5章2「Fishes should be back to the aquarium」
思えばいつも、彼の瞳は遠く、静謐を満たす青い海を映していた気がする。
空を睨むその眼光は、水面に煌めく残光の、眩しさに目を細めていた気がする。
その姿に、無意識に自分と同じ何かを感じていたことも。
どこか見覚えのある、人の影を重ねていたことも。
気づいていないはずはなかった。
「汪我大佐が…嘘…だよな…」
溢れるその言葉。
しかしそれが本心からの言葉でないことは、誰の目にも明らかだった。
「言っていなかったのですか、凛月に?」
アリシアの問いに、國晴は静かに首を横に振る。
「言う必要がねぇからな。蓮や御琴、暮人、総帥あたりは知ってることだ。俺が地下都市に来た最初の海棲人。2番目が手前で、3番目が姫だ」
「じゃあ、大佐もいずれアトランティカに…」
「俺はあそこが昔から気に入らなかったし、家族ももう残っちゃいねぇ」
しかし彼は、不機嫌に足を踏み鳴らすと。
「だが…未練はねぇが、因縁ならある。だから俺たちは、あそこに一度、戻らなきゃならねぇ。そのためにはまず、キルスティに話を聞く必要があるだろうな」
「聞くって何を?」
「そんなこと、分かりきってんだろ」
國晴は、もう一度だけ振り返り。
「ダリス・ウルド…いや、『神』とやらの存在について。ついて来い、才波。それと、姫」
そう言って、背を向けて歩き出した。
その背は、それ以上のことを語らなかった。
キルスティ、もといライラが現在入院しているのは、病院ではなく研究所。
真田虎徹中将の管理下にあるこの施設は、玄関にカードキーの認証が必要な扉が備えつけられているが、國晴はそれを簡単に突破した。
そのまま、確かな足取りで進んでいく彼と、それを追う凛月とアリシア。
アリシアは、物珍しそうに辺りをキョロキョロしている。
「流れで付いてきましたが、こんなところに、得体の知れない私を入れてよいのですか?」
「まあ、なんとかなるだろ。なんか言われたら、汪我大佐のせいにしとけば」
「せめて『俺が守る』くらい言えないんですか、貴方は…」
呆れ顔のアリシアと、どこ吹く風の凛月。
やがて、國晴はとある扉の前で立ち止まる。
「入るぞ」
そのまま、ノックもせずに中へ。
「うわぁ…あの人、いつもあんな感じなのですか?」
「まあな」
「うわぁ…」
ドン引きしながら揃って足を踏み入れると、そこにはベッドに座るライラの姿。
だけではなく――イグニスを始めとする、首脳陣が一同に介していた。
構成員はイグニス、暮人、木更、虎徹、蓮、御琴、蒼奥。
アガレスと空海が見当たらないが、どうせ彼女たちはどこかで鬼ごっこでもしているのだろう。
どのみち脳筋なので、彼女たちが居なくとも議論になんら支障ない。
「汪我と凛月、それにアリシア嬢か。海棲人の揃い踏みじゃな。そろそろ来る頃じゃと思っておったところじゃ」
彼らにそう声をかけたのは、ベッドに座って腕を組んでいるライラ。
いや、キルスティ。
その証拠に、瞳は鮮やかな水浅葱色に変わっている。
「大層な出迎えだな。これも『未来視』とやらの力のおかげか?」
國晴は、掌の上であることが気に入らないというように、キルスティを静かに睨みつける。
「そう怒るな。儂も少しばかり気が立っておるでの。役者も揃ったようじゃし、早速始めるぞ。まずは汪我、儂に訊きたい事がある…そうじゃな?」
「ああ。手前はダリス・ウルドについて知っている。…そうだな?」
直球なその問いに、キルスティは。
「勿論じゃ。儂はかつて、あ奴とともに三位一体を担った。旧友、といったところかの」
全く隠す様子もなく、そう言い切った。
「やっぱりそうかよ」
「儂としては、お主らがあ奴を知っておった事の方が意外じゃった。そうか成程。あ奴は海中都市におったのじゃな」
まるで過去を慈しむように遠い目をしたキルスティの、ひとひらの瞬き。
「皆が分かるように、全てを最初から話そうかの。まず、ダリス・ウルドとは、千宮司千里の記憶を奪ったと考えられる者の名じゃ。儂の司る『未来』に対し、あ奴が司るのは『過去』。かつて『纏空封壊』の起きる前、儂らはともに三位一体として崇められており、エネルギー戦争で狙われた結果、それぞれ別の道へと進んだ。それきり会ってはおらぬ。あ奴の能力は『追憶之箱庭』。対象の記憶を奪い、奪った時間と同じだけ、己が寿命を延ばす事ができる」
「…待て」
訥々と紡がれる彼女の言葉を遮ったのはイグニス。
「なんじゃ?」
「…延命だと?お前らの命は有限なのか?仮に有限だったとして、我々人間より遥かに長い寿命を持ったお前らが、たかが数ヶ月の記憶を奪い、延命することに執着するとは思えない」
「もっともな質問じゃな」
彼の言う通り、『延命するため』だけに、たまたまその場に居合わせた千里の記憶を奪うなら、数ヶ月などというチンケな単位ではなく、一生を奪えば良い。
それをしない理由は、多くの記憶を奪うことで何らかのデメリットが生じるか、それとも千里の記憶を意図的に奪ったか。
「なぜ千里を狙ったのか、それは儂にも皆目検討がつかん。それに、なぜこのタイミングで現れたのかも」
彼女の言葉に、黙っていられないのは凛月。
「じゃあ…千里は運悪く犠牲になっただけかもしれない、ってことかよ?」
「その可能性は捨て切れんの。儂とて千里の事は気に入っておったし、斯様な結果になった事は非常に残念じゃ」
「他人事みたいに言うんじゃねぇ!お前がそれを、もっと早く共有してれば、千里は…!」
「云えば助けられた…と?戯けるな。云おうが云うまいが、お主には何もできんかったはずじゃ。気持ちは分かるが、責任転嫁はよせ」
「この…ッ!」
頭に血が昇り、大きく一歩踏み出した凛月。
それを片手で制したのは、彼の前に立っていた國晴。
「大佐…退いてください」
「退かねぇよ。…キルスティ、なぜ今までそれを黙っていた?それと、千宮寺の記憶を取り戻す方法はあるか?」
「黙っていた理由か。それはただの、私的な感情としか言いようがないの。ダリスは儂にとって、唯一と呼べるほどの旧友。100年以上も会えぬ仲じゃが、それでも、かつての楽しい思い出を、独り胸のうちに秘めておきたいと思うのは、おかしい事じゃろうか?…じゃが、あ奴はかつて、無関係の者を妄りに襲うような奴ではなかった」
つまり、キルスティは千里が運悪くではなく、意図的に狙われたと考えている。
「儂が今、全てを曝け出すのは、あ奴に訪れた異変を知り、願わくば取り除いてやりたいという、友情あってのもの。それは努努忘れるな」
「お前の都合は分かった。…で、千里を救う方法はあるのか?」
怒りを理性で抑えつけ、國晴の問いを再度繰り返す凛月に、彼女は。
「ある。奪った記憶は、あ奴の脳内に蓄積する。曰く、己は『本』であり、全ての記憶を鮮明に思い出せると云っていた。故に、あ奴を説得さえすれば、返してもらう事が可能じゃ」
「説得…どうやって?」
「その為には、まずはあ奴の目的について識らねばならん。済まぬが、それは儂には分からぬ」
「じゃあ、これ以上は直接聞くしかねぇってわけか」
「そういう事じゃな」
頷くキルスティの姿を見て、凛月の視線は隣のイグニスへ。
「総帥、行かせてください」
有無を言わさぬその言葉、しかしイグニスは。
「…何処へだ?まさか、宛てもなくただ探すと言うつもりか?」
「それは」
その言葉に凛月は押し黙る。
確かに彼の言う通り、千里と邂逅した後のダリス・ウルドの足取りは掴めず、千里以外は姿を見たことすらないというのが現状だ。
せめて何か、彼女の行く先に手がかりがあれば。
「そのことですが…手がかりは恐らく、あります」
静寂を裂いたのはアリシアの声。
その声に凛月が勢いよく振り返る。
「アリシア、本当か?」
「えぇ。恐らくダリス様は、アトランティカへ帰還なされたはず」
「…根拠は?」
イグニスの低い声に対し、アリシアは毅然と。
「お父様…アトランティカの王から、幼い頃聞いた話によれば、ダリス様はお身体の状態が芳しくなく、長時間の無理ができない。その能力を使用したあとは、数時間から数日の休養を要します。…この地上に、ダリス様が安心してお身体を休められるところはありますか?」
「…無いな」
「であれば、彼女は身体を休めるための場所として、アトランティカを選ぶ確率が非常に高い。あそこならば、お父様を始めとする海棲人が彼女を守ってくれますから」
「…成程、理に適っている」
頷くイグニスに追い討ちをかけるように國晴が口を開く。
「それに、どのみちこいつの父親に色々と聞くことがあることには変わりねぇ。才波がグランガイルから入手した情報と、アトランティカの連中が持っている情報。どれも重要なパーツの一つだ。…違うか?」
「…そうだな。だが、肝心の海中都市はどこにある?それが分からなければ、全ての議論は水の泡だ」
「それは…」
今度は國晴が押しだまる番。
次に静寂を裂いたのは虎徹。
彼は暗い雰囲気を取り払うように、笑顔で手をパチンと叩いた。
「ここからは僕の出番だね。腐っても科学者、無いものを生み出すことはできないけど、断片的な情報から、海中都市の位置を推定するくらいは頑張れるよ」
そう言って彼は、どこかからホワイトボードを引っ張り、黒の水性ペンのキャップを外す。
「まずは、ここら一帯の地理関係と、汪我くんと才波くんにかつて行った事情聴取から。えーっと、彼らが発見された場所はこの辺で、都市から地上に至るまでの行程は…」
暫くの間、ペンとボードが擦れ合う音だけが続き、やがて止まる。
「はい、こんな感じ。2人とも、発見地点は結構近いから、これだけじゃなんとも。でもアリシアさんの発見地点は、もっと別の場所だよね?」
「ええ、恐らく。私はロイズ…傀機繰儡に拾われましたから、彼らの住処に近いところかと」
「ふむふむ、彼らの住処の位置はここだから、近縁の海辺となるとこの辺り…海中都市からここまでの道のりは?分かる範囲で大丈夫」
顎に手を当てながら、ゆっくりと状況を思い出し、ぶつ切りになりながらも言葉にしていくアリシア。
虎徹はそれに対し、うんうんと頷きながら、ホワイトボードを図や文字で埋めていく。
気がつけば端の方には、普通の人間には理解し難いような数式の羅列が生成されていた。
「全ての情報をまとめるとこんな感じ。恐らくこの辺りにあるだろうことは推測できるけど、これじゃまだ範囲が広いなぁ。これを見て、何か気づくこととかあるかな?」
國晴、凛月、アリシアがホワイトボードを凝視し、なんとか情報を捻り出そうと苦戦している。
その最中、凛月が。
「なあアリシア。なんでお前と俺たちって、こんなに離れてるんだ?どこから出発した?」
「どこって…同じですよ?国門付近。白浜デパートです。そこから真っ直ぐ」
「誰にも邪魔されなかったか?俺は蛸の化け物みたいなのに襲われた」
「いいえ…」
「蛸の化け物だと?俺も襲われた。それに、スタートも国門だ」
「汪我大佐も?じゃあ邪魔されずに真っ直ぐ来れば、アリシアと同じところに辿り着いたのか」
つまり、アリシアの道のりは直線。
それならばまだ絞りやすいのではないか、と思った凛月が顔を上げると、虎徹は別のことで頭を捻っているようだった。
「真田中将?」
「うーん、直線ルートだからどう、っていうのは言いにくいね。角度が分からないもん。それより…『白浜デパート』っていうのが気になった。海中なのに、白浜があるの?」
予想外の切り口に困惑する3人。
「え、ええ…あのデパートの一帯は白い岩で形成されていて…」
「原料は?」
「え、えっと…」
困惑しつつも、彼らは必死に頭を抱える。
「理科の授業でなんか言ってたな…」
「理科ぁ?中坊の記憶なんてもうねぇよ」
「ダリス・ウルドに取られたんじゃないすか?」
「あ?」
「なにを揉めてるんですか。そんなことより、頑張ってください、凛月。確か貴方、昔『元素記号を全部覚えた』って、謎の自慢してたじゃないですか」
「よく覚えてんな、今もだよ。えーっと、スイハーリーべー…」
指折りながら数えていき、やがて全ての指を折りたたんだところで止まる。
その数は20。
「ナナマガリシップスクラークカ。…そうだ!なんとかカルシウム!えっと、二酸化?水酸化?なんだっけ…」
「炭酸カルシウム、かな?」
「そう!それです中将!」
凛月がビシッと指差すと、虎徹が何か気づいたように、隣の木更と目を合わせた。
「ねぇ、木更さん」
「そういうことですか」
「え?ちょっ、どういうことですか、真田中将?」
「白浜デパート近縁の白い岩は、炭酸カルシウム、つまり…『石灰岩』で形成された土地ってことだね」
虎徹が教えてくれたのはそれだけ。
それで全てが通じると思っていたのだろうが、ちんぷんかんぷんな彼らの姿を見て、慌てて補足をしてくれる。
「石灰岩の採掘場所はある程度決まっててね。そもそもここら辺は、石灰石が多く存在する場所ではあるんだけど。例えば…才波くんが昔、地上に独り取り残されたとき、身を潜めていた地下には鍾乳洞があったよね?鍾乳洞は、石灰岩が長い時間をかけて水によって削られてできた場所なんだ」
「なるほど、そういうことだったのか…」
「石灰岩の分布と、未採掘地点の情報を擦り合わせると、もう少し範囲を狭められそうだね。木更さん、あとはお願いできるかな?」
「承知。後に書物を持ち寄りましょう。…どうです、イグニス。これで少しは、貴方の憂いは解消できましたか?」
「…そうだな」
一部始終を聞いていたイグニスは、やがて静かに頷くと。
「…前向きに検討しよう。木更と真田は引き続き、海中都市の位置推定にあたれ。その後、探索については汪我と才波、それとアリシア・フォン・カウエルに任せる」
「よし!」
思わずガッツポーズをする凛月に、釘を刺すように彼は。
「…長期間を見込んだ任務となる。準備は入念に行い、くれぐれも先走るな」
そう言ってから、今度は視線をキルスティの方へ向ける。
「なんじゃ?」
「…ダリス・ウルドについては分かった。だが、まだ聞いていないことがある」
「…なんじゃ」
「…お前は先ほど『三位一体』と言ったな。ならば…最後の一柱とは何者だ?」
「それは…」
これまでの態度とは一転、暗い表情を見せるキルスティ。
だが彼女は、『全て話す』と言った。
その言葉に二言がないならば、彼女はその問いにも答えるだろう。
そう信じて黙ること数十秒、漸くゆっくりと彼女の口元が動く。
「…儂が『未来』。ダリスが『過去』。つまりその間、『現在』を司る者がおる」
「…成程。現在過去未来が全であり、それらをして三位一体と呼ぶわけか」
「その通りじゃ。名はスティン・ド・ウェル・ダンディエス」
彼女の瞳は悲哀に満ちていた。
そして、次にその口から語られたのは、衝撃の言葉。
「あ奴はかつて『纏空封壊』を引き起こし、そして…この世界から姿を消した」
「…なんだと?」
これにはイグニス含め、誰もが驚きを隠せない。
纏空封壊とは、かつて世界を襲った厄災。
それが、一柱の神によって意図的に引き起こされたものだった?
「…その目的は、なんだ」
イグニスでさえ、振り絞って紡がれる質問はその程度。
そんなこと、たとえ知っていてたとしても教えてもらえるわけがないのに。
「分からぬ。思えば、あ奴は常に崩壊を望んでおった。故にただ愉悦の為か、それとも他に何かあるのか…それは、あ奴にしか分からんじゃろう」
「…成程。分かった」
イグニスが頷き、他のメンバーを見渡しながら。
「…検討事項が多い。ダリス・ウルドについては汪我、グランガイルの情報については暮人、ダンディエスについては俺が担当する。まずは、前2つについて、こちらからも共有事項がある。他に何もなければ、この場は一旦解散とし、該当者のみ俺について来い」
そう言って立ち上がると、それに待ったをかける声。
声の主は、再びキルスティ。
「最後に…興津風蓮のみ残って欲しい」
「おや、僕ですか?今まで空気を読んで黙ってたのに」
予想外だったのか、蓮がおどけた様子で彼女のもとへ歩く。
それを見て、國晴が。
「何も喋らねぇから、置き物かと思ったぜ」
「いやいや、分からないことに余計に首突っ込んでも、うざいだけでしょ」
「で、なんで手前だけ?ここでは言えねぇことか?」
彼がそう言ってキルスティの方を向くと、彼女はただポツリと。
「言わぬ。その者が聞き、全員に共有できる内容だと判断したならばすればよい」
「だってさ。じゃあ、僕は後で合流しますね」
「…ああ」
その言葉を最後に、部屋から出ていくイグニスと、それについていく面々。
最後の1人が退出し、足音すら聴こえなくなるほど遠くまで行ったことを確認してから、蓮が口を開く。
「して、僕に何の用が?」
だがキルスティは、その言葉に答えない。
暗い面持ちで、ただ俯いているだけだ。
その様子に何か悪い予感を感じ取った彼も押し黙る。
数秒の沈黙。
ついに、彼女の口が動く。
「――昨晩、夢を視た」
その言葉に、蓮の表情が強張る。
彼女の言う『夢』とは、正夢。
これから起こる、確定した未来を識る役割を持つ。
それを変えることはできない。
わざわざ2人きりにしてから、夢の話を持ち出すということは。
「なにか、僕に関する夢を視ましたか」
「そうじゃ。言うべきか迷ったが、お主は聡明な男。その未来を受け入れ、今後に生かす事ができると見込んで話すことにした」
「…内容は?」
緊張の一瞬。
キルスティから紡がれた言葉は、蓮を不幸のドン底に突き落とす残酷そのもの。
「お主は近い将来――死ぬ。暗がりで独り、誰に見られる事も無く。それを成すのは、【藤】色の鎌を持った死神」
タイトル和訳「花は根に、鳥は古巣に」