時計の針が止まる前に
少し前に、おじいちゃんが入院した。
検査の結果、大したことはないとわかったのだけれど、今でも覚えている。入院の知らせを聞いたときと、結果を聞いたときの父さんの表情。心配と驚きがごっちゃになって、それから本当に、安心しきったような。
それから、元々心配性だった父さんの次の矛先は、おばあちゃんに向かったようで。
おばあちゃんは、すごく活動的な人だ。週に何回も、なにかにつけてあちこちに出かけていく。
いつまでも若々しくて、時々忘れてしまいそうになるけれど、父さんの言葉を借りると、「いつなにが起きてもおかしくない歳」なのだ。
だから、父さんが心配するのも無理はないのかもしれない。
父さんは、おばあちゃんに、何かあったときのためにと、携帯を持たせようとしてる。
私は、そこまでしなくても、と少し呆れたけど。
そんなわけで、父さんは、おばあちゃんにも使えるから、と何度も説得したみたいだ。
けど、おばあちゃんは未だに頷かない。
だからとうとう父さんは私に説得するように頼み込んできた。はっきり言って、情けない。子供に頭を下げるなんて。
でも、仕方がないから、私は今ここに居るわけだけれど。
結局、私が言っても、おばあちゃんは頷かなかった。
「私にはこれで充分」
そう言って、何かを取り出した。
くすんだ金色が、蛍光灯の光を、柔らかに反射していた。ちらりと見えた蓋の部分は、何度も開けたのだろう。どことなく薄汚れていた。
「懐中時計なんて、随分古いもの持ってるのね」
言ってから、しまったと思った。だめだ、これじゃ、なんか馬鹿にしているみたいだ。
でも、おばあちゃんは私の焦りにすら気付かず、笑って返す。
「携帯電話とかの方が便利、と思ってるんじゃないかね?」
おばあちゃんは、咎めることすらせずに、穏やかに言った。
気分を害しなくて安心したというか、見抜かれているのが悔しいというか、なんか複雑な気分だった。でも、もうとりあえず正直に言ってもいいや、という気になった。
「少し」
おばあちゃんはやっぱり、というようにもう一度小さく笑って、ぽつりと呟いた。私に言っているようで、私に言っていないような、なんとも言えずに宙ぶらりんな言葉。
「でもね、これはこれでいいんだよ」
「ふぅん?」
私はただ、曖昧に返した。おばあちゃんの周りは、なんだかいつでもゆっくりとした時間が流れている。
それに引きずられているみたいに、いつのまにかなんとなく納得させられてしまう、そんなことはしょっちゅうだった。
なんだか、物語に出てくる魔女みたいだ。
「なんせ、これはね、魔女にもらったからね」
そんなことを考えていたからだろうか。おばあちゃんの口から、魔女という言葉を聞いて、私はどきりとした。自分の他愛ない思いつきが見透かされたようで、なんとなく少し気恥ずかしかった。
「ふぅん。どんなひとだったの?」
誤魔化すつもりで訊ねた言葉に、おばあちゃんは嬉しそうに笑った。
「背筋のしゃんと伸びた、綺麗なひとだった。あぁ、あんたの母さんに少し似ているね」
「へぇ」
私は少しがっかりした。私が頭の中で描いていた魔女は、母さんとは似ても似つかない。
うちの母さんは、料理が少し好きなだけの、普通の母親だ。
確かに小さい頃は、私にとっての母さんは、魔法使いのような存在だった。小さな手から作りだされてゆく色んな料理は、私にとっては魔法そのものだった。
もちろん、今は、それがそう珍しくないことを知っている。私は母さんと違って、料理はあまり好きではないのだけれど、多分苦手じゃないと思う。
そういえば、おばあちゃんは時々、台所に立つ母さんをにこにこしながら見ていた。
あれはおばあちゃんが魔女と呼ぶひとと重ねて見ていたのだろうか。
とにかく、考えれば考えるほど、おばあちゃんの言う「魔女」の想像がつかなかった。
だから、私はおばあちゃんに断ってから、改めてその時計をそっと手に取った。
時計は、思いの外、軽かった。
よくよく見ると、蓋の部分に繊細な模様が彫られている。きっと、当時にしては相当高価なものなんだろうな、とちらりと思った。
耳に当ててみると、規則正しく聞こえてくる音が、心地よい。
少しだけ、おばあちゃんがこの時計を大切にしている訳が、わかったような気がした。
あれから、どれくらい経っただろうか。
今、あの時計は、私の手の中にある。
おばあちゃんは、なぜか父さんでも母さんでもなく、私にこれを託した。
一冊の、日記帳と一緒に。
私は、日記帳をきつく抱きしめた。革張りの立派な表紙は、年月を経た今、すっかりぼろぼろになってしまっている。
哀しいことがあったとき、私は今でも読み返す。
そして、懐中時計の文字盤を眺めては、思いを馳せる。
いつの日か、おばあちゃんの出逢った魔女に逢えたなら、きっと、伝えよう。
おばあちゃんは、確かに幸せだった、と。
(初出 2007.4.13)




