壊れた筆記符
イルナ=メルクの研究室に残されていたものの中で、アリオス・ヴェルネが最も異様に感じたのは──
割れた筆記符だった。
筆記符とは、魔力を用いて文章を記録するための魔術具である。
魔力に反応する特製の硝子板で、言葉を念じるだけで符面に筆跡が現れる。
術師たちは日常的にこれを用いて記録を取り、符は保存され、管理される。
だが──
この研究室の片隅に落ちていた筆記符は、破片になっていた。
しかも、単に落として割れたのではない。
符面の魔術式が焼き切られたような痕跡を残していたのだ。
「……封印破りの痕にも見えますね」
補佐官カルシェが言う。
彼女は封印術を専門とする術師で、その目は確かだった。
「誰かがこの筆記符を、意図的に“壊した”のか」
アリオスは言葉を押し出すように呟いた。
破壊の理由はただひとつ。
書かれていたことを、消し去るため。
それはつまり──イルナが何かを書き遺し、それを誰かが「見せたくなかった」ということだ。
アリオスは研究室の書棚に目をやった。
記録魔術、転写術、記憶操作、封印、そして……禁術。
彼は一冊の黒い装丁の書に指を伸ばす。
書名は『記憶転写の原理と危険性』──
これは、ギルドの中でも閲覧制限がかかっている文献のはずだった。
「……どういうことだ?」
閲覧記録を見ると、この書に最後に触れたのは一ヶ月前。術師名は――イルナ=メルク。
彼女はこの禁書に、自らの手で署名し、読んでいた。
ページをめくるアリオスの指が、一つの項で止まった。
【記録対象の人格偏移と記憶錯誤】
転写術は本来、事実の記録と保存を目的としたものであるが、
術式の誤用や感情的介入によって、しばしば“記録主と転写先の境界”が曖昧になる。
記憶が“感染”し、記録者自身が別人格を形成することも稀ではない。
また、故意の改ざんや感情による“偏移”によって、
転写された記憶が事実と異なる映像を形成する事例も報告されている。
「……記憶が、感染する……?」
アリオスの思考に、小さな違和感がよぎった。
イルナの死は、自殺に偽装された他殺か、それとも──
“記憶の暴走”による、自滅だったのか?
だがそれを確かめるには、破壊された筆記符の内容を、どうにか読み解く必要がある。
かつてイルナと同じく転写術に関わっていた者、そして彼女が研究室で記録対象として記した“A・M”の正体。
──そこに、答えがあるはずだ。
アリオスは割れた筆記符を封呪の布に包み、そっと懐に収めた。
これは“遺書”ではない。
けれども、おそらくそれは、イルナがこの死を迎える前に遺した、最後の真実だった。