密室の鍵
イルナ=メルクの死が発見されたのは、星合の月の第十九日、午後五刻のことだった。
研究塔の第五階層南端──記録魔術の個人研究室。
扉は内側から施錠され、窓も固く閉ざされていた。
報告を受けた監察官アリオス・ヴェルネは、まずその施錠の状況に注意を払った。
扉の錠は二重構造で、内鍵は物理式、外鍵は魔力刻印式による封印。
開閉記録は魔術文書に残る形式で、術者の署名が記録符に刻まれる。
記録符に記された最後の署名は──イルナ=メルク。
彼女自身が、部屋に入ったまま、鍵を閉めたということになる。
以降、扉は開かれていない。
記録に改ざんの痕跡もない。
「窓の魔術封はどうか?」
アリオスが尋ねると、補佐官のカルシェが首を振った。
「異常ありません。術式も古いものですが、健全に機能していました。外部からの侵入は不可能です」
「密室……、というわけか」
だが、アリオスは思う。
──完璧な密室など、存在するのだろうか。
遺体の検分は、慎重に進められた。
イルナの死因は、「吸気阻害による窒息」。
喉や肺に火傷はなく、冷却符の効果により腐敗も進んでいない。
皮膚には目立った損傷もなかったが、唇にわずかに青みがあり、血中に魔術毒の痕跡が見つかった。
ごく微細な魔術媒介による毒──それは呼吸器から吸収された可能性が高いと見られていた。
だが、その毒がどこから来たのかは、室内のどこにも記録されていなかった。
空気清浄術の記録も、異常なし。
使用された術式の痕跡も、残されていない。
それはつまり、存在しなかった毒によって殺されたという、矛盾。
アリオスは、静かに部屋を見渡した。
机、書棚、記録棚、試験台。
小さな暖房符、壊れた筆記符、封印された筆記具。
どれも乱れておらず、争った形跡はない。
だが──ただ一つ、異質なものがあった。
「これは……?」
床に落ちていた紙片を拾い、アリオスは眉をひそめた。
それは、記録魔術の補助符。
自動記録の際に使用される“受信用”の下位符で、本来は保管棚にあるはずのもの。
だがそれは、破れていた。
裂け目からは淡い魔力の痕跡がにじみ出ており、誰かが術式を強引に破壊したことを示していた。
「記録を、破壊したのか……?」
だが、それは何を意味するのか。
記録魔術は、見たもの、聞いたことをそのまま再現する。
つまり、それを破壊したということは──“見られたくない何か”が映っていたということだ。
アリオスの思考の奥で、小さな警鐘が鳴った。
誰が、何を、隠そうとしたのか。
そしてなぜ、彼女は、何も語らぬまま死んだのか。
机の上には、まだ書きかけの術式が残されていた。
その符文には、奇妙な言葉が書き添えられていた。
『記録保持対象:A・M』
再び目にしたその文字列に、アリオスは立ち尽くした。
──A・M。
それは、イルナ自身の名ではない。
だが、その文字が意味するものを、彼は知っていた。
それは、かつてこの塔に在籍していた、もうひとりの術師の名。
そして、今はギルドの記録から抹消されている人物の名である。