魔女の遺言
理論で説明できない『不思議』が、まだ少しだけ残っていました。
それは、魔法と呼ばれていました。
そして、魔法の使い手を、私たちは尊敬と畏怖を込めて、『魔女』と呼んでいます。
一日中、外を駆けずりまわって遊んでいたあの頃。昨日のようにも、遠い昔のことのようにも思えるそのとき。
私たちはまだ、大人たちの言う『不思議』の正体を知りませんでした。
私たちの世界の全ては、遊びの中にありました。友達がいて、思いっきり走り回れる地面がある。それだけで充分でしたし、満足していました。
疲れて、お腹が減ったら、木の実を取ってはみんなで分け合って。そんな、他愛もない日々の繰り返しでした。
ある時、私たちはこんな話を聞きました。
「森の奥に行ってはいけないよ。あそこには『魔女』がいるから」
『魔女』。初めて聞く言葉でした。それが何なのか。どんなものなのか。私たちの中の誰もが、『魔女』というものを知りませんでした。
誰かが言いました。
「確かめに行こう」
好奇心旺盛なこどものことですから、結局はそういうことになりました。
口に出しませんでしたが、みんな私のように、一人で行くのは怖かったのでしょう。
ある日、連れだって森の奥へと向かいました。
こんもりと茂る森の奥には、小さな小屋が一軒、ぽつんと建っていました。少し古さを感じさせる、粗末な小屋でした。
ここまで奥に入り込んだことはなかったけれど、毎日のように遊んでいた森なのに、全然気づかなくて、少し驚いたことを覚えています。
見つけたときには、みんなで歓声をあげて、小屋の前に走り寄りました。けれど、扉を叩く勇気は誰も持てなくて、困ったように顔を見合わせるだけ。
「誰だ」
そうしているうちに、声が響きました。さほど大きくはなかったけれど、よく通る声でした。そして、感情の伺えない、静かな声でした。
驚きのあまり、一瞬、ここから逃げ出してしまいたい衝動にかられました。でも、なぜか足は動こうとはしませんでした。
私たちは、恐る恐る声のした方を振り返りました。
そこにいたのは、すらりとした長身の若い女性でした。夜をうつしたように黒く、長い髪は癖一つ無く、後ろでさらりと結ばれていました。髪と同じ色の瞳は、ついじっと見入ってしまう何かがありました。
その物腰の一つ一つが、田舎にはそぐわない、都会人のような洗練されたものでした。
忘れたくても忘れられないような、美しい人でした。
今思うと、この時点で、私たちはすでに『不思議』に足を踏み入れてしまっていたのでしょう。私は、彼女から目を離すことができませんでした。
何かを言いかけては、何を言っていいのかわからなくなって、そして口を閉ざす。その繰り返しでした。他の子たちも、似たり寄ったりの状態でした。
ふと、彼女は口の端をうっすらと上げました。同時に、感情の伺えなかった瞳に、僅かに温かみが灯ったように見えました。彼女は、少し背をかがめ、私たちをぐるりと見回しました。
「小さな客が訪れるのは珍しい。これもそんなにそろって」
そのとき、彼女の視線が一瞬だけ、どこかに止まったように見えました。でも、気のせいだと、すぐにその考えを頭から追い出しました。
けれど、その視線の先と、その意味することに、このとき気付いていれば、また違った結末になっていたのかもしれません。
彼女は、一通り私たちを見まわした後、改めて問いました。
「何の用だ?」
私たちは、お互い顔を見合わせました。
ややあって、一番年長の少年が口を開きました。
「魔女が居るって聞いて、それで僕たち、確かめようとしたんです」
彼女の目が、すうっと、鋭く細められました。
「そうか。魔女、か」
彼女は、その言葉を舌の上で転がすようにして呟きました。そして、また、問いました。
「お前たちの言う魔女とは、何だ?」
彼は、暫く不安げに視線を彷徨わせた後、おずおずともう一度口を開きました。
「わかりません。人が言うのを聞いただけだから」
彼女は、それを聞いて、声を立てて笑いました。
「これはこれは。知らずに迷ったか」
私たちは、急に居心地の悪さを感じました。
確かに、何も考えないままここへ来たのは、少し軽率だったかもしれない、とみんな思いはじめていました。
彼女はそれを見透かしたように、苦笑を一つ零しました。
「まあいい。せっかく来たんだ。お菓子でも食べていくか?」
私たちは、もう一度顔を見合わせました。
とても、魅力的な誘いでした。でも、なんだかそれが、してはいけないことのように、とても恐ろしいことのように思えて、私たちは何も言えませんでした。
「警戒してるのか」
気を悪くした様子もなく、彼女は言い放ちました。
「そう身構えなくても大丈夫だ。私は、仕事以外では寛大だ」
なにか、ひっかかる言い方ではありましたが、私たちはそれには気付かずに、わっと歓声を上げました。
「じゃあ、頂きます」
小屋の中は、外から見た時よりも広く見えましたが、私たちの家と、雰囲気はそう変わりませんでした。
入ったと同時に、辺りにたちこめる、食欲をそそる香ばしい匂い。
私たちは本来の目的を、すっかり忘れてしまいました。
でも、本当は、私たちはここで疑問に思うべきだったのかもしれません。
私たちを予想外の客と見なしながら、何故、私たち全員分のお菓子があったのかを。
私たちは促されるまま、お皿の上のお菓子に手を伸ばしました。
まだほんのりと残るあたたかさと、優しい甘み。口元が緩むのを抑えきれませんでした。
思わず、次から次へと、手を伸ばしてしまいます。
「美味いか?」
彼女は机の上に肩肘を突いて、お菓子を取り合う私たちを眺めていました。
口いっぱいにお菓子をほおばりながら、少し太めの男の子が無邪気に言いました。
「はい、とても! お母さんのつくるのより美味しいみたい」
私は、その言葉にはっとしました。
それを言った少年は、村で一番のお金持ちの家の子でした。よく、綺麗な絵の付いたお弁当箱だとか、革製の鞄だとか、誰も持っていないようなものを持っていました。
でも、だからでしょうか。上手くは言えませんが、なんとなく、その言葉に不穏な気配を感じたのです。
私はひっそりと、みんなを見回しました。でも、誰も特にそれに気を留めた様子はありませんでした。本人ですら、それに気付いた様子はありませんでした。
ただ、彼女だけが、少しだけ目を見開いて、
「そうか」
と、短く返しました。
不意に、彼女の口元が、少し悲しげに歪められました。
そして、言いました。
「人生最後の食物に相応しいか?」
その時、私は聞き間違いだろう、と、すぐにその言葉のことを忘れてしまいました。
立ち上がった彼女は、また、微笑んで言ったからです。
「お茶のお代わりもどうだ?」
と、何事もなかったかのように。
みんなお腹一杯お菓子を食べ終わった頃を見計らって、女は懐中時計を見やって、言いました。
「そろそろ帰れ。日が落ちると帰れなくなる」
私たちは、それに従って立ち上がりました。
「お菓子、御馳走様でした」
「「「御馳走様でした!」」」
リーダー格の少年が、丁寧に頭を下げました。
私たちもそれに倣います。
いよいよ帰ろうと足を進めかけたとき、あの少し太った男の子がおずおずと言いました。
「その、明日も来てもいいですか?」
私は、少し驚きました。
その子は、今まで何かに執着するといったことが、あまりなかったのです。
彼女はうっすらと微笑みました。纏っている雰囲気は、何とも言えず甘く優しいものでした。
「すまないが」
そのまま、些か気取ったように、こほん、と軽く咳払いをして見せました。
「私が、仕事以外で人をもてなすのは一度だけだ。次は、無いと思うのがいいな」
「そう、ですか。ごめんなさい。今日は本当にありがとうございました」
少年は、なぜか思いの外、ひどく落胆したように見えました。
その時、私はなんとなく、自分がそれっきり、彼女には会わないだろうという予感がしていました。みんなも、同じように思っていたのかもしれません。
私たちは、帰り道、その日のことを何一つ語ることなく、いつものように、散り散りになって家に帰っていきました。
それからひと月。
私は、すっかり彼女のことを忘れていましたし、みんなも語ることはありませんでした。
たまたま私が彼女のことを思い出したのは、あの少年が懐中時計を持っているのを見たからでした。
なぜか、それを見たとき、私は咄嗟に彼女の姿を思い浮かべたのです。
「この時計……」
つい、それが口に出てしまいました。私は、続きを言いかけて、そして口籠もりました。だって、なんと言えばいいのでしょうか。 今となっては、あの日のことは夢のようで。言うのが憚られたのです。
彼は少しきょとんとした後、照れたように笑いました。その時計に、大切そうに目を落としました。
「これ、お母さんからもらったんだ」
「お母さんから?」
彼から、直接母親のことを聞いたのは、このときが初めてでした。
「……お願いがあるんだ」
ふっと、彼の表情が一瞬曇ったように見えました。
「これを貰って欲しい」
私は、もちろん断りました。
そんな高価そうなものを受け取るわけにはいかないのはもちろん、それが彼にとって大切なものなのだと感じたからです。
彼は、譲りませんでした。
「僕は、お母さんから貰えた。それだけでしあわせだから。……それに、できたらあの日のことを覚えているひとに受け取って欲しいんだ」
私はその言葉に息をのみ、結局、それを受け取ることにしました。
私はただ確かめたかったのかもしれません。あの日のことが、夢ではなかったのだと。だから、その言葉がどれだけ重いものだったのか、その時は考えようともしませんでした。
私が時計を受け取った次の日。私たちは、いつものように集まる約束をしていました。
でも、いつまでたっても、彼だけが来ませんでした。
結局、みんなで家まで呼びに行くことにしました。
けれど、呼び鈴を鳴らしても、大声で叫んでも、誰も出てきませんでした。
私は胸騒ぎを感じて、思い切って扉に手をかけました。扉は、あっけなく開きました。
玄関から入って少しすると、中途半端に扉が開きかけた部屋がありました。
私は何気なく部屋の中をのぞき込みました。
すると、揺り椅子の上に、少年が座っていました。
最初、私は彼が眠っているのだと思いました。
でも、近づいてみて、ようやく様子がおかしいということに気付きました。
それから、どうなったのかはよく覚えていません。
気が付けば、私は父と母に、力一杯抱きしめられていました。
そして、彼は死んだのだと聞かされました。
二日後、彼のお通夜がありました。私は、火葬場から立ち上る煙を、いつまでも見送っていました。
彼から託された懐中時計を、ずっと握りしめながら。
私にはある確信がありました。もう一度、会わなければならないと思いました。
だから、私は彼を見送った後、村のはずれの森へと駆け出しました。
さほど走らないうちに、小屋が見えてきました。
私は、戸を叩きました。必死で叩きました。手が痛くなるほど、強く、何度も。
「また訪れたか」
やがて、前と同じように、背後から静かな声が降ってきました。
私は、ゆっくりと、ゆっくりと振り返りました。
どこかうつろな瞳は、まるで、私をどうするのかを考えているように、ふらふらと揺れていました。
やがて、彼女は視線を一点に止め、わずかに目を瞠りました。
「お前、珍しいものを持っているな。そうか。あの子のか」
私は、何も言えませんでした。立っているだけで、精一杯でした。怖くて、足が震えていたかもしれません。
でも、どうしても、彼女から目を逸らそうという気持ちにはなれなかったのです。
「お前だけは気付いたんだな」
僅かに笑いを含んで、彼女が舐め回すように私を見ました。
そして、一歩、足を踏み出しました。
「仕事を終えたら、このまま、去るつもりだった。でも気が変わった」
また、一歩。
「だから、お前にだけ、『魔法』をかけてやろう」
私は、動けませんでした。
彼女が、私の耳元に、その綺麗な顔を近づけて、そうして、囁きました。
「お前が、あの子の分まで幸せになるように」
紛れもなく、哀悼の言葉でした。
哀しい言葉でした。やさしい言葉でした。
まるで、母が、子に向けるような。
彼女は、あの子の死に、確かに関わっていたのだと思います。
彼女も、それを認めていたように思います。
でも、どうして彼女は、私にそんな言葉を残したのでしょう。
あの子の死に顔は、幸せそうでした。何かに身を委ねきったように、眠るように、息絶えていました。
そして、傍には甘い香りが仄かに残っていました。それを思う度に浮かぶのは、彼女の家でほおばった、あの焼き菓子のこと。
見様見真似で作ってみたのですが、ついに、あの時の味を再現することはできませんでした。
彼女のした全ては、ただ、『不思議』の中にありました。
彼女は、間違いなく、本物の『魔女』でした。もちろん、誰にも信じてはもらえませんでした。あの時出会った、彼女の存在すら、何も。
けれど、あれから一度も時を止めることなく、あの時計は、私の傍に在り続けています。
みな、首を傾げます。これが、どうして今日まで永らえてきたのかと。
私は、思います。
私が、彼女の存在を信じている限り、この時計は動き続けるのでしょう。
そして、この時計が動いている間は、きっと、彼女もまだ、どこかにいるのでしょう。
私の話を、全て信じなくてもよいのです。
ただ、『不思議』は確かに存在していたということ。そして、それは、本当はとても優しいものだったということ。
どうか、それだけは、覚えていてあげてください。
私はただの、人並みの幸せを手にした老人でしかないのです。
私は、もう遠くないいつか、きっと死んでしまうでしょう。
でもその時に、この時計も止まってしまったら。……それは、少しだけ、哀しいことだと思うのです。
だから、ここに記しておこうと思います。
しあわせに。
それが、魔女の、ただ一つの願いであり、遺言でした。
(初出 2007.4.19)




