」


 「…構わない。万一俺に何かあれば、空間を()()()。それで問題ないだろう」


 「ですが、それは…中将!」


 局員の静止を振り切り、イグニスは単身で隔離室の中へ足を踏み入れる。


 音を察知し、振り向く少女。


 局員たちの間から覗く鋭い眼光は、草陰から獲物を吟味ぎんみする獅子ししを思わせる。


 「中将!?」


 「…ご苦労。退がっていい」


 突然の登場に驚く局員たちを手で制し、彼はゆっくりと前へ。


 少女はその間、様子をうかがうようにピクリとも動かず、彼を一心に見つめている。


 やがて、あと数歩というところまで近づいた彼は立ち止まると。


 「…昨日さくじつぶりだな、俺のことが分かるか?」


 「あー?」


 少女は首をひねる。


 やはり、言葉が通じているようには見えない。


 また、瞳からは何の感情も読み取れない。


 だが、それは真っ直ぐに彼を捉えて離さない。


 「…怖がらなくていい。俺はお前の敵じゃない」


 「中将…」


 訥々(とつとつ)と語りかける彼の後ろから、局員のうち1名が小さな声を漏らす。


 そして、踏み出した一歩。


 ――次の瞬間、少女が一気に動き出す。


 突如として、イグニスの視界から消える少女。


 遅れて横を通過する突風。


 ――はやいな。


 振り返った彼の視界に入ったのは、倒れこむ局員と、その右腕にかじりつく少女の後ろ姿。


 狙いは腕ではなく、腕輪にめられた水晶。


 それを噛みちぎった彼女の口から、割れた水晶の破片が絢爛けんらんこぼれた。


 水晶の硬度は、人間のあご如きで砕けるような代物しろものではない。


 怯える局員の腹を踏みつけ、イグニスの方へ振り返った少女の上臼歯と下臼歯の間には、その破片の一部が固定されていた。


 破片は透き通っていたかと思うと――次の瞬間、【紫】色の輝きを放つ。


 水晶それ個人色カラーの発現に必要であることを、彼女は分かっていたのだろうか。


 もし分かっていないとすれば、それは。


 「…本能か」


 イグニスは薄く笑うと、ポケットから右手を抜いた。


 腕輪は【濡羽ぬれば】色の輝きを放ち、彼の足下から全方位に対し、地に広がる水滴すいてきのように影が伸びる。


 相対する少女から放たれるのは、紫色の霧。


 それは個人色カラーが持つ『幻覚げんかく』能力発動のための下準備だ。


 しかしその霧は、イグニスが放った影に吸い込まれて消えてしまう。


 これにより、【紫】の個人色カラーは意味をなさない。


 彼がそう結論づけようとした、目の前で。


 ――少女の個人色カラーが【濡羽】色に変わる。


 「…なんだと?」


 驚く彼の目の前で、少女の足下から出現した影は、彼が放った影と打ち消し合い、後には何も残らない。


 その光景は、まるで。


 「…個人色カラー模倣もほう、そんなことが、可能なのか?」


 個人色カラーとは、人間の個性そのものであり、それが変わるということは、本人でなくなることと同義だ。


 それをいとも容易たやすくやってのける少女は。


 「…まさしく『無秩序トリックスター』とうわけか…面白い」


 いつしか【赤みのだいだい】に変わった個人色カラーとともに、イグニス目がけて一直線に飛びかかる少女。


 今にも喉元のどもとを喰いちぎらんと口を大きく開く彼女に。


 彼は真っ直ぐに右手を差し出すと――彼女のひたいに手の平を当てて動きを止めた。


 その対応に不意を突かれ、身を硬くする彼女に対し、彼はゆっくりと、優しく頭をでる。


 「…落ち着け。先ほども言ったが、俺はお前の敵じゃない」


 彼はそう言って、証拠を示すように【濡羽】の個人色カラーを解いてみせる。


 き消える影。


 その中心で、互いの目を真っ直ぐ見据える2人。


 「中将…!」


 「…何度も言わせるな。もう退がっていい。こいつの面倒は俺が見る」


 「はい…」


 観念したように後ずさる局員たち。


 彼らの見つめる先で、イグニスに撫でられたままの少女は、やがて無垢むくな笑みを見せた。






 それから彼らは、共に時間を過ごすようになった。


 不本意ながら隔離解除の申請は通らず、ガラスの外へ連れ出すことはかなわなかったが。


 代わりに、仕事の合間をって、絵本や遊具を届ける生活が続いた。


 教養がないながらも、彼女の脳は10代前後の少女そのもの。


 情報を吸収していった彼女は、徐々に人並みの感性や言葉を身につけていき。


 ――彼の手には余るようになっていった。






 「なるほど、それで俺を呼んだわけか」


 彼らの邂逅かいこうから2ヶ月が経ったある日のこと。


 いつも目元につけたクマを、一層深めたイグニスに声をかけられた暮人は、会議室の机に大柄おおへいな態度で腰掛けながら、呆れたような声を漏らした。


 「…忙しいところ、済まないな」


 「一枚噛むって言ったしな、気にすんな。それより、どうした?あいつに何か、異変でもあったのか?」


 「…成長は順調、いや、想像以上だ。この様子なら、あと1年もすれば普通の生活を送れるようになるだろう」


 「じゃあ万々歳じゃねぇか。何をそんなに、心配することがあんだよ」


 「…実は」


 歯切り悪く、おずおずと耳打ちをするイグニス。


 その内容を聞いた暮人は…。


 「ハッハッハ!『女の子らしさに悩んでる』だぁ!?」


 爆笑する暮人を、イグニスはにらみつけると。


 「…真面目な話だ。奴は恐らく、俺を見て育っている。だが俺を見たとて、学べるのは所詮しょせん、つまらない知性だけだ。女性としての品性を会得えとくするためには、男の俺では限界がある」


 女性だからどうれ、という強制は彼の望むところではないが、男と女では生き方が大きく違うというのは純然たる事実だ。


 その事実を盲目もうもく的に無視し、常に同一化を図ろうとすることこそが全くの無益。


 少なくとも、化粧けしょうや衣服などにこだわりを持つのは、相対的に女性の方が多いことは確かだ。


 最終的に何に興味を持つかは彼女自身が選択することであり、その選択に正解も不正解もないが、初めから選択肢をせばめさせるというのは論理に反している。


 だが無骨ぶこつな彼に、全ての選択肢を示してあげることは、とてもじゃないが叶わない。


 「俺が笑ったのは、万年人間らしさとは無縁だったお前が、今や一児のパパとして思い悩んでる姿が面白かったからだよ。お前の悩みはちゃんと理解したぜ…だが」


 「…なんだ?」


 暮人は笑いを引っ込め、真剣な眼差まなざしでイグニスを見据えると。


 「お前、あいつをどうする気だ?街に暮らす普通の女の子、あるいは軍事力の一部。前者はともかく、後者に女らしさは要らないぜ」


 「…非人道的だな」


 「人道で全てがまかり通るなら、俺だってそうするさ。それはお前も分かってるだろ?聞いたぜ、『【にじ】の構造色』。それが本当なら軍事力として、他の奴が見逃すはずはねぇ」


 暮人の指摘が正しいことは、彼もよく分かっている。


 彼女を地下都市ここへ連れ帰ったとき、彼の脳裏に、彼女を『軍事力』として見る気持ちが、全くなかったかと言われれば嘘になる。


 だが本当は、もっと単純で、非合理を欠いた感情に突き動かされたからだ。


 ――雨に震える彼女を、放ってはおけなかったから。


 「…まんな。俺はそれに対する答えを、卑怯ひきょうにも持たない。ただ、彼女が平穏を望むなら、どんな特別な存在だろうと、俺が普通の生活を与える。彼女が闘争とうそうを望むなら、俺が戦い方を教える。今は、そう考えている」


 いつも理詰めの彼に珍しい、論理性を欠いた言葉。


 それを聞いた暮人は、ニヤリと大きく笑う。


 「いいや。卑怯や非論理、感情論、人間らしくて素敵すてきじゃねぇか。お前の気持ちはよく分かった。だったら次は俺の番。望み通り、最高の人事をかましてやろうじゃねぇか!」


 彼は面白くて仕方がないと言ったように目を輝かせ、勢いよく立ち上がった。






 次の日。


 「えぇ〜?ちょっと、ナニコレ…」


 イグニスと連れ立って保護施設にやってきたのは、暮人が選抜した一人の少女。


 快活な桃色の髪に、長いまつ毛と桃色の瞳。


 どう見ても軍法に抵触している短いスカート、そこから覗くピチピチの柔肌やわはだと、スラリと伸びた長いあし


 名はローズマリン・ブロード・アガレス。


 武勲ぶくんが認められ、今年から中佐の地位を会得した彼女の18の春には、早速さっそく暗雲が立ち込めていた。


 「…むしろそれは、俺が聞きたい。暮人から、何を聞いた?」


 「『昇進間違いなしの大仕事を言い渡ーす!』とだけ。これナニ?まさか仕事って、このコのお守り?」


 「…おおむね正解だ。人間としての知性や品性の欠落した彼女に、人間らしさを教えて欲しいという依頼だったが」


 「それでアタシ!?ナニ考えてんの、あのヤニカス無精ぶしょうヒゲダルマ!?どう考えても、アタシだけはナイっしょ!」


 ――…自覚はあるのか。


 憤慨ふんがいする彼女を横目に、イグニスは小さく溜め息をつくと。


 「…忙しいところ、悪かったな。業務に戻ってくれ。暮人には、俺から伝えておく」


 「あのバカヒゲに振り回されて、中将も大変ですねー。それじゃあ申し訳ないけど、アタシはこれで…ハァー。ナニが『昇進間違いなし』よ、口を開けばデタラメばっか」


 ヒラヒラと片手を振り、その場を後にしようとするアガレス。


 それをさえぎるでもなく見つめたイグニスが、ポツリと。


 「…まあ、昇進というのは嘘ではないな」


 次の瞬間――アガレスの動きが止まった。


 「今…なんて?」


 びついた金属のようにギリギリと振り返る彼女に驚いたイグニスは。


 「…こう見えて俺は、かなり思い悩んでいる。それを解消してくれるというなら、それなりの礼は約束するつもりだったが…それがどうかしたか?」


 「それを早く言ってくださいよ〜!」


 刹那せつな、今までのやり取りが全て嘘だったかのように、満面の笑みを浮かべたアガレスが駆け寄り、イグニスの手を取った。


 「…この役目には不適だと、先刻せんこく、自分で言っていなかったか?」


 「やだなぁ、もぉ〜。そんなワケないじゃないですかぁ〜!言葉のアヤですよ、ア・ヤ。アタシの母性にかかりゃ、子どもなんてイチコロですよ〜!」


 アガレスはそのままルンルンと、隔離室の扉を開け、仰向けで絵本を読んでいる少女の下へ。


 彼女はアガレスの接近に気づき、本を閉じて上半身を起こす。


 静寂せいじゃく


 感情の読み取れない彼女に対し、アガレスは陽気に片手を上げると。


 「よっ!アタシはアガレス!これからアンタに、オンナのイロハを教えたげる!」


 「イロハ…ニホヘト!」


 少女は元気よく反応し、真似して片手を上げた。


 「そう、よく知ってるじゃない!なんだっけそれ…『若さよ全て(ワカサヨスベテ)常ならむ(ツネナラム)』的なヤツ!その通りよ、偉い偉い!」


 れ馴れしく横に座ったアガレスは、少女の頭を撫でようと手を伸ばす。


 すると…少女はその指を、パクリ。


 「ったァァァァァッ!!!」


 アガレスの悲鳴が、隔離室いっぱいにこだました。


 ――…あいつは一体、何をやっている?


 呆れつつイグニスも部屋の中へ踏み入ると、アガレスと少女が揉み合っている姿が目に入った。


 「こんのクソガキ!下手に出てりゃ、イイ気になりやがって!」


 「キャハハ!クソガキ、クソガキ!」


 「ちょっ!スカートの中に頭入れんなスケベ!このッ…!」


 「いいにおい…痛い痛い痛い!」


 「ハッ!かかったわね!アタシの豊満な御御足おみあしに釣られたスケベをめ落とす!その名も『破滅へ誘う(クレイジー)蟲惑の坩堝(ハニートラップ)』!誰にケンカ売ったか、その身にり込んであげるわ…!」


 「…お前ら、何をやっている」


 「あ、中将!」


 そこでようやく彼の接近に気づいたアガレスが、少女の頭を抑える太ももをパッと開く。


 そのすきにスカートの中からい出た少女は、彼の姿を見つけて目を輝かせ。


 「イグニス!イグニス!」


 子犬のようにじゃれつく彼女をいなす彼を見て、立ち上がったアガレスはやれやれと首を横に振ると。


 「随分ずいぶん懐かれてますねぇ。これアタシ、要りますー?」


 「…説明した通り、俺がこいつに教えられる事など、たかが知れている。済まないが、手を貸してくれると助かる」


 殊勝しゅしょうに頭を下げる彼の胸の中で、少女はアガレスの方を指差すと。


 「コイツ、バカだからイヤ」


 「お姉さん聞こえなかったな〜、もう一回言ってくれる〜?」


 「ゴリラの力、痛い!」


 「ゴリラじゃないわよ〜『お姉さん』。ホラ、言ってごらん」


 「ニシロー・ランド・ゴリラ!」


 「ローズマリン・ブロード・アガレス!」


 少女の頭をまるでバスケットボールのように片手で鷲掴わしづかみにし、力を込めるアガレスと、涙を浮かべる少女。


 しかし不意に、何かを思いついたアガレスの握力あくりょくが弱まる。


 「あれ、そういえば…このコ、名前なんて言うんですか?」


 その問いに、固まるイグニス。


 「…そういえば、まだ決めていなかったな」


 「は?ウッソでしょ!?もう2ヶ月も経つのに!?」


 言われて気がついたが、彼は少女の名を読んでいなかった。


 今までこの部屋の中に、2人でしかいたことがなく、識別という意味での名が不要だったから。


 しかし、これから増えるであろう交友関係を考慮すると、彼女の名前は必須と言えるだろう。


 「名前…あたし、アオムシ!」


 「それ、アンタがさっき読んでた本でしょ。しかもそれ、名前じゃないし」


 「イチイチうるさいなぁ、アオムシ」


 「は?」


 「アガレス」


 「あっ、名前呼んでくれた♡…って、誤魔化ごまかそうとしたってムダよ!」


 「…そうだな」


 耳元で展開されるかしましいやり取りを無視しながら、独り熟考していた彼は、やがて顔を上げると。


 「『空海くうかい』。空と海と書いて、『空海』」


 「え?何でそんな名前…てか、女の子につける名前じゃ…」


 ケチをつけようとするアガレスをさえぎって、少女は嬉しそうに笑みを浮かべると。


 「クウカイ!クウカイ!」


 「え、まさか気に入った?どんな感性してんのアンタ」


 「…決まりだな。名の意味は当然あるが…そうだな」


 彼はもう一度、少女――空海の頭を撫でると、薄く微笑んだ。


 「…お前がもう少し大きく、その名の通りの立派な人間に育ったら、その時に教えよう」


 あの日の口約束を、今日こんにちに至るまで、彼女は一度たりとも忘れることはなかった。






 それから4年。


 理不尽と無秩序以外、何も持たなかった少女が、確かな知性と品格を会得するには十分な期間。


 ――しかし人とは、思いのほか、予測通りにはいかないものだ。


 「ゴラァァァ、空海!またアンタ、勝手に先行したでしょ!アブないでしょうが!一言言ってから出なさいって、何度言ったら分かるワケ!?」


 「だって、だって〜!」


 「だってもヘチマもない!」


 「痛い痛い痛い!せめて言い訳させてちょ!理不尽ゴリラの鉄槌てっつい五臓六腑ごぞうろっぷみすぎィー!」


 総帥室、イグニスの前でいつまでも揉めている2人。


 仲が良いのは結構なことだが、この4年で空海に確かな品性は身についただろうか?


 ――…人選ミスだったかもしれんな。


 彼は今更ながらにそんなことを思ったが、時すでにお寿司すし


 やがて、彼女たちの不毛な争いは、アガレスの頭突きにより終焉しゅうえんを告げる。


 タンコブを両手で押さえながら地面につくばる空海をよそに、アガレスは淡々と任務報告を消化すると。


 「ほら、もう行くわよ空海!アタシ、お腹すいた〜!」


 「おけおけ。どこ行くん?あたし、肉喰いたーい!」


 「アンタ毎日飽きないワケぇ?アタシはフツーに、ピザとか食べたーい」


 「発想、デブじゃん!今ドキ流行はやんないよ、ピザデブ!」


 「誰がピザデブだ!ピザは野菜乗ってるからヘルシーでしょうが!デブ要素、なし!」


 「やだやだやだ!肉食べる――――!!!」


 そのまま、総帥室の床で地団駄じだんだを踏む空海。


 しかしアガレスは、そんな使い古された常套じょうとう手段に動じない。


 「一生そうしてれば?もう知らん、置いてくから。じゃ、あとは総帥、ヨロシク〜」


 そう言って彼女は、ヒラヒラと手を振りながら、無慈悲むじひにもその場を後にする。


 置いてけぼりにされた空海は、死にかけのカメムシのように仰向けでジッとした後。


 「イグニス」


 「…なんだ」


 最早もはや日常茶飯事となった彼女たちのやり取りを静観しながら、書類を消化していた彼が、呼び声に応じて顔を上げる。


 「今のあたし見て、なんか言うことない?」


 「…ないな。早く行け」


 「冷たいなー、ドイツもこいつもラ・フランスもー!」


 彼女は、背のしなりだけで身体を跳ね上げて着地すると、彼の机にガンと両肘りょうひじを置く。


 「そいやさー、あのハナシどうなったー?」


 「…なんのことだ?」


 「忘れたん?ほら、あたし、空海!」


 「…知っているが」


 「なんであたし、空海なん?」


 その言葉に、イグニスのペンを持つ腕が動きを止める。


 「…急に、なんだ」


 「イグニス、言ったじゃん。名前の意味、そのうち教えてくれるって。そろそろ教えてくれてもよくなーい?」


 「…こうも言ったはずだ。『立派な人間に育ったら』と。床で地団駄を踏むのは、立派な人間のすることか?」


 「まあまあ、細かいコトはいいから」


 「…」


 一度こうなった空海を止めるのは難しい。


 というより、面倒臭い。


 溜め息をつきながら、イグニスはペンを置くと。


 「…空海。今の我々に足りないものが、何だか分かるか?」


 唐突なその問いに、彼女は首をかしげる。


 「なんだろ。ビタミンCとか?あたし、レモン食べたい!」


 「…食べ物から離れろ。だが、当たらずも遠からずだ。ではなぜ我々は、レモンが食べられない?」


 「そりゃ、地下都市ここじゃ作れないからっしょー?チチューカイとか行けば腹いっぱい喰えるよ!」


 「…そうだな。海を越えれば新たなもの、人に出逢であうことができるだろう。それは我々の住む世界に新たな変革をもたらし、いろどりを与えるはずだ」


 「そうかなー」


 「…我々の領地は陸。それも地下で、太陽におびえる日々を過ごすだけ。この世界にあるのは陸と海と空。我々はそのほんの一部で足掻あがき、いつちりしてもおかしくない、そんなはかない存在でしかない」


 「陸…海…空…」


 「そうだ。陸に住む我々が、次に希望を見い出すべき場所は海と空。…分かるか、空海?」


 空海、それは今の彼らの世界に足りないもの。


 彼女はきっと、足りないものを埋める希望の存在になる。


 いや、そうなって欲しい。


 それこそが、イグニスが空海の名に込めた想い。


 「…お前はそのままでいい。お前の存在はこの世界をきっと変える。少なくとも、俺はそう信じている」


 「イグニス…」


 「…分かったら、もう行け」


 気恥ずかしさからか、彼の言葉は素っ気ない。


 しかし空海は、その場をピクリとも動かず、ゆっくりと口を開く。


 「イグニス。あたし…さ…」


 くちびるを震わせ、言葉に詰まりながらも、必死で何かを伝えようとする彼女の声は。


 次の瞬間――扉を開く大きな音で掻き消される。


 「ゴラァァァ、空海!アンタ、アタシをいつまで待たせんのよ――!」


 「ぎょえー、アガレス!?」


 飛び上がりながら振り返る空海の前に現れたのは、顔を羞恥心しゅうちしん蒸気じょうきさせたアガレスの姿。


 「なんで追っかけてこないの!これじゃ、チラチラ後ろ見ながら廊下歩いてたアタシがバカみたいじゃない!」


 「もー!今あたし、ちょっとイイコト言うところだったんだぞー!」


 「知らん!とにかくアタシは腹ペコなの!早く来なさい!行くんでしょ、肉!」


 「へいへーい…」


 これ以上彼女を待たせることはできないと判断した空海は、渋々総帥室を後にする。


 そして、扉に手をかけた、そのとき。


 「…やっぱ言っとくわ」


 「「…?」」


 頭に疑問符を浮かべるイグニスとアガレスを他所よそに、彼女は大きく息を吸い込むと。


 「あたし!!!みんなと出逢えてよかった――――!!!」


 壁をつんざく爆音。


 驚きのあまり何も言えない2人を気にする様子もなく、空海は両手を大きく広げて駆け出す。


 「うおおおおお!肉たくさん喰うぞ――――!!!」


 急速に離れていく背中。


 それをしばらく見送っていたアガレスは、やがて思い出したように。


 「あ…ちょっと、空海!アンタ店の場所知らないでしょ!」


 そう言って駆け出していく。


 取り残されたイグニスは、フッとほおを緩めてペンを握り直すと。


 「…ああ、俺もだ」


 その呟きは、きっと誰にも聞こえないだろう。






 夜来やらい、風切る残響ざんきょうは、めぐう星々を引き裂くことあたわず。


 花落つる粗目ざらめの大地にも、やがて一対の紺碧こんぺき蒼穹そうきゅうを夢視る若葉がゆる。


 求めたものは、合理と秩序ちつじょひしめく楽園。


 手にしたものの一切が、砂塵さじんのように指の隙間をこぼれ落ち、最後に残った一握いちあくは、俺をかたどる全てだった。


 不合理を斬り捨てた果ての明日に、どんな孤独が待ち受けていようとも。


 ――未来を掴んだお前はきっと、孤独それすらうばってくのだろう。

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