4章28「the Monster named "Wrath"」
――苦しい。
ただ立って歩くだけで、こんなにも苦しいだなんて。
息を吸って吐くだけで、こんなにも苦しいだなんて。
擦り切れた皮膚の表面には血が滲む。
吹き晒す風は傷口に砂を練り込み、その痛みを確かなものへと変える。
知らなかった。
戦うとはどういうことか。
立ち向かうとはどういうことか。
知ったようなフリをして、今まで一度たりとも知ろうとして来なかった。
そのツケがこれだった。
身体が思うように動かない。
何を成した訳でも無いのに、ただ走り回って転んで怪我をして、ただそれだけで何かを成した気になっている。
自分には向いてないんだ。
自分には荷が重い。
自分には無理だ。
そんな思いが身体を引っ張って止まない。
足が重くて、上手く前に進めない。
…だけど。
この胸の内に湧き上がる、灼熱の如く滾る思いだけは。
――決して誤魔化してはいけない。
「ライラァ!ちょっとしゃがんで!」
忙しなく轟音響く戦場に、アガレスの鋭い声が響き渡る。
それを聞いたライラが言われるがままに頭を抱えてしゃがみ込むと、その上をキリキリと不穏な音を立てる扇状斧が通り過ぎた。
一瞬でも回避が遅ければ首が吹き飛んでいたかもしれない。
切羽詰まった状況とはいえ、味方の攻撃で死んでいたかもしれないと思うと、背筋の凍るものがある。
斧は旋回を続けながら真っ直ぐに飛翔し、やがて立ち塞がる巨兵機械族に直撃。
その巨体を強引に押し倒した。
「チッ。やっぱ硬いわねー…」
しかし斧を投げた張本人のアガレスは何とも言えない表情で目を細めている。
釣られてライラが彼女の視線の先へと目を動かすと、既に復帰態勢を整え始めている巨兵機械族の姿。
驚くべき事に、アガレスの扇状斧が直撃したにも関わらずほとんど傷が無い。
足止めにはなったのかもしれないが、それ止まり。
なら確かにアガレスの反応は正しいのだろう。
ライラがそんな事を考えている間に、対となるもう1体の巨兵機械族は彼女たち目掛けて直進を開始していた。
「うわっと…國ちゃん!」
「いちいち呼ぶな!」
アガレスの呼び掛けに噛み付きつつ、國晴が前へ。
「青」色の輝きと共に渦巻く水流が広範囲に広がっていき、壁となって巨兵機械族の進路を強引に断つ。
動きを阻害され固まる機械族目掛け、入れ替わるように扇状斧が水壁ごと貫こうと飛翔する。
だがそれは、直前で飛んで来た月冠によって防がれてしまった。
「ちょっと!兄ちゃんジャマよ!」
月冠の持ち主は、ライラの兄であるクレッセント。
彼とは別の意思を持って動き回っている月冠の下で、両腕に剣を装備したクレッセントが突進してくる。
狙いはライラ。
「させるかッ!」
その進路を妨害するように、横から國晴が突っ込んで来た。
勢い良く振り切った刀と剣がぶつかり、激しく火花を散らす。
一瞬の膠着の後、クレッセントが数歩引いた。
その隙にライラの目の前へと移動した國晴が、振り返る事無く荒々しく吐き捨てる。
「お前は下がってろ!」
「でも、そんな…私だけ…!」
「お前が此処に居て何が出来る!?何も出来ねぇならせめて邪魔にならねぇよう退いとけ!」
何も言い返す事が出来ず、堪らず俯いてしまう。
「ちょっと!そーゆー言い方は無いっしょー?そんなん言ったら涼燕はどうなんの?…ねぇ?」
「僕結構頑張ってないっすか!?…まぁ何もしてないっすけど!」
騒ぎを聞いたアガレスと涼燕が駆けつけて来る。
どうやら2人はライラの肩を持つつもりらしい。
「涼燕のサーチ能力を共有してくれてるだけでもダイブ助かってるわよ。気ィ落とさないでちょーだいね」
「そもそもこの怪獣大行進に割って入るのは無理だね…」
「チッ」國晴がそっぽを向く。
そんな問答をしている場合では無いと、暗にそう告げているようにも見えた。
それを敏感に感じ取ったアガレスも話の矛を収め、敵の方へと視線を向けた。
「しっかしまぁ、どうしたもんかしらねぇ…」
ただでさえ面倒な巨兵機械族に加え、その周囲を飛び回るクレッセント。
更には、今はまだ何もしていないフリッツもいずれ戦闘に参加してくるだろう。
そうなった場合、アガレスと國晴だけでは押し切られる可能性が無いとは言い切れない。
「目下、一番の問題は兄ちゃんだわね。アイツの動きさえ封じれば何とかなりそうなんだけど…いい作戦無いかしら?」
アガレスがそう言ってゴキリと首の骨を鳴らす。
その横でライラは静かに目を伏せていた。
「…ライラ?」
その様子を不思議に思ったアガレスが問いかけると、
「…私がお兄様を止めます」
「へ?」
「ですから…お兄様の相手は私が」
目を丸くするアガレスをよそに、決意の篭った瞳でライラがそう言い返した。
だがそんな簡単に、じゃあ任せたと言う事は出来ない。
「タンマタンマ。言ってるイミ分かってる?あの状態の相手に手加減とか見込めないわよ?」
「分かってます。最悪足止めにはなるはずです。都合のいい事に、お兄様は私ばかり狙っているようですし」
確かに先の戦闘から、クレッセントはずっとライラ目掛けて攻撃を仕掛けているように見えていた。
なら囮としては十分な条件を兼ね備えているようだが…。
「時間稼ぎのために命捨てるんじゃ本末転倒じゃなーい?」
「大丈夫です。そのために今まで鍛錬もしてきました。…ですよね、キキ様?」
ライラが虚空に向けて問いかけると、彼女の瞳の色が薄紫に似た色に染まっていく。
身体の所有権を、彼女の中に居るキルスティ・スクルドに譲り渡した証拠だ。
再び口を開いた彼女の声は先程とは打って変わって威厳のあるものへと変わる。
「即死とはならんじゃろうな。この儂も付いておるでの。しかし、それまでと言えばそれまでじゃ。正直勝てるビジョンは視えん」
「だったら止めてくださいよ〜」
肩を竦めるアガレスの隣でキキは、ふるふると首を横に振る。
再び開いた眼は黒色の光を取り戻していた。
どうやらライラに入れ替わったらしい。
「――それに」
開かれた口から、いつものライラとは違う、凛とした声が紡ぎ出される。
思わず口を噤んだアガレスの目の前で、ライラは大きく深呼吸をすると。
「私は今、とても怒ってるんです」
そんな、一方的な感情を吐き捨てた。
一見何の解答にもなっていないように思えるその言葉。
しかしライラの眩いばかりの瞳は、それが本気であると告げている。
それにアガレスは少し驚いたように、そして少し嬉しそうに頬を緩める。
「…そっか。どうする、國ちゃん?」
そして指示を仰ぐようにくるりと振り返った。
すると國晴は振り向く事無く、ぶっきらぼうに言い放つ。
「俺は最初から反対してねぇ。…比々谷、お前はライラの方を手伝え」
「了解っす!」
「…あと、やるからには犬死なんてみっともねぇ真似はすんなよ」
そう言い残して國晴は駆け出した。
「國ちゃん気が早〜い!」
後を追うようにアガレスも駆け出していく。
取り残されたライラと涼燕は、胸の昂ぶりを押さえつけるように顔を見合わせ、大きく深呼吸を1つ。
そして自分の役割を完遂すべく、足早に駆け出した。
一方その頃、奮起し駆け出したライラを上から見下ろす男が1人。
「…へぇ、やっと動き出したみてぇだな。クソガキ共がうろちょろうろちょろと、目障りったらありゃしねぇ」
フリッツ・ヘンデリックはそう言って、1歩も動く事無く胡座を搔いている。
彼の隣にはクレッセントの姿。
主に従うよう、静かに佇んでいる。
元より読みづらい彼の感情は「柳」色の個人色に遮られ、より一層読み取る事が出来ない。
「ンで、何だ?オメェみてぇなクソガキに、一体何が出来るって?…つーかよ、クソガキはクソガキらしく、コソコソ隠れた方がいいんじゃねぇのか?…何突っ立ってンだよ」
頬杖を突きながらぶっきらぼうにフリッツが吐き捨てる。
その言葉は、今しがた彼の目の前に現れたライラへと向けられたもののようだ。
彼女はあろうことか、全く隠れる様子も無く彼の視界の中心に居た。
いつになくその表情は厳しい。
こんな眼を向けられたのはいつ以来だろうか、そんな他愛も無い事を考えるフリッツの前で、ライラは毅然と口を開く。
「どうせ私を狙ってるんでしょう?だったら逃げ隠れは意味無いです。…全部、貴方の筋書き通りのくせに」
「あァ?知らねぇな。俺の個人色は支配下に置けこそすれ、自在に操作するなンざ出来ねぇ。基本は放置だ」
「…嘘つき」
その棘のある言葉にフリッツがピクリと眉根を動かす。
「誰がオメェみてぇなクソガキに嘘なンか吐くかよ。騙す程の価値も無ぇだろ、思い上がンな」
フリッツは随分と苛立ったようにカタカタと貧乏ゆすりを続けながら、ライラへと更に罵倒を重ねる。
「信じる気が無ぇなら最初から聞くな。どうせ自分に都合のいい言葉しか信じねぇンだろ?女は皆そうだ。自分のオナニーに他人を巻き込むンじゃねぇよ」
「…」
無言で睨み合うこと数秒。
沈黙を破るようにフリッツが立ち上がる。
「耳障りのいい世界なンてモンは幻想だ。自分に不都合な事実こそが悉く真実。…そンな事も分からねぇから、オメェはいつまで経っても弱ぇンだ」
「…確かに私は弱いです。筋力も頭脳も並以下。戦闘経験はほとんど無く、個人色もサポート向き。役立たずと、無能と、そう罵られても仕方無いかもしれません」
「分かってンじゃねぇか。なら…」
「ですが…今の私は誰よりも。戦いたいと、そう強く想ってるんです」
ライラのその言葉に、フリッツは呆れたように露骨に溜め息をつく。
「馬鹿かオメェは?そンなンで何とかなりゃあ誰も苦労しねぇよ。何だ、「必要なのは覚悟」とでも言うつもりか?…くだらねぇ」
半ば予想されたその返答。
それにライラは大きく一歩踏み出し、精一杯の声を張る。
「貴方は知らない!状況を変えるのはいつだって、強い想いだと言う事に!人の想いを軽んじるのは、貴方が人の想いを知らないから!そして何より、人の痛みを知らないからです!」
「…何を言ってやがる?」
「貴方には分からないでしょう!人としての喜びや悲しみ!誰かを想い愛すること!そして血の滲むような後悔と際限の無い苦悩!人を物としか考えず、自分の事しか考えられない不完全な貴方には、到底理解出来るはずが無い感情の持つ力を、貴方は知らない!」
激情に任せて言葉を吐き捨てるライラ。
それが気に食わないフリッツの怒りのボルテージも徐々に上がっていく。
「だからどうしたァ!他人の気持ちなンざ知らねぇよ!知りたいとも思わねぇな!自分は自分、他人は他人だ!分かり合えるなンて事は無ぇよ!あるのは錯覚だけだ!知りもしねぇ他人を知った気になって、温ま湯で傷の舐め合いしてるだけの愚劣なカス共が、いちいち偉そうにしてンじゃねぇよ、反吐が出る!」
「だからこそ私は此処に来たんです!人の想いを踏み躙り、のうのうと生きる貴方が間違っていると証明してみせる!私の想いが正しい事を証明してみせる!」
堂々と突きつけられたその挑発に、遂にフリッツの怒りは頂点に達した。
「だったらやってみろォォォッ!!!」
振り上げた拳から「柳」色の光が溢れ出す。
それに呼応するように隣のクレッセントが、パリッと電気を走らせた後に動き始めた。
その顔は周囲を見回すようにぐるりと一周し、やがてライラを正面に捉えて止まる。
…それが狙いを定めた合図だという事は、誰の目にも明らかだった。
「お兄様…私が貴方を、必ず解放してみせます!」
ライラがそう言って駆け出すと同時、クレッセントが大きく剣を振る。
その一撃は辺り一帯を震わせ、瓦礫の山々を紙切れのように吹き飛ばした。
「――さて、盛大にメンチを切ったところまではええんじゃがのう…」
ライラの挑発を受け、クレッセントが彼女を追い、攻撃を開始してから数分後。
「…うるさいです。キキ様」
当然と言えば当然であるが…クレッセントの圧倒的な戦闘力を前に、ライラと涼燕は逃げる一方を強いられていた。
キキに言われた言葉が余程胸に刺さったのか、ライラは顔を赤らめ、興奮気味に捲し立てる。
「そもそも私たちの役目は足止めなんですから。お兄様の攻撃を一手に受ける今の1分1秒が、アガレスさんたちの力になるんです。作戦通りなんです!」
「その割に死にかけではないか。いつ消えるかも知れぬ命で、作戦通りと言い張られてものう」
「こ、これからですから!」
「威勢だけはいいのう…全く、誰に似たものか…」
因みにキキはライラの身体を借り、身体の支配権を奪う事で発言しているに過ぎない。
つまりどちらが喋っていようと、ライラが一人芝居しているようにしか見えないのである。
それは傍から見るとすごく…分かりづらいし、正直割って入るのはしんどい。
「ちょっとお2人さん!?よくこの状況で悠長に喋れるね!?」
涼燕が悲鳴を上げると同時、ライラを匿っていた岩の上半分が吹き飛んだ。
「オススメは左じゃ」
「分かってます!」
そう言って彼女は勢い良く左側へと飛び出した。
勢い余って2、3回ほど転がってしまうが仕方無い。
そのまま脇目も振らず、別の逃げ場へと移動を開始した。
「ライラちゃん!?このままじゃジリ貧だよ!?」
「分かってます!…あと、ご支援感謝です!助かってます!」
涼燕からピューッと離れつつ、ライラが何か言っている。
彼女から離れさえすれば涼燕に被害が及ぶ事は無い。
その証拠にクレッセントはチラリとも涼燕の方を狙っておらず、それを考えれば彼女の行動は至極真っ当だと言えるのだが…。
「さすがに危なっかしすぎて見てらんないよ!」
涼燕のサーチ能力を共有しているとはいえ、別にこの能力は未来視というわけではない。
左か右かを選択する場面で、その寸前にどちらがベターか判別するのが関の山だ。
つまりこのやり方では、いずれ限界が訪れる。
「奴の言う通りじゃな。意地を張らず、仲間を呼んだ方が幾らかマシじゃと思うがの」
「それは分かってます」
「本当に分かっておるか…?」
文句ありげなキキを無視し、ライラはポケットに手を入れる。
取り出したのは六角形の板のようなもの。
それを両手で掴み上げ、力を注ぎ込む。
すると…その板を中心に、人1人簡単に包み込める大きさの巨大なシールドが展開された。
これは出撃前、イグニスより預かったライラ専用の道具だ。
使用者のエネルギーを使用し、それをそのままシールドに変えるもの。
キキのお陰で莫大なエネルギーを有しているライラにとって最高とも言える相性の道具。
しかしこれは防御専門のシールドに過ぎず、その場を凌げこそすれ、状況を打破するような力を有しているわけではなかった。
「ライラ、上じゃ!」
キキの警告と同時に地面に影が差す。
頭上を見上げるとそこには、既に攻撃態勢を整えたクレッセントが居た。
「くッ…!」
慌ててライラがシールドを掲げると、クレッセントの振り下ろした剣と衝突し、ガツンと大きな反動が襲う。
殴られたような強烈な衝撃、しかし緩和もあって何とか尻もちを付けば耐えられる程度。
早くその場を離脱しようと立ち上がったライラの元へ、更に刃がもう一撃。
今度は勢いを殺し切れず、後方へ吹き飛ばされてしまった。
「ライラちゃん!?…クソッ!」
涼燕が宙を舞うライラを目で追いながら異能力を発動する。
すると彼女の足元に小さな竜巻が巻き起こり、落下の衝撃を緩和してくれた。
更に彼はヘッドフォンに両手を当てると、周囲数mを囲える程の大きな竜巻を生成。
今まさにライラを狙って急降下する月冠を弾き飛ばした。
「あ、ありがとうございます!」
「お礼はいいけど、何度もやるのは無理だよ!」
「大丈夫です!一応作戦はあります!」
「…おっけー。僕は何すればいい?」
文句一つ言わず作戦に乗る涼燕に心の中で感謝しつつ、ライラは大声を張り上げる。
「あちらの月冠を何とかして頂ければ助かります!あとは此方も援護して頂ければ!…出来るだけ、お兄様を私に近づけておきたいんです!」
「無茶言うなぁ…やるけど!」
涼燕は半ば呆れたように首を横に振ると、再びしっかりとヘッドフォンに手を当てる。
どうやら無茶ぶりにもしっかり応えてくれるらしい。
ライラとしては頭が上がらない思いで一杯だ。
――で、作戦というのは何じゃ?
一々身体の支配権を交代して喋るのも面倒になって来たのだろう。
耳ではなく直接脳内にキキの声が響く。
それに対しライラも、口を開かず脳内の声で対応する。
――少し危険ですけど、隙を伺ってお兄様の懐に入りたいんです。
――それは危険どころの騒ぎでは無いな。…何故?
――私の異能力はご存知ですよね?触れた相手と感覚を共有する能力…それを利用します。
――成程。それで奴を妨害するんじゃな?それなら動きは止められるの。
――いえ、そうではなくて。
――…何?
訝しげ声を上げるキキに、ライラは首を横に振って告げる。
――お兄様の脳と私の脳とを半分ずつ共有して…対話可能な空間を作ります。
――そんな事が出来るのか?かなり繊細な技量が必要じゃが。
――私の想像通りなら可能なはずです。
――想像通り?何を根拠に?
――根拠ならあります。…フリッツ・ヘンデリックの異能力です。
――どういう事じゃ?
――それは………ッ!
一旦話を打ち切るようにライラが強く地面を蹴って飛び出した。
直後、今居た場所にクレッセントの剣が振り下ろされる。
一瞬でも判断を誤っていたら即死だっただろう。
「くッ…!」
ライラはクレッセントを視野に入れながら大きくシールドを展開。
そこにクレッセントのニ撃目が突き刺さる。
砕けるシールド。
光を受け乱反射するそれを鬱陶しげに斬り払うと…既にそこにライラは居ない。
彼女は今の一瞬で別の建物の陰へと移動していたのだ。
――彼の能力は「人の身体の支配権を奪う」ものなんです。だから命の無い、無機物を操る事は出来ない。
――機械族なんぞ、どれも無機物と大して変わりないと思うがの。…いや、待てよ。
何かに気づいた様子のキキに、ライラは強く首を縦に振って肯定する。
――そうです。彼の能力は死体を操れないんです。機械族には曲がりなりにも命があります。そんな彼らを操れているという事は…。
――生きている。いや正確には、脳を司る部分に命の一片がこびりついている、という表現の方が正しいか。
機械族に従来の人間のような死は存在しない。
腕がもがれようと首が刎ねられようと血は流れず、核となる脳に支障をきたされない場合、ダメージはほぼゼロと言って差し支えない。
身体の核となるのは脳に埋め込まれた、幾重の層にもなる集積回路であり、感情や記憶は全て此処が制御している。
そこさえ生きていれば、決して死ぬ事は無いのだ。
――お兄様は今、話せるコンディションでは無いのでしょうが、私が上手くことを運ばせられれば、きっと…。
――勝算はある…か。面白い。その作戦、儂も乗ろう。
どうやらキキも乗り気になったようだ。
その証拠に、ライラの瞳の色が紫がかった色へと変わり、身体の支配権がキキへと移り変わる。
――じゃが、お主の作戦を成功させるにはちと小細工が必要じゃの。お主ではあ奴に触れる前に死ぬ。
――キキ様には何か案があるのですか?
――案というほどでは無いがの。先程から観察しているとどうも、操られているとはいえ、以前と同じ振る舞いが多々見られる場面があっての。
――以前…?
わけがわからず首を傾げるライラに、キキはニヤリと怪しげな笑みを浮かべると。
――かつての同士の癖なんぞ全てお見通しよ。…儂に任せろ。
ライラにとって聞き捨てならない事を言い残し、走り出した。
あろうことかクレッセントに真正面からぶつかるような形でだ。
それに気づかないクレッセントではなく、突っ込んでくるキキを斬り伏せようと剣を横薙ぎに一閃。
辛くもキキの頭上を通り過ぎる。
「随分出力が上がっておるようじゃの。それが本人にとって吉か凶か、儂には知る由もない…が」
数度の剣撃を全てすり抜けたキキがクレッセントの足元へと滑り込む。
内側へ近づけまいと即座に足を動かし、彼女を踏みつけようとするがそれも全て空撃ちに終わってしまう。
背後に移動した彼女を追うように、再び剣を振り払い回転するクレッセント。
その途中で…彼の身体の動きが、突如として現れた巨大なシールドに邪魔されてしまった。
「…右脇が甘い。お主はいつもそうじゃった。移動されてから反撃するのでは遅いと再三言ったが、ついぞ直る事は無かったようじゃのう」
首だけ動かしたクレッセントの視界に入ったのは、どこか物寂しげな表情を浮かべたキキの姿。
その右手には六角形の板。
シールドとして飛び出したエネルギーの塊はところどころがクレッセントの右腕へと突き刺さり、歪に噛ませる事で動きを止めていた。
しかしそれが効果を成すのはシールドが砕けるまでの数秒間だけ。
それが過ぎればクレッセントの腕は自由を取り戻し、彼女の身体など一瞬で吹き飛ばしてしまうだろう。
だが…隙は一瞬で充分だった。
「あとは譲る」
そう呟くと同時、キキの人格は波が引いたように静まっていき、代わりにライラの人格が現れる。
彼女の目に迷いは無かった。
キキが作ってくれた隙を無駄に出来るほど愚鈍なわけでも無かった。
「はぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
腹の底から声を上げ、ライラはクレッセントの腰の辺りへ飛び込んだ。
全力の跳躍。
その指先が微かに、冷たい金属の肌に触れる。
触れた先から溢れ出す「エメラルド」の光が眩いばかりに辺り一帯を照らし出す。
やがて薄れゆく意識の中でライラが感じたものは、凍てつく大地を溶かすような、春にも似た暖かく、それでいてどこか懐かしさに包まれたような感触だった。
タイトル訳「”憤怒”と云う名の怪物」