虹を、待っていた
雨音は、微かに響く。
そして、追憶を誘う。
*
がらんと広い部屋の中。柔らかそうな絨毯の真ん中に、少年が一人座っていた。色鮮やかな図鑑を床に広げてはいたものの、心ここにあらず、といったように、片方の手は絨毯の模様をなぞっていた。
不意に、彼は本を閉じ、ゆっくりと立ち上がる。
向かった先は、硝子の扉のついた本棚。枠と同じ素材でつくられた、艶を含んだ飴色に近い木製の取っ手は、優美な曲線を描いている。開いた途端、真新しいインクの匂いがうっすらと辺りに漂った。
少年は、手に持っていた本を不自然な空白に滑り込ませる。それが隙間なくぴたりとおさまった途端、急にこの本棚が押し黙ってしまったような、奇妙な感覚に囚われる。
彼は、やや乱暴に扉を閉めると、改めて部屋を見回した。
本棚と同じ、アンティーク風の家具で統一された部屋。それにありがちな重々しさだけでなく、そこはかとなく上品さも漂う。そんな印象だった。
完全な調和さえ、保っているように見えた。しかし、一方で、どこか不自然さが拭えない。それらは、魂が抜けてしまったみたいにして、横たわっているにすぎなかった。それは、たくさんある他の部屋でも同じだった。あまりにも、生活感のない家だった。しかし、ここは確かに、この少年の家だった。
足音を押し殺すようにして窓の傍へ寄り、カーテンを開けた。霧のけぶるような、青みを帯びた灰色が広がる。
少年の目には、それが夜の闇に等しく見えた。もう、ずっとこの色しか見ていないような気がした。もう、何日外にでていないのだろうか。指を折って、数えてみようとして、気が重くなるだけだと思い直してやめた。
今は彼らに会うことを希んでしまう。彼が誰であろうとも、受け入れてくれる遊び仲間。一緒にいると、家の重さもなにもかも、忘れていられる。
それは、この雨のせいだろうか。ずっと、降り続くのではないかとさえ思う、この雨。ただ、待つしかないもどかしさ。手から滑り落ちて行くような時間。
ここに居たら、不安になる。全てが整ったこの家に、自分は異質なのではないかと感じてしまう。
――この家に恥じない人間に。
週に数えるほどしか会わない、彼の父の口癖だった。
彼は、いつも一緒に外で遊んでいた同じ歳の子たちの、誰よりも賢く強くあることを求められていた。そうありさえすれば、望むものは、なんでも手に入った。
でも、本当の希みだけは、いつも、手に入らなかった。
しゃらん、とポケットに入れていた懐中時計の鎖が鳴った。
彼と、彼の義母とが初めて出逢ったとき、親愛のしるしにと手渡された時計だった。
あのとき差しのばされた、透き通るように白い、華奢な手を、まだ覚えていた。万人を魅了する、甘い微笑みをもつひとだった。
それは時が経つにつれて翳ってきたけれど、少年は、ただ信じていたかった。初めて出逢ったときの、暖かいてのひらの感触を。
慣れた手つきで、蓋を開いた。寂しいとき、この文字盤を眺めることが、いつの間にか癖のようになってしまっていた。
ふと、少年は思い返す。二週間前、一度出逢ったきりの、これと同じような、でも違うものを身につけていた、魔女と呼ばれるひとのことを。
知らず、少年の手に、力が籠もった。
ただ、希んでいたのは、他愛ないしあわせ。例えば、作法を確かめるためのお茶会じゃなくて、お互いに笑っていられるような。
もう一度笑って欲しかったのだ。初めて出逢った時のように。その希みが、過ぎたものだと知っていたけれど。
ざわざわと、うるさいくらいに響いているはずの雨音は、犯しがたい静寂をたたえて横たわっていた。
雨音に紛れて、少年を呼ぶ声がか細く聞こえた。少年は、ゆっくりと振り返る。その瞳に、諦めのような哀しみさえ浮かべて。
少年の目線の先、開いた扉から、ゆっくりと、女性が滑り込んできた。緩く結い上げられた髪も、白磁の肌も、折れそうなほどの線の細さも、まるで精巧な造りの人形のようだった。貴婦人の名に恥じないような、洗練された立ち居振る舞いは、そう遠くないいつか見たものと同じ。
彼女は、僅かに首を傾げて、言った。その顔に薄く、形の整った微笑みを貼り付けたまま。
「お茶にしましょう?」
声には、なんの感情もこもってはいなかった。
少年は、機械的に頷いた。
「はい、お義母様」
形式張った言葉。形式化された呼び名。それは、とても虚ろに響いた。
彼女に続いて歩きながら、少年はそっとポケットの中の時計に触れた。あの時のしあわせが、確かにここにあった。
だから、だから、ただそれだけで、少年は満たされていた。時々、ひどく哀しくなることはあっても、いつだって幸せだった。
気にかかっているのは、ただ一つ。
いつか、自分が彼女の望む自分になったら、そうしたら、今度は笑ってくれるだろうか。
――外の世界を希みながら、彼女の傍を希む、その矛盾に、幼い心は気付かない。
*
虹の下には、未だしあわせが眠ったまま。
雨は、降り続く。空の上の虹を覆い隠すように。
(初出 2007.4.21)




