お父さんは冒険家。
わたしの家には、お父さんがいない。
ただそれは、家にいないだけであって
「ほら、お父さんから手紙来たよ」
お父さんは冒険家なのだ。
気付いたらお父さんは家にいなかった。
初めてお父さんから手紙が届いたのは、わたしが三歳の時。
それからは、一カ月に一回必ず手紙が届くようになった。
五歳のわたしは、封筒をゆっくりと開けた。
『げんきにしてるか。おとうさんはげんきだぞ!
いま、ほっかいどうにいます。さむいなー。』
「おかあさん、ほっかいどうってどこ? あっち? そっち?」
「ええ? ……あ、ほら」
お母さんが指をさしたテレビ。
たまたまやっていた、北海道の特集番組。
「あそこなんだ!」
わたしは笑い、テレビに向かって手を振った。
しばらく北海道にいたらしいお父さんは、ある時突然
『今、おきなわにきています。こっちはあついぞー!
むらさきいものアイスがおすすめだ』
沖縄に行っていた。
手紙から顔をあげ、私はお母さんに尋ねる。
「おかあさん、おきなわってどこ? あっち? そっち?」
「……海の方かなあ。山じゃなくて」
明らかに適当なお母さんの返答など気にも留めず
六歳のわたしは笑いながら、海に向かって手を振った。
それからしばらく沖縄に滞在していたらしいお父さんは、ある日突然
『今、アフリカにいる。暑い。すごく暑い。
しかし、目がよくなった。遠くのものも、すごくよく見えるぞ!
お父さんの視力はきっと、6.0を超えてるに違いない』
外国に行っちゃったらしかった。
しかも視力がよくなったらしい。
おまけに今回の手紙には、
『遠くを歩いてるゾウ』
という題名の下に、超がつくほど下手くそなゾウの絵が描かれていた。
「お母さん、アフリカってどこ!? あっち!? そっち!?」
「……海の向こう側?」
わたしはまたもや海へと向かい、海ではなくてその向こう側に手を振った。
それからしばらくの間、お父さんの手紙ではアフリカの話が続き、
『お父さんの視力は今、10.0だ!』
という手紙が送られてきた一ヶ月後。
『お父さんは今、南極にいる。
白クマがかわいいぞ。だが寒い。
カイロが凍るくらいに寒い!』
お父さんは、外国と呼べるのかどうかも怪しい場所にまで行ってしまっていた。
「お母さん、南極って……」
「南じゃないかしら」
十歳のわたしは方位磁石を取り出し、南に向かって手を振った。
なんとなく、気付いていた。
お父さんから届く手紙は黄ばんでいて
なのに切手は真新しい、その訳を。
気付きたくないから、認めたくないから、わたしは手を振り続けた。
最後の手紙は、わたしが十二歳の時。
中学校に入学する年の三月に送られてきた。
いや、送られてこなかった。
「……切手は?」
切手の貼られていない黄ばんだ封筒を持ってきた母は、小さく首を振った。
「もう、必要ないから」
わたしは切手のないそれを受け取ると、ゆっくりと封を切った。
『小学校卒業おめでとう!
元気でやってるか? お父さんは相変わらず元気だぞ!
それでな。お父さんは今、空の上にいます。
ここはすごく見晴らしがいいぞー。なんせ、空の上だからな!
ここからだと、お前の姿もお母さんの姿もよく見えるんだ。
お父さんには、ちゃんと見えてるぞ。
だってお父さんには、アフリカで鍛えられた自慢の視力があるからな!
でもな。空の上に来たはいいが、どうやって降りたらいいかが分からんのだ。
だからお父さんは、空の上で暮らすことにする。
側にいてやれなくてごめんな。でも、いつも見てるからな。
なんせお父さんには、自慢の視力が以下略だからな!
手紙を書くのもこれで最後になるが、元気で暮らすんだぞ。
お母さんをよろしくな。
追伸。お父さんが良いというまで、空の上に遊びに来るのは禁止だ』
「……こんな馬鹿な手紙、よく百通以上も書けたね」
「お父さん、それだけが楽しみだったもの」
母は笑った。
「余命半年って宣告されて、それから毎日のように書いてた。
その時だけは、すごく楽しそうだった。
大きくなったあなたを想像して、自由に動き回れる自分を想像して。
その時だけは、病院のベッドから解放されるんだって」
わたしはもう一度、封筒に目をやった。
「……封筒に切手を貼ってたのは、お母さん?」
「だってお父さんったら、切手も貼らずに空の上に引っ越しちゃったんだもん。
切手がないのに手紙が届くなんて、おかしいでしょう」
「だから、手紙は黄ばんでるのに切手は新しかったんだね」
「ええ」
「……そっか」
わたしは手紙を丁寧に折りたたむと、封筒へと戻した。
今にも泣き出しそうな母を見て、苦笑する。
「これは、どこって訊かなくても分かるね」
ベランダの窓を開け、空を見る。
雲ひとつない青空。
これなら、見えやすいだろう。
わたしは笑いながら、青空に向かって手を振った。