4章32「Maiden Walked into a Peaceful Slumber」
傷口から漏れ出た冷気が氷の華を咲かせた。
そのままロイズは、成す術無く膝から崩れ落ちる。
頭部と右腕を除く上半身が全くと言っていいほど動かない。
それは間違いなく、凛月の一撃を受けたからだろう。
誰がどう見てもロイズの完敗だった。
「…クソッ。俺はここまでか」
案外あっさりと敗北を認めたロイズに、2つの黒い影が差す。
足音で分かる。凛月とアリシアだ。
「早く殺せ」
ロイズが顔を上げずに吐き捨てると、凛月が静かに首を横に振った。
「…殺さねぇよ」
「何故?血迷ったか?」
「お前はもう個人色も使えねぇ。満足に動けもしねぇ。ならもうそれでいい。…それにアリシアの事もあるしな」
凛月の返答をロイズは鼻で笑う。
「ハッ。闘う理由ならまだしも、闘わない理由に他人を使うなど情けない男だ。闘いはどちらか一方を殺し切るまで終わらない。闘いから逃げるなよ。逃げを正当化する貴様のその行為は、闘いという崇高で高貴なる概念に、泥を塗るに等しき愚行だぞ」
「そうやって貴方は、ずっと独りで闘い続けて来たんですね」
「…そうだ。勝者が正義のこの世界で、俺は独り勝者であり続ける道を選んだ」
「己の正しさを証明するため…ですか」
「…そうだな。だがそれも、一度敗北すればそれまで」
「違います」
アリシアが強く否定した。
それにロイズはピクリと体を動かし、黙って口を閉ざす。
「死ねばそこで終わりではない。それを教えてくれたのは、他ならぬ我が曾祖母でした」
「…どういう事だ」
「彼女は確かにその命を全うし、そして亡くなったのでしょう。100数年と生きて来た貴方にしてみれば、儚く何も残さず消えてしまったように見えるかもしれない。けれどそれは違う」
アリシアはそう言って、真っすぐにロイズを見つめてしっかりと胸を張る。
その拍子に揺れるのは金色の髪と、翠色の瞳。
「彼女」からしっかりと引き継いだそれを誇らしげに揺らし、アリシアは言う。
「想いは死なない。貴方の心の中にはずっと「彼女」が居ました。彼女の想いがありました。人は死んだら終わりではない。誰かの心にいつまでも残り、生き続ける。その為に私は生まれた。「彼女」が成せなかった事を私が成すために」
ロイズは限界近い体に鞭を打ち、顔を上げアリシアを見据える。
彼女の瞳はあの日のフローレンスと何も変わらなかった。
そして彼女の面影を感じさせる声でハッキリと。
「想いは死なない。貴方に情がある限りは」
もう一度、そう強く言い切った。
「…」ロイズは言葉を失った。
そうだ、確かに彼女の言う通りだ。
フローレンスは100年たった今も、ずっと自分の中に居た。
あの笑顔を忘れはしなかった。
彼女が紡いだ決意を忘れはしなかった。
彼女と生きたあの時間は、決して無駄なのではなかった。
彼女が生きる意味も確かにあった。
それを目の前のアリシアが証明してくれている。
…運命。アリシアを救い、救われるのもフローレンスが残した運命なのかもしれない。
今になって初めて、そう思えた気がする。
「…そうか」ロイズが目を瞑る。
その様子を凛月とアリシアは静かに眺めていた。
初めて訪れる安堵のひとときが、ゆっくりと流れていく。
――だがそれも長くは続かない。
突如轟音と共に地面が震え、地下が崩落し始めたからだ。
「なッ…マジかよ…!」
驚き辺りを見回す凛月。
少し派手に戦闘をしすぎたかもしれない。
そもそも最初にロイズが入って来た時から既に壁に大穴をぶち抜いていたのだ。
今までの無理が祟ったか。
――逃げるぞ!
徐々に激しくなってくる崩壊音に負けじと声を張り上げようとした彼。
しかしそれよりも早くロイズが口を開いた。
「…これは恐らく、ルミーナの仕業だな。最初から俺と貴様等の相討ちを狙っていたか」
「あいつが!?お前ら仲間じゃなかったのかよ!?」
「奴はそういう女だ。…おい才波凛月、アリシアを連れてさっさと退避しろ。向こうに抜け道が隠してある」
そう言ってロイズが目で示す方向には一見分かりにくい、細い非常用隠し経路。
どうやら2人を生かすつもりでいるらしい。
それに…。
「ですがロイズ、貴方は…!」
「馬鹿か貴様は。私は敵だ」
「…分かっています、しかしそう簡単に割り切るのは」
アリシアが憂いを帯びた表情を浮かべる。
それがロイズには分からない。
「自分の手に届くもの、全てを守ろうなどというのは傲慢だ。要らないものは切り捨てろ。守りたいものがあるなら、それ以外のものに情けをかけるな」
――何故貴様がそんな悲しそうな顔をする。
捨て行けよ、悩む意味すら無い事に何故悩む。
何故切り捨てない?
「アリシア、そいつの言う通りだ。…行くぞ」
沈黙を保っていた凛月が小さく呟き、アリシアの手を引いて歩き出そうとする。
――そうだ、それでいい。
そいつが正しい。貴様は間違っている。
だが手を引かれるアリシアの足は酷く重い。
――何故だ。
「アリシア…!」
凛月の語気が少しずつ荒くなる。
タイムリミット迫っている。
それなのに、アリシアはまだ動き出そうとしない。
だからロイズは必死に考えを巡らせ、口を開く。
「俺の生き様は貴様が語り継ぐのではないのか?ならこんなところで時間を使うな。…生きろ!」
――生きろ。
その一言でやっとアリシアの足が動き出した。
凛月が更に強く手を引く。
天井に亀裂が走り、上から瓦礫が降って来る。
崩落は近い。
「ロイズ!」
走りながらアリシアが振り返る。
それにもうロイズは反応しなかった。
後ろ髪を引かれるように遠ざかっていく彼女らの足音を感じながら、彼は独りもの想いに耽っていたのだ。
――最後の最後にらしくない真似をしたものだ。
他人を奮い立たせるような言葉を吐くなど、以前の自分では考えられなかった。
どこのヒーロー気取りだと、そんな考えがどうしても先行してしまうからだ。
「…だが、それも悪くないかもな」
やがて地下にあったこのフロアは完全に瓦礫に埋もれてしまう。
のしかかってくる重みをジッと耐えながら、最期に彼の脳裏には――今は亡きフローレンスの笑顔が鮮明に浮かんでいたのだった…。
「――相討ち、ねぇ…」
黒の巨塔1F。ゴスロリのスカートを右へ左へゆらゆらと揺らす1人の女。
幼い体に不釣り合いな2丁の銃をくるくると弄び、見た目通りの無邪気な笑みを浮かべてい
るのはルミーナ・エストアリスだった。
「彼は自分が捨て駒だったと解釈するだろうねぇ…でもそんなコトは無いよぉ。だってボク、彼のコト大好きだもの。相討ちなんて勿体無いコトしないよねぇ」
どこからか聴こえてくる崩落の音に耳を傾けながら、独り言を言い続けるアリス。
一見ふざけているようにも見えるが、実は本心からの言葉だったりする。
「…まあ何はともあれ、才波凛月くんは自分の真の能力に目覚め、にっくきロイズくんを無事撃破。崩落からも無事脱出し、次はいよいよ陛下のところへ。めでたしめでたしだぁ」
パンパンと、乾いた手を叩く音が鳴る。
銃を持ったままなので時折ガシャガシャと五月蠅い音も混ざっているが、彼女には全く気にならないようだ。
「それにしても彼は本当にすごいねぇ。手負いとは言え、あのロイズくんに勝っちゃうなんて。こりゃ陛下もうかうかしれられないねぇ」
本当に楽しそうにうっとりとした表情を浮かべるアリスは、ぴょんぴょんと跳ねながら部屋を縦横無尽に歩き回る。
そして――ある一点で立ち止まると、地面に向けてガシャリと銃口を向けた。
「…ねぇねぇ聞いてる?それとも…死んだかにゃ?」
その銃口の先には…血塗れで地面に這いつくばる、千里の姿があった。
ピクリともしない彼女の下へしゃがみ込むと、アリスは彼女の頭をツンツンと銃で突いてみる。
「えー、もう死んじゃったのぉ?つまんないつまんない~。戦場を駆ける、恋する乙女!中々そそる展開だったのに、肝心の乙女がこんなしょっぱい配役じゃ、見てるコッチも…」
刹那――「銀」色の光を纏った太刀が、アリスへと横薙ぎに襲い掛かった。
「にゃっ!」
慌てて下がる彼女の頬を銀の一閃が掠める。
血は出ない。だが今はそれで十分だ。
「…アンタほんっとうっさい!」
その持ち主である千里が、苛立ちを隠そうともせずにフラフラと立ち上がる。
身体は傷だらけでとても戦える様子には見えなかったが、瞳はまだ死んではいないようだった。
それを見て、パンッとスカートを叩いたアリスが満面の笑みを浮かべる。
「まぁ、生きてるのは識ってたけどね、にゃはははっ!気分はどうだい?恋の障害として立ち塞がるにっくきボクに、なんとか一矢報えそうかい?」
「気分なんて最悪よ!ほんっともう、何なのコイツ。頭くる…」
「褒め言葉をどうも。…で、ハナシは聞いてたよね?どうする?才波凛月くんはもう上に行っちゃってるようだけど」
「そんなの…アンタをブッ飛ばしてから追いかけるに決まってんでしょ」
「威勢はいいねぇ」アリスがキャッキャと笑う。
「だけど実際、そんなにうまくいくもんかなぁ?」
「チッ…」図星だ。
再び拳銃を構えなおすアリスを見て、千里が腰を落としながら険しい表情を浮かべる。
先程から、戦況はどう考えても千里の劣勢だった。
なんと意外な事に、アリスは一見インドア派かのように見えるが、実は動ける。
それは機械化の副産物のようなもので、彼女のような体躯でも身軽に様々な動きをする事ができるし、目も良くなっているので射撃の腕も中々のものだ。
通常の剣技ならともかく、「銀」の個人色を使う際には溜めが必要で且つ大振りになる彼女にとって、ちょこまかと動き小刻みに攻撃を仕掛けて来るアリスは天敵と言っても過言では無い。
そして、打開策は今のところない。
「それにキミ…足痛めてるよね」
アリスはその事実を端的に告げると、千里が何か言い返す前に素早く引金を引いた。
即座に銃弾に反応した千里が首を捻る。
銃弾は彼女の身体には触れる事無く、髪と髪の間をすり抜けてどこか後方へ。
反撃しようと太刀を振りかぶる。
しかし負傷した右脚のせいか、動きが少しだけ鈍い。
その隙を逃さず、アリスが2発、3発と引金を引く。
「くッ…!」
身体を捻り、何とか直撃は避ける。
しかしその間にアリスは千里に近づいていた。
「無理だって」
鈍い痛みが頬の辺りを襲う。
一瞬だけ触れた冷たい感触から、拳銃で殴られたのだという事が分かった。
地面に崩れ落ちる千里に向かって更にアリスは銃弾を撃ち込んでいく。
…これは避けられない。
そう悟った千里がギュッと目を瞑った瞬間。
――銃弾の全てが、千里の足元から伸びる「影」によって弾き返された。
「…んんっ?」
予想外の事態に陥ったアリスが首を傾げ、すぐに距離を取る。
影はまるで人の手のように細く長く伸び、ゆらゆらと揺れていた。
見た事の無い現象に、それが異能力によるものだとすぐに合点する。
しかし…肝心の術者が見当たらない。
「どこに隠れてるのかにゃ~?」
続けざまに銃弾を放つ。
とりあえず影の差す地面を穿ってみたものの、特にこれと言った変化は無い。
次に千里の身体へともう一度銃弾を撃ち込む。
するとまたも影によって弾き返される。
術者を燻り出すにはどうすればいいか…アリスが独り試案を続けようとすると。
――影は次第に糸のように織り集まり、やがて人の形を成していった。
そうして現れたのは黒髪の美少女。
野性的で獰猛な表情を浮かべる彼女は、千里を守るようにアリスの前に立ち塞がる。
「ありゃりゃ、びっくりした。…キミ誰?」
アリスがそう問うと、少女はニヤニヤと笑みを浮かべ…。
「あたしィ?んー…名乗るほどのモンでもないよ!」
「…あ、そう」
返答を聞いた瞬間、アリスがまた拳銃の引き金を引く。
すると今度は影に弾き返される事は無く、代わりに…銃弾が空中で止まった。
「…んんん?」
それを見てまたもアリスが大きく首を傾げる。
今明らかに…個人色が変わった。
訝し気に眉根を顰める彼女の視界の端で、態勢を立て直した千里が少女に向かって驚いたような声を上げる。
「く、空海中将!?どうしてこんなところに…?」
少女――伊賀崎空海は笑う。
「ヒーローは遅れて現れるんだよね~。ってなわけで正義の味方、空海さん見参!」
彼女はそう言ってビシッとピースサインを向けて来る。
相変わらずノリが何とも言えないが、味方としてはこれ以上心強い事は無い。
「いやぁ、今まで千里ちゃんの影にくっついてココまで付いて来てたんだけどねぇ…。千里ちゃんがピンチってコトで、つい加勢しちゃったわけですよ」
「え、ってことは…最初から見てたんですか!?なら手貸してくださいよ!」
「そうしたいのはヤマヤマだったけど、千里ちゃんの恋路に首突っ込むのもおカド違いだからねぇ…そこはあれだよぉ、上司としてのエンリョというかなんというか」
「ちょっ!案の定余計な事ばっかり聞いてる!!!」
「ダイジョブダイジョブ!千里ちゃんがポッとでのパツキンに敗けるワケないじゃ~ん」
顔を赤らめて恥ずかしがる千里の反応を見て、空海がケラケラと笑う。
だがすぐに笑いを収め、真面目な顔でアリスの方へと振り返った。
「…というわけでだね、ココはあたしに任せて千里ちゃんは先に行きなよ」
「え、でも…」
「敗けたくないんでしょ?」
空海の一言に千里が黙る。
そして覚悟を決めたように大きく頷いた。
「…ありがとうございます!」
「いってら~」
千里がくるりと背中を向けて走り出す。
それを最後まで見つめた空海は、やがて完全にアリスの方へと身体を向けた。
「やーやー、待ったぁ?」
「待ちぼうけは勘弁してよぉ。まぁいいけどね、にゃははっ!」
アリスは千里を追撃する事も無く、ただ静かに空海の挙動を見つめていた。
それを疑問に思った空海が問う。
「見逃していいの?」
「ん?あぁ、彼女は別にいいかなぁ。寧ろ好都合なのかもねぇ…言ってる意味分かる?」
「いや全ッ然!」
「だよねぇ。まぁいいや。それより…キミは面白い個人色を持ってるねぇ」
アリスの視線が空海の腕輪へと向けられる。
登場直後は「濡羽」色に輝いていたそれは、今は「灰」色に変わっている。
「個人色は通常1人1つのはずだけど、キミは何を犠牲にその力を手に入れたのかな?」
「ギセイ?ちょっと何言ってるか分かんない」
「…嘘付いてるようには見えないなぁ」
表情を読むに、空海が嘘を付いているという線は薄いように感じる。
となると本当に個人色を複数使いこなす人間が存在するというわけか。
にわかには信じがたいが…アリスはすぐに信じる事にした。
そして、銃口をゆっくりと空海の方へ向けると…。
「キミ面白いねぇ。是非一度お話してみたいなぁ…解剖室でね!」
「やってみなー!」
――そのやり取りを皮切りに、両者一斉に動き始めた。
響く銃声。
それを物ともせず、寧ろ真っ向から突っ込んでいく空海。
「赤」色の輝きと共に彼女の両の手から炎が飛び出し、アリスを丸呑みしようと迫る。
「おっとっと」
アリスは最小限の動きで炎を躱すと反撃するように前へ。
再び銃を構えると…そこに既に空海は居ない。
だがアリスは驚く様子も無く、今度はもう片方の手に握る銃を自身の後方に向けた。
そのまま後ろを見る事無く発砲。
勢い良く銃口を飛び出した弾は一直線に、「濡羽」色の影を纏った空海を襲い、髪を掠めてすり抜けていく。
「おー、すごい!」
「どうもどうも〜!」
アリスは送られた賛辞に素直に礼を言い、更に銃撃を重ねていく。
その間に空海の個人色は「銀」に変わっていた。
右腕を大きく振るうと指先から銀の斬撃が2本。
既に撃った銃弾を寸分の狂い無く空中で叩き割り、アリスの体へと迫る。
アリスは体をくるりと回転させ、その斬撃を回避してみせる。
「お見事!」
彼女はそう言って銃を構え直す。
そして引き金を引こうと指に力を込めると…。
「捕ま〜えたッ!」
――引き金を引ききるよりも早く、空海の手に銃口を掴まれた。
それにアリスが驚く暇も無く、今度は空海の個人色が「向日葵」色に変わった。
一瞬で「向日葵」色の光を帯びる銃。
アリスは本能的に自分の危機を感じ、その銃を空海に押しつけるようにして手放した。
そのまま後退。
しかし空海の個人色は更に「桃」色に変わる。
アリスがその色を知覚した瞬間、手放したはずの銃がとんでもないスピードで自分の手元へ戻って来た。
「えぇっ!?」
ぶつかって怪我するよりは、とアリスが手を伸ばし、銃の持ちてを掴もうとする。
だがそれより早く銃は再び「向日葵」の光を帯びる。
しまった…そう思った時には遅かった。
アリスが受け身を取るよりも早く、爆発物など何も無いはずの銃が爆裂四散する。
それを直に受けてしまった彼女の体が吹き飛び、地面に叩きつけられた。
「うぅー、色々できるなぁ」
地面を転がり衝撃を緩衝したアリスが笑いながら立ち上がる。
そのまま流れるような動きで右手をスカートに突っ込み、新たな拳銃を取り出した。
「ていうか強すぎなーい?普通の個人色なら分かるけど…いや分からないけど。けどキミが再現してるのは「灰」とか「銀」とか「向日葵」とか「桃」とか、そういうのばっかりだよねぇ。コピー系の能力だったとしてもやりすぎさぁ」
時間を稼ぐべく、ベラベラと喋りながら銃口を向け、ジリジリと後退するアリス。
逃げる兎を狩る獅子のように目を滾らせた空海はそれを見逃すはずも無く、一拍置いて再び猛スピードで突っ込んでいく。
「そりゃ、コピー系じゃないからじゃなーい?」
「ゲームとかやったコトないんだ?キミみたいなのは明らかにバランスブレイカーさぁ。興醒めだよ。どうかしてるんじゃない?」
「じゃあ、どうかしてるんじゃなーい?」
「通じないなぁ…」
アリスは困ったように笑みを浮かべると、一旦話を切って防御に専念する。
空海という存在は明らかにチートだった。
先に述べた通り、発現する個人色はどれも厄介で特殊なものばかり。
しかもそれを瞬時に切り替える事が出来る。
流石にこの世の全ての個人色を再現は出来ないだろうが、2つの個人色を両立する事すら許されていないこの世界で、彼女の存在は明らかに異質だった。
それに見たところ、特に大きな制約やリスクがあるようにも思えない。
これは本当にあり得ない。
こんな化物が存在するなら、彼は一体どうなるというのか?
彼の犠牲は全くの無意味だとでも言いたいのか?
「…ホント、神様ってのは酷だねぇ」
アリスは小さく呟く。
そして防御から一転、捨て身の反撃を開始した。
目の前に展開される巨大な炎の壁。
どう見ても空海の「赤」の個人色のせいだろう。
それを知ったアリスは、自身のダメージも気にせず炎の壁へと突っ込んでいく。
暑さは無い。感じる器官は最早残ってはいない。
しかし服や髪に飛び移った炎は煌々と燃え上がり、一瞬で彼女の体を包み込んでしまう。
「嫌だねぇ…」
そう言いながらアリスは大きく右手を突き出した。
狙いは炎の壁の向こう側に居る空海。
頭さえブチ抜ければ、あんなチートじみた人間でさえ即死だろう。
そんな考えから全力で壁を突き抜けようとする。
――右手が壁を出た。
それを視認した瞬間、アリスは迷い無く引き金を引いた。
位置は分かっている。
自分は絶対に外さない。
そしてこの距離では、さすがの空海でも反応出来ない。
しかし…。
「――待ってたよ」
空海は銃口が自分の顔に突きつけられる事を初めから分かっていたように、その場で大きな笑みを浮かべていた。
個人色が「赤」から「鋼」へ変わる。
そして――引き金を引かれるよりも早く、銃口を噛み千切った。
「…は?」声を失うアリス。
だが無情にも銃の先は地面へと吸い込まれるように落下し、カツンと音を立てた。
「はい、終わり~」
その言葉が聞こえると同時、アリスの視界を空海の掌が埋め尽くす。
気づいた時には遅かった。
そのまま顔を鷲掴みにされると、少女のものとはとても思えない力で地面へと叩きつけられた。
「ぎゃっ!」
地面と衝突した瞬間、体が堪らず軋みをあげる。
体を構成する要素の全てが粉々に破壊される感覚。
もはや腕すら満足に上がらない筈だ。
それを悟ったアリスは、即座に戦う事を放棄した。
「ちょっとタンマタンマ!ボクの敗けでいいからストップ!」
必死の声にピクリと耳を動かした空海が、今にもトドメを刺そうと右手の人差し指をアリスの眉間に当てる。
「敗けたら死ぬんでしょー?」
「それはそうだけど、敵を倒したら普通は情報を聞き出したりするもんじゃないかなぁ?」
「そう?」
「そうだよ。キミは気にならない?ボクがどうして…」
「別に」
刹那――「鋼」の個人色が「銀」に変わった。
アリスの目の色が変わる。
だが…すぐに、自分の死が避けられないと理解した彼女は抵抗を止め、もう一度笑顔を浮かべてみせた。
「あぁ、そう」
どこか気の抜けた声。
その声ごと斬り裂くように、銀の一閃が放たれた。
つまらないものが1つ。
それは変化が無いもの。
面白いものはたくさん。
それは派手に彩られた、巡るましく変化するものたち。
世界は大抵、その2つで出来ている。
ルミーナ・エストアリスの世界はまさしくそんな、白と黒がハッキリとした「モノトーン」な世界だった。
一見同じもののように感じられる空も海も、その全てが変化を止める事は無く、それ故飽きる事は無い。
人もそうだ。
昨日と何も変わっていないように見えてその実、毎日変化を続けている。
それがアリスの、異常とも呼べる熱を持つ、類稀なる好奇心を刺激するには十分だった。
だからこそ彼女は…機械族という存在そのものに辟易していた。
盲目的に神を崇拝する者、己の不甲斐なさの遠因を他人になすりつける者、他人を引きずり下ろす事にのみ快楽を覚える者。
それらは全て、思考を放棄した者のなれの果てなのだろう。
比べてどうだ。
過去の女に苛まれながらも葛藤を続けるロイズ・フェデラー。
何度強敵と相対し破れようとも、挫ける事なく立ち上がり続ける才波凛月。
そしてもう1人。
持てる全ての悪辣を投資し、何事か成し遂げようと不毛にも生き続けるあの男。
どんな逆風に襲われようとも歩みを止めず何かを求める、そんな姿を目にする度アリスの胸の内には、期待に似た感情の渦が巻き起こっていたのである。
いやそれは憧憬であったのかもしれない。
だからこそ彼女は彼らに肩入れをし続けた。
時にそれが味方であるはずの者たちを裏切る行為である事には勿論気づいていたが、どうでもよかった。
目的のために手段を選ぶ必要は無い。
今まで散々手段を間違えておいて、今更何を迷う事があるだろうか。
思うに人生とは「道」である。
となると目的とはその道の終着点に、手段とはその終着点へ至るまでの分岐点と例えられるだろう。
つまりどんな悪辣な手段を用いようと、目的さえ見失わなければ道を外れる事は無い。
最短ルートを選ぶためには「効率」が要る。
人の倫理というのはルート選択に余計な制限やバイアスをかけるだけの、本来不要なものであるのだ。
不要なものは切り捨てる。
彼がそうしていたように。
それなのに…あれは何だ?
全てを切り捨てて突き詰めた彼の終着点を、そこに到達するまでの血の滲むような努力を、その遥か頭上から見下ろし、薄ら笑いを浮かべながら軽々と飛び越える者が居る。
分からない。
分からない、分からない、分からない。
結局この世は才能なのか?
凡夫が努力を10年20年と積み上げたところで、天才がその気になりさえすれば1、2年で追い越せるのか?
それが世界か?それを本当に許していいのか?
天才と呼ばれ、もてはやされ続けて来た彼女でさえそう思うのだ。
彼がどんな闇を抱えているのか、それを推し量ることは叶わないだろう。
もし世界の創造主たる神とやらが居るのなら、これだけは聞いておきたかった。
――こんな世界で、誰が彼を肯定する?…と。
彼は今も独り、闘い続けている。
本当なら彼の傍に居るのは「誰か」などではなく「自分」でああるべきだと、そんな強い言葉の1つも言えるべきだったのだろう。
だが彼女は知っている。
それを言う資格は自分にはないから。
言えるほど強い心を持っているわけではないから。
だからこそ、その「誰か」とやらに彼を肯定してほしいのだと。
――ボクの出番はここまでかなぁ。そろそろ寝る時間だねぇ。
彼女は自分が、彼のストーリーのヒロインではないことを知っている。
だから今はただ瞼を閉じて、微睡みの中にこの身を委ねよう。
いつか再びこの目を開いた時、世界がより美しく、希望に満ちることを夢見て。
止まった時計の針が、また回り出すことを信じて。
――今はただ、深い眠りにつけばいい。
タイトル訳「乙女は静かに微睡みに落ちていった」