澱
転写符が再生されると同時に、周囲の空気が静かに変わった。
淡い光の粒が空中に立ち上り、術式に込められた“記憶の映像”が、ゆっくりと姿を結ぶ。
そこにいたのは、イルナ=メルク。
塔の地下、あの「転写の儀」の場に一人で立ち、語りかけていた。
「お兄ちゃん……アレクト」
「あなたは私を忘れてしまっても、私はあなたを忘れない」
「記録に、名前を残す。記憶に、感情を沈める」
「私が沈むことで、あなたを浮かび上がらせる。
それが、私の……選択」
術式陣に座り込む彼女の姿は、すでに消耗していた。
魔力の限界。
記録魔術の干渉。
そして何より、自身の記憶と感情を“器”として差し出すという覚悟。
「だから、もし……私が、もう私じゃなくなったら。
この記録を見た誰かが、私が“選んだ”って、そう記録して──」
そこで映像は途切れた。
断ち切られるように。
アリオス・ヴェルネは、静かに息を吐く。
誰も彼女を殺してなどいなかった。
事故でも、自殺でもない。
イルナ=メルクは、兄の記憶を蘇らせるために、自らの記憶を“澱”として沈めたのだ。
彼女の死後に符を破壊し、術式の痕跡を隠したのは──
「カルシェ。君だったのか」
背後から聞こえた衣擦れの音。
いつの間にか、調査に付き添っていた封印術師カルシェが立っていた。
「……はい」
彼女は逃げなかった。
「イルナは……もう“壊れかけていた”。それでも、止めなかった。
術が失敗して、彼女が……彼女じゃなくなってしまったとき、私には……」
「それで、記録を消したのか」
「彼女の意思を、歪めたくなかった。あの術式が危険で、倫理に反していても──
彼女の想いだけは、残したかった」
沈黙が落ちた。
アリオスは、しばらく言葉を選んでいたが、やがて口を開く。
「それは記録には残らない。だが──」
「はい。けれど、それでも……私の中には、残ると思います」
ふたりの間に、長い時間が流れた。
やがてアリオスは歩き出す。
転写符を懐にしまいながら。
この記録は公式には保存されない。
ただし、ひとつの名前だけは記録庫に刻まれる。
──イルナ=メルク。
術師として、そして、誰かを想い記憶を沈めた者として。
“澱”は、記録の底に沈む。
決して浮かび上がらず、声も届かず、名前さえ残らない。
だが、そこには確かに“想い”があった。
それを知る者が一人でもいるならば──
それでいい。