4章29「其の冠を被るのは」
気がつけばライラは、どことも知れぬ場所にうつ伏せで転がっていた。
頬に触れるのは冷たい地面の感触。
よろよろと立ち上がり何とか自分の様子を確認すると、案の定ボロボロだ。
しかし不思議な事に、痛みは無い。
それどころか脳はクリアだ。
アドレナリンのせいでそうなっているのかどうかは分からないが、どちらにせよ都合のいい事に代わりは無い。
やがて完全に立ち上がった彼女はぐるりと辺りを見渡した。
なにやら妙に殺風景な場所だ。
どこにでもありそうな景色で、木や草は生えているがそのどれもが灰色にくすんでおり、とてもではないが生きているようには思えない。
地面も、空もそうだ。
まるで色が失われてしまった世界のような…。
そんな事を考えていたライラは不意に、この場所に見覚えがあることを思い出した。
間違いない、此処は…。
考えるよりも先に身体が動いていた。
灰色の草を躊躇い無く踏み歩き、ずんずんと先の方へ。
その足取りは記憶に沿って歩いているというより、身体に染み付いた癖に従って歩いている、という表現の方が正しかった。
それもそのはずだ。此処は彼女にとって…かけがえのない思い出の場所なのだから。
前進を続ける彼女の前に、すぐに舗装された細い道が現れる。
そこにぴょんと飛び移り道の先に目を凝らすとその先には…無骨な形状をした1つの長いベンチ。
そのベンチに既に座っている先客に、彼女は見覚えがあった。
…いや正確にはその先客とやらは、瞳の色以外はライラと全く同じ風貌をしているのだが。
「キキ様!」
ライラが呼びかけると、キキがくるりと振り返る。
そしてニヤリと笑みを1つ。
「どうやら上手くやったようじゃの。…見てみぃ」
顎でクイッと示すキキに釣られて、ライラの瞳もスッと動く。
「思っていたのとはちと違うが、概ね思惑通りじゃろう。此処はビクトールの精神世界と見て間違い無かろう。その証拠にほれ、見覚えのある景色が並んでおろう?無理やり継ぎ接ぎした故、少々歪にはなっておるが、よもやそんな些事で文句を言うわけにもいくまい」
「良かった…」
ライラがホッと安堵の吐息を漏らす。
しかしすぐに表情を引き締め直す。
「それで…お兄様は?」
「まぁ…すぐに分かる」
不穏なキキの声音に、ライラに一抹の不安がよぎる。
もしかして間に合わなかっただろうか。
最悪の結果ばかり浮かんでしまい、儚げに瞳を揺らすライラに…。
「…ライラ」
――懐かしい声が掛けられたのは、ほぼ同時の事だった。
聞き間違いようがない、この声は…。
「お兄様!」
目尻に涙を溜めながらパッと顔を上げるライラ。
だがその嬉しそうな表情も、目の前に広がる光景を見てすぐに引っ込んだ。
「お兄様、それは…!」
目の前に居るのは間違いなく兄、ビクトール・グレイリアだった。
しかし彼に生前の面影は無く、身体は完全に機械化を終えており、更にはその体も7割がた拉げて歪んでしまっている。
立っているのもやっとだろう。
いやこの姿を本当に、立っているなどと言えるだろうか?
灰色の大木に寄り掛かる事でしか体を固定する術を持たない彼の姿は酷く痛々しく、とてもじゃないが平静を装って見ていられるものではなかった。
「ライラ、久しぶりだ。暫く見ない間に成長したんじゃないか?見違えたよ」
「そんな事よりお兄様!ご自分の体の心配を…!」
再開を祝したい状況だったが、彼の外傷の深さがそれを許してくれない。
慌てて駆け寄ろうとするライラに、ビクトールは静かに首を横に振った。
「僕の事はいい。元よりガタガタの体だ。これくらいの覚悟は出来ているさ。…それより」
ビクトールは言い聞かせるように優しい言葉を掛けると、視線を空へと向ける。
「時間が無い。この空間にも僕の自我にも限りがある。だから重要な事だけ話す」
ビシビシと、空間に亀裂が入るような不安定な音が響き渡った。
どうやら時間が無いというのは本当らしい。
ライラは話したい気持ちをグッと堪え、兄の言葉に耳を傾ける事にした。
「…分かりました。聞きます」
「いい子だ。まずはそうだな…アレックス・ヴィラ・グランガイルについてだ。彼の目的と、そのために何をしたかは知っているかい?」
「はい、ある程度は。機械化計画成就のため数々の人体実験を行い、お兄様や私をその毒牙に…」
「そうだ。だがそもそも、僕らが彼に選ばれたのには理由がある」
「え、それは…機械化計画の成就に私の異能力を利用するためじゃ…?それにお兄様は、研究所の襲撃により大怪我を負ったと聞きました」
「あぁ、それは確かに正しい。でも僕らが、いや僕が、選ばれたのには他に大きく理由がある」
ゴクリと唾を飲むライラの前でビクトールは一呼吸置くと、
「…ですよね、キキ様」
そう言って、その瞳をライラの横に居るキキへとスライドさせた。
「え、キキ様…?」
驚きの表情を浮かべるライラに取り合う事無く、キキは1歩前へ出て口を開く。
「そうじゃ。お主が機械化計画の最初の成功例になったのも、研究所の襲撃によって大怪我を負ったのも、全ては1つの原因、儂の責任だと言えよう」
そして今度はしっかりとライラの方を見据えて言った。
「聞いていけ。…あの日何が起こったのかを」
――およそ200と数年前、今は名も無き1つの集落で、1つの隕石が土より掘り起こされた。
それは遥か昔に空より飛来し、地球に降り注いだ超高密度なエネルギー体、個人色という名の能力を生み出すに至った神の如き力を有したものたちの1つ。
更にその中でも飛び抜けて純度が高い、世界にも数個しか発見されていない隕石のうちの1つだった。
「未来」を司る能力を持ったそれは隕石に相応しくなく、人の言葉を理解する力も持ち合わせていた。
たかがエネルギー体にそんな芸当は可能なのか、疑問が尽きないが実際に起これば信じるより他に無い。
そしてその隕石は、北欧神から名を取って――キルスティ・スクルドと名付けられた。
彼女を発見した人々は、すぐにその恩恵を受ける事になる。
元より超高密度のエネルギー体。
1つ有るだけで今まで使っていたほとんど全てのエネルギーを担う事ができ、更には「紫苑」色、正夢を視る異能力まで持っていたのだ。
その未来視はまるで関係ない遠い未来の事象から、すぐにでも訪れる近い未来の事象まで。
神を信仰する人々にとって彼女は文字通り、「神」という存在そのものだった。
ただしその彼女でさえも依り代…つまり誰か人間の身体に憑依しなければ十分な力を発揮する事は出来ない。
勿論依り代は誰でもいいわけではなかった。
誰よりも清く、誰よりも聡明で、そして誰よりも彼女に気に入られた人物。
そして依り代には――当時のグレイリア家の娘が選ばれたのだった。
「ちょ、ちょっと待ってください!ぐ、グレイリア家…?」
ライラの焦ったような声でキキの話が遮られる。
だがそれも仕方ない事だろう。
グレイリア家が話に絡んで来るならば、それはもうライラにとって他人事ではない。
その反応はキキにとって想定内の事だったのか、彼女は特に取り乱す様子もなく淡々と言葉を並べ続ける。
「聞き間違いではないぞ。そもそも、お主が儂の依り代となった事も偶然ではない。儂とお主が出会った事自体は偶然と呼んでも差し支えない事象じゃが、それ以降は全て必然。…いやそもそも、この出会いすらも必然と言っても過言ではない」
「そんな…強引すぎます!」
「お主は運命というものを誤認しておるようじゃ。それは無限の広がりを見せているようでその実、幾重もの複雑な糸が絡んで出来ておる。そこに可能性の介在する隙間は無い」
キキがそう言い切って見せると、ライラは大人しくなった。
どうやら納得したと言うよりは、唖然として言葉を失ってしまったようだ。
だがそれはどうでもいい。
「話を戻すぞ。儂の依り代たる役目は代々、グレイリア家が引き継いでおる。当主が死ねばその跡継ぎへ、その跡継ぎが死ねば更に次の跡継ぎへ。当主でなくとも血の繋がりがあれば構わぬ。兄から弟へ、姉からその妹へ継がれる場合もあった。そしてそれは…ビクトールとて例外ではない」
「…そう。アレックス・ヴィラ・グランガイルに嵌められたあの日、僕の中にはキキ様が居た」
ビクトールのその告白に、ライラは素っ頓狂な声を上げた。
「え!?そんな事今まで一度も…!」
「依り代の後継は最重要機密事項だったんだ。僕も引き継ぐまではキキ様の存在すら知らなかった。だが仕方のない事だとは思う。誰かに知られれば僕らは間違いなく、キキ様の力を悪用したい輩に命を狙われていただろう。現にアレックス・ヴィラ・グランガイルはそうだった」
「何故あ奴が依り代の件を知っていたのかは定かではないが、あの日あ奴は間違いなく、その情報を知った上でビクトールを手に掛けようとした。そしてひいては儂の力を我がものとしようとしておった」
「だが黙って策に嵌る僕らじゃない。最悪の事態に備えて、キキ様を守る術は心得ている。だからあの日僕は、捕まる前にキキ様を元の石の姿へと戻した」
「裏を掻いてやったという事じゃ。あ奴はそんな事、夢にも思わなかったじゃろうな。儂は当時グレイリア家に仕えていた家系、ハンニバル家に預けられた。そしてビクトールが手に掛けられたあの日、ハンニバル家はいち早く街を脱出したのじゃ」
「キキ様を手に入れる計画が頓挫したアレックス・ヴィラ・グランガイルは、その腹いせのように機械化計画を進めていった。その結果僕はこんな姿に成り果て、ライラもあんなことになってしまった。それだけは本当に済まないと思っている」
「そんな…謝らないでください」
どうやらライラに彼らの行いを責めるつもりは無いらしい。
予想は出来た事とは言え、それにビクトールは喜びを隠せない。
「そう言ってくれると救われた気持ちになるよ。…話を戻そう。機械化を終えた僕が君を連れて逃げ出したのは知っているね?アレックス・ヴィラ・グランガイルは僕という依り代にご執心だった。だから逃げ出した後も執拗に僕を追い続けていたし、実際にロイズ・フェデラーに狙われ、再び捕らえられた。その件に関しては君の方がよく知っているだろう」
ビクトールが言っているのは、ライラが凛月たち率いる地下都市の人間に保護された日の事だろう。
あの日寝たきり状態のライラが保護され、結果、キキ様の居る地下都市へと連れていかれたのは偶然では片付けられない事だと言える。
「そんな事が…ん?でもちょっと待ってください」
「何だい?」
「アレックス・ヴィラ・グランガイルはキキ様を手中に収めようと画策していたんですよね?なら何故、彼に派遣されたロイズ・フェデラーは私の命をも狙おうとしたのでしょう?それも2度もです」
「お主の身体に儂が居る事を知らんからじゃろう」
ライラの問いに答えたのはキキだった。
「グレイリア家が依り代を引き継ぐシステムじゃという事は、ごく限られた一部の人間を除き他におらぬ。よもや、あんな陰気な科学者如きが小耳に挟むなどという事は、天地がひっくり返っても有り得んのじゃ」
「キキ様の言葉は大袈裟だがそういう事だ。ここまでがアレックス・ヴィラ・グランガイルの真の目的についての話。何か質問はあるかい?」
チラリと視線を向けられると、ライラはすぐに首を横に振った。
「…いいえ、ありません」
「よし。では次の話。…何故僕が、いや正確には僕の精神が、こんなにも歪に破壊されてしまっていたのか」
凛月たちが初めて交戦したクレッセント…もといビクトールは、既に精神が崩壊し、人語を介す事が出来ない状態だった。
様々な人体実験の後に機械化されたから…そう考えるのが自然だが、よく考えるとそれはおかしい。
なぜなら…彼を除く他の機械族は、全て人語を介する事ができ、少なくとも意思の疎通を図る事が出来たからだ。
では何故、ビクトールのみがこんな事になっているのか。
「鍵となるのは「個人色」だ。…ライラ。君は僕の個人色を覚えているかい?」
「はい、勿論です。…「黄」色」
「そう。僕の個人色は「黄」色…だった」
「だった…?」
言葉尻に違和感を感じ復唱するライラは…しかしすぐに何かに思い至ったように口に手を当てた。
「機械化された後の僕は、少なくとも「黄」の個人色を使った事は無い。覚えているだけでも「他の生き物から生命力を吸い取る」異能力、「周囲の異能力を阻害する」異能力、「水を操る」異能力など…それらは全て、機械化前には持たなかったものだ」
「個人色が変わる…?それはまた無茶苦茶な話じゃのう」
訝し気に腕を組みなおしているのはキキだ。
「個人色は生まれ持つ色の事で、しかもそれは1人に1つ。個人色が変わるなんぞ聞いたことも無い上、個人色を複数個持つ人間の話なんぞ聞いたことも無い」
「その筈だった…人間のままなら。アレックス・ヴィラ・グランガイルが熱心に研究していたテーマの1つにこんなものがある。…『個人色の対人付与及び、並列保持』」
「…初耳じゃ」
それを聞いたキキが不快そうに眉根を顰める。
その事実が本当なら、機械化計画の真の狙いは…。
「そう。アレックス・ヴィラ・グランガイルは自身の身体を機械化すると同時に、他の個人色を手に入れようとしていた。つまり…」
「文字通り儂の能力を我がものとしようとしておった、という事か。何とも胸糞の悪い話じゃな」
依り代云々などという話は所詮、キキ主体で異能力を考えた時のことに過ぎない。
そもそもキキの異能力を奪ってしまえば使いたい放題…グランガイルはそう考えたのだ。
「だが勿論そんな簡単な話じゃない。リスクは多い」
そう言ってビクトールは顔を上げる。
「個人色は個人そのもの。それを切り貼りし、他の個人に無理やり捻じ込めば、精神の崩壊はもはや避けられない。僕がいい例だ。強大過ぎる力を手に入れた代わりに自我を失ってしまった。僕の機械化はそれを確認するための人体実験でもあったんだ」
「…その研究は危険すぎるな」
「幸い、完全に成功とはならなかったようだ。その証拠に他の機械族の個人色は1つしかないだろう?危険すぎる研究として禁じられたんだ。だが…もう1人だけ、その技術を用いて複数の個人色を発現した者が居る」
「それは…誰ですか?」
ライラがゴクリと唾を飲む。
その目の前でビクトールは一拍間を置くと、重々しく口を開いた。
「…アレックス・ヴィラ・グランガイルだ。彼は個人色の基本の12色のほぼ全てを同時に発現する事が出来る」
「そんな…」
「だがその絶大な力と引き換えに彼の精神は崩壊寸前だ。つまり、まだ勝ち目はある」
ビクトールはそう言って、絞り出すように言葉を重ねた。
「頼む…彼を止めてくれ。彼はもう人間じゃない。そんな奴を止める事が出来るのは人間しか居ない」
「そんな大役が私たちに務まるでしょうか?」
「少なくとも僕には出来なかった。それに…もう限界だ」
突如――空間の軋みが勢いを増した。
「きゃっ!」
地響きに耐え兼ね尻餅をつくライラ。
そのライラに向けてビクトールが声を張り上げる。
「早く逃げた方がいい!僕の体はもう保たない!巻き込まれる前に此処を脱出するんだ!」
「お兄様…」
ライラはもう、兄も一緒に助けるとは言わなかった。
分かっていたからだ。
親愛なる兄に、いつまでも幼稚な姿を見せるわけにはいかなかった。
「…キキ様、出ましょう!私の近くへ!」
「心得た」
特に文句を言う事も無くキキが近づいてくる。
「キキ様。そしてライラ。…「未来」は任せた」
未来。ビクトールはそう表現した。
その言葉はライラもそうだが、特にキキに宛てられたものなのだろう。
それにキキは大きく頷いた。
「案ずるな。未来の担い手は既に居る」
「…?」
「儂は以前、アレックス・ヴィラ・グランガイルにこんな神託を与えた。…『希望への際限無き欲望は絶望を生む。絶望を識った汝の前に現れるのは【悠久を冠する者】。彼の者は汝の絶望を裂き払い、未来を拓く希望の証と成るだろう』とな」
ビクトールは初めて聞くその神託にかなり驚いたようで、少し興奮気味に捲し立てる。
「キキ様は知っているのですか?その者が誰なのか。もしや今、此処に来ているのですか?」
「さぁの、儂は予言者ではない。未来を眺める調停者に過ぎないのだから、その者が誰かなんぞは知った事ではない。じゃが…願うくらいは許されておるでの」
そう言ってキキはニッと笑う。
「お主が未来を託したいと願う者。それを【悠久を冠する者】と信じてもいいのではないか?…まぁ何にせよ、あとは我等に任せ、安心して逝くといい」
「…そうさせてください。あぁ…あと、ライラ」
これが最期の言葉だ、そう言わんばかりにビクトールの顔がライラの方へ向く。
機械の顔なので表情は読み取れないが、恐らく彼は今、希望に満ちた顔をしているのだろう。
「2度も最期の言葉を言うのは気が引ける。だから1つだけ」
「何でしょう」
「僕が居なくとも…君はもう、生きていけるね?」
それは問いかけだった。
ライラは精一杯の笑顔を浮かべ、大声を張り上げる。
「…はい!」
その言葉を最後に、ライラとキキの周りを「エメラルド」色の光が包み込む。
本当にお別れの時間が来てしまったようだ。
だがビクトールに悔いは無かった。
話したい事は全て話した。懐かしい家族や友に会う事も出来た。
これ以上何を望めというのだろう。
ただ…。
「もう少し…一緒に…居たかったなぁ」
それは軋みを上げる空の音に遮られ、誰に届く事無く静かに消えていく。
届いて欲しいわけじゃない。
けれど願わくば、その誰かとやらに届いて欲しかった。
光に包まれ消えていく2人を最後まで見つめながら、ビクトールは涙を零す。
いや、それは涙では無かった。
不意に空から降り出した雨がそう見せているだけだった。
ただそれだけ。
それだけの事で、どうしてこんなにも穏やかな気持ちになるのか。
これ以上気力を使う必要の無くなったビクトールは静かに頭を垂れる。
顔に刻まれた一文字の模様から漏れ出ていたいつの間にか消え、その命の灯を静かに消していく。
次第に薄れる意識の中、彼がの頭の中には先程のキキの予言が行ったり来たりを繰り返していた。
悠久を冠する者とは一体誰なのか。
誰であって欲しいのか。
彼の脳内に浮かぶのは、まだ自分が我を失い他者を殺す事しか出来なかったクレッセントだった頃。
なけなしの理性で独り、ライラの眠る「時の棺」を守っていた頃。
まるで知らない他人を守るため奔走していた1人の男の姿。
圧倒的な力を前に屈する事無く立ち向かい、彼を罵倒し、拳の一撃を喰らわせた男の姿だ。
もし未来を変える者が現れるなら、願わくば彼のような。
希望に満ち溢れた者であればいいと思う。
「…任せた…ぞ…」
――その言葉を最期に、ビクトールの永い永い一生は、静かに幕を閉じた。
「――さてと。確か先刻、こんな話をしていたな。「勝った方が正義だ」…と」
黒の巨塔地下3F。
2F分の部屋を無理やりぶち抜いて作ったような巨大な空間、そのど真ん中に1人の男が立っていた。
金の髪に金の瞳。
肉付きのいい体の背後には、黒色の巨大な騎士。
その右腕に持つ長刀は地面に突き刺さり、一枚岩の床に大きな亀裂を作っている。
明らかに床の破壊とは別の意図で突き立てられた刀。
その刀身の真横には…血塗れの青年が1人、うつ伏せに倒れ込んでいた。
「才波凛月…と言ったか?どうだ、「悪」になった気分は?」
「クッソ…!」
安い挑発に身をよじらせる凛月。
しかし身体は震え、上手く立ち上がる事が出来ずにいた。
それを見てロイズはほくそ笑む。
「そうか苦しいか。だが済まんな、私は敗北を知らない。常に「正義」側の人間の私には、貴様ら薄汚い「悪」の気持ちは分からんさ」
ガリッ…と、アスファルトを引っ掻いたような音と共に長刀が地面から抜かれ、黒騎士の手元へと収まった。
「チェックメイトだ才波凛月。貴様には最早、命乞いする時間すら惜しい」
未だ動く事が出来ずにいる凛月に長刀の刃先が向けられる。
どうやらロイズはいつもの遊びとは打って変わり、完全に彼にとどめを刺すつもりらしかった。
それが気まぐれなのか意図してなのか、それは彼の表情からは全く読み取れない。
やがてすぐに凛月の身体全体を覆うように巨大な縦長の影が差す。
しっかりと彼に狙いを定めた黒騎士は、大きく刀を振り上げる…。
「――待ちなさい、ロイズ!」
そんな彼に制止の声が掛けられたのは、振り下ろす直前の事だった。
聞き覚えのある、凛とした女性の声。
その声にピクリと凛月の身体が動く。
ロイズはそれを無表情に見下ろすと、静かに視線を声のする方へとずらした。
その視界の先には、金髪を靡かせた1人の女性の姿。
普段の上品さはかなぐり捨て煤けた顔で睨みつけるその姿は、ロイズの記憶の中の誰かと重なって見えた。
「…消えろ」
ロイズは小さく唸ってその面影を振り払う。
そしていつもの不敵な笑みを浮かべ、彼女の名を呼んだ。
「久しぶりだなアリシア。少し見ない間にこれはまた随分と、薄汚れた恰好になったな」
その冗談交じりの言葉にアリシアは取り合わない。
ただ冷たい瞳でロイズを睨みつけるだけだ。
「…ロイズ。その人を解放しなさい」
「何故?」
「惚けるのはやめなさい。貴方の目的に最大限協力する代わりに、私の目的にも最大限協力する…その約束を忘れたとは言わせません」
「そんな誓約書を書いた覚えは無いな。それに言っている意味が…」
と、そこまで言ったところでロイズは押し黙った。
アリシアの殺気が目に見えそうなほど膨れ上がったからだ。
これ以上挑発するのは、手負いの自分にとって無鉄砲が過ぎると言うもの。
ロイズは演技を止め、普通に会話する事にした。
「貴様の目的は知っているさ。…才波凛月。こいつを探し求めるためにわざわざ海中都市からやって来た…そうだったな?」
「そうです。ですから…」
「だが私の目的を忘れたとは言わせない。そして互いの目的が食い違った時、自分の目的を優先するのは当たり前の事だ」
「詭弁です。彼では貴方の目的を達成できない。それを知っていて攻撃した…違いますか?」
「おいおい、私が好き好んでこいつと戦ったみたいに言うなよ。最初に突っかかって来たのはこいつの方だ。この戦いはいわば防衛戦。貴様に文句を言われる筋合いは無い」
話し合いでは埒が明かない、そう感じたアリシアは珍しく、自分が一歩引き下がる事にした。
「…はぁ、分かりました。では今回の件に関しては追及しません。なので今、彼から手を引いてください。彼はもう戦闘不能です。無意味に敵を殺す理由のは、貴方の理念にも外れるはず」
ロイズは敵を殺す事をあまり好まない。
なぜなら彼には「強敵は一旦倒し、その後のリベンジに期待する」という、一見意味不明な独特の流儀が存在するからだ。
一度交戦した相手は必ず殺す一歩手前で手加減する。
そうして復讐に燃えさせる事で、二度目の戦いで更にスリルのある戦いが出来るというわけだ。
アリシアには到底理解不能だが、その流儀で行くと此処は素直に引くはず。
だが…。
「断る」
何故かロイズの言葉から漏れたのは、拒絶の言葉だった。
それに驚いたアリシアは訝し気に眉根を顰めた。
「何故?」
「それはだな…」
口八丁に何かを言おうと口を開いたロイズの体がピタリと止まる。
理由を短く端的に纏めようとして…何故かジクリと胸が痛んだのだ。
久しぶりのその感覚に少し戸惑ってしまった。
「…未練たらしいのは性に合わないんだがな」
どうやらこれは、性とは別の次元から来る感情らしい。
未だ自分にこんな感情が残っていた事に驚きを隠せない。
それが酷く馬鹿らしい。
彼の胸に一瞬、だが明確に宿ったのは間違いなく…「恋慕」の感情だった。
アリシアにではない、彼女に重ね合わせた別の女性に対する感情。
「話す義利は無いな。それに言っても理解しない。理解しないなら口にするのに意味は無い」
それをロイズは、無駄な感情と切り捨てた。
自分には必要の無い感情だと切り捨てた。
常に切り捨て続けて生きている。
「意味はあります。少なくとも、私の不信は買いました」
アリシアの怒気を押し殺した声が聞こえる。
恐らくこれ以上の遅延は望めないだろう。
次にロイズが何を言おうと斬りかかる、そんな目だ。
だからこそ彼は大きく口を横に広げ、全力で笑い声をあげる。
両手を大きく広げて、彼女の刃を受け入れる。
「来い!守りたいものがあるのなら、自らの手で掴み取って見せろ!」
刹那――「黒鳶」と「金」の光が眩いばかりに輝きを増し、衝突した。
「黒鳶」を象る光は巨大な刀剣へ。
「金」を象る光は巨大な盾へ。
そして互いに全力で放たれた一撃は唸りを上げ、瓦礫を紙切れのように吹き飛ばし、辺り一帯にあるもの全てを抉り取って見せた。