序章
封印研究塔の第五階層は、夜になると音が消える。
石造りの壁が魔術の残響を吸い込み、蝋燭の火だけが、床に揺れる影を描いていた。
アリオス・ヴェルネが部屋に足を踏み入れたとき、そこには既に死があった。
冷えた空気、窓辺にうずくまる人影、そして机の上に置かれた一枚の記録符。
床には、若い女性の遺体があった。
顔の血色は消え、唇にはかすかな紫の痕が残っている。
視線は虚空を見つめたまま動かず、手には、書きかけの術式と壊れた筆記具を握っていた。
彼女の名は、イルナ=メルク。
記録魔術を専門とする若手の術師で、禁術師ギルドの推薦によって研究塔に籍を置いていた。
目立つ存在ではなかったが、報告は丁寧で、数日前まで健康に働いていたという。
──だが、今はもう、何も語らない。
アリオスは、無言のまま現場を見渡した。
部屋には窓が一つ、扉が一つ。
扉は施錠されており、鍵は室内にあった。
窓の外は高所で、外部からの侵入はまず不可能。
術式感知網にも異常はなく、術痕も魔力残滓も見つかっていない。
いわゆる──密室。
そしてもう一つ、不可解な点があった。
部屋の片隅、書架の裏側に、記録魔術用の小型結晶が設置されていたのだ。
その存在は、研究記録とは別の、個人的な記録を残すためのものと推察された。
術式を解除すると、青白い光が宙に浮かび上がった。
そこに映し出されたのは、机に向かって筆記しているイルナの姿だった。
彼女は手元の符に何かを書き込みながら、ふと立ち上がり、窓の外を見て、また机に戻った。
──それだけだった。
録画は、数分の後に唐突に途切れていた。
彼女が倒れる場面は映っていない。
誰かが入室する様子も、何らかの魔術が発動される兆しも、何一つ。
「……まるで“死”だけが編集されているようだ」
誰に向けるともなく、アリオスは呟いた。
それはつまり、
この部屋に誰も入らず、彼女は死んだ、という“記録”しか残されていないということだ。
現場に立ち会っていた記録術の補佐官が、記録符の一部を差し出した。
「これが、彼女が最後に記録していた術式の断片です」
そこには、書きかけの文字列が、数行だけ残されていた。
『転写……記憶、同調式……記録保持対象……A・M』
一瞬、アリオスの心に小さな引っかかりが走った。
A・M──その頭文字は、彼女自身のものではない。
だが、それが誰のことを指していたのかは、まだ分からない。
そして何より、今はまだ誰も知らない。
この密室が、最初から“彼女のために”用意されていたことを──