この人絶対苦労人になっちゃうって真面目の典型~うちの霧隠才蔵さん~
乱世。勢力を幾ら誇ろうが戦で負ければ一転する。それが日常で今日も戦で当主を失い路頭に迷う武士達が今後について話し合っていた。
「武家も大名もお家が無くなればこの末路だが。…恩義こそあらば俺はお守りいたす所存」
亡き当主の残した幼子を囲んだ男達の中で一人、御父上には恩義があると小さな子供に頭を下げると子供を抱き上げた。
幼かった子は男と共に山に逃れ、隠れるように生きながら忍の里に身を寄せた。
他に手段は無かったのか。本当に此れで良かったのか。幼子を連れた元武士の男は未だ、選択が正しかったのか定まらずにいた。
「此の者なかなか筋が良い」
才蔵の一族は人より運動能力が高かった。その逆に人より劣る所もある。それを補うべく辛抱や、決まった時間の使い方、反復訓練を幼少期よりさせられていた。
それもあってか幼子は、上忍に目を掛けらる様になる。幼子は聡く元は武家の者、読み書きも出来、何より物事に対する探究心が強かった。
そして当時の忍頭、大家百地三太夫より才蔵と名を賜った。
「落ちたとはいえ、いつの日かは御家再興をと…何故忍等に」
今まで幼い自分を匿い共に過ごして来た初老の男は、忍とし名を受けた事を話すとがっくりと肩を落とした。
子供はその様子を暫く見詰めると板の間に両手を付け項垂れる初老の男の手を取った。
「今まで世話になりし事、有り難く」
「何とその様な事を…この老いぼれには勿体なきお言葉に」
「もう己で立てる歳。武家ならば元服まではというのであろうが、某は武家ではない。家を再興したとて此の時代。そのような誉れで腹は膨らまぬ事身に沁みておる」
初老の男は世が世ならばこんな所で肩身の狭い思いをし暮らさずとも良かったであろう、まだまだ小さな子供の言葉に瞳を潤ませた。
此処までお守りし必死に育てた積りだったが、此処に辿り着くまで配下の者は自分一人になり十分な事をしてやれなかったと悔やんだ。
「其方のせいではない。父より受けし恩義、もう十分返して頂いた」
小さな頭を自分に下げる子供は、これから先は自分で何とか生きていくと真っ直ぐ男を見上げ言った。
「川の流れがそうであるように、流れ着くのが何処だろうと己がすべき事をするまで」
一人で生きるすべを身に着ける為に忍になると言った子供は、有言実行とばかりに毎日忍の技を身に着けて行った。
「此の時世よ。落ちる所まで落ちるも一興」
「だが...盗みに術を使うとは」
「綺麗事で腹は膨れぬぞ。お前も一緒に来い、才蔵」
仕える先が戦で負ければ仕事を失う。生き延びれば生き延びる程、奉公先が変わる事に嫌気がさしたと言う兄弟子に誘われるまま才蔵は盗賊となった。
「裏門も既に警備が敷かれているぞ?如何する」
「ならばこの横道より塀を超えれば。門戸に集中しているならば此方は人手が薄い筈」
「お頭が才蔵と名付けただけある。お前は聡いな」
才蔵は持ち前の賢さと分析力で盗賊団の参謀として働いた。才蔵は里に残して来た自分の育ての親を養うためと金を稼いでいた。
盗賊が悪い事なのかどうかではなく、日々生きる為。何が悪なのか等と考える暇も余裕もなかった。
その日、いつも一緒に行動していた才蔵を盗賊の仲間へと誘った兄弟子は不在。
抑圧の無い集団はただ意気がり強さを誇張する集団と化した。
「…へぇ。アンタ等、勝てるとでも思ってんの?」
真田の屋敷から武田へと向かう途中、山道で突然現れた忍崩れの盗賊達に佐助は薄い笑みを浮かべると弁丸の乗る馬の手綱を離し馬上の弁丸に目配せた。
「行け」
「だがよ、」
「くっちゃべってる余裕なんてアンタ達にゃ無いんじゃなーい?」
弁丸は一つ頷くと勢いよく馬の腹を蹴り方向を変える。追う様に地を蹴る忍達は少し跳んだ先にバタバタと倒れて行った。
焦る味方とは真逆の余裕を見せるよう、両手に棒手裏剣を構え薄く笑む忍。
蒲の穂に似た珍しい髪色の忍。森深くに住む、あの色を持つ魔獣を知る才蔵は相手が悪いと撤退をと告げた。
だが多勢に無勢だから大丈夫と意気揚々と出て行った者達は瞬時に地面に倒れる。
「くそっ」
「おい、どうなってやがる?!」
残った数名を逃がすよう前に出た才蔵に佐助が棒手裏剣を打つ。刀で薙ぎ払えど次々と刃が目の前を掠めて行く。
「今すぐ撤退と申した筈ぞ」
全滅を避けるには。才蔵は必死に考えるが、其れを伝えても共にいた忍崩れ達は、それでも向こうは一人しかいないと舐め切った態度で助言を全く聞かない。
「ああ、そうだったな。チッ腕をやられた」
「此方はまだ数が居るなぜ逃げる必要が」
話し声に反応した忍は勢いよく棒手裏剣を打ち付ける。
「だからさぁ?喋ってる余裕なんてあんのかって言ってんのっ」
肩を押さえて屈む仲間の横に降りた才蔵は、傷を抱えて目の前の忍から逃げられるか見極めようと相手の動きを凝視し続けた。
無数の棒手裏剣が勢いよく降る。其れを交わし距離を取ろうと負傷した同胞に肩を貸しつつ、才蔵は刀を振り金属のぶつかる高い音をさせながら、ジリジリと少しずつだが確実に距離を開けて行った。
「早くしないと助太刀とか言って戻って来ちまうからさっ、っと」
手持ちが無くなったのか、攻撃が止む。だが直ぐに今度は八方手裏剣が弧を描き自分達に向かって来た。
統率が取れず、倒れる同胞。負傷者を庇うよう才蔵は鎖鎌を振り回し手裏剣をなぎ払い前に出た。
高い金属音が響く。負傷者は無事逃げただろうかと確認するように腰を浮かした才蔵は、突然激しい痛みに顔を顰めた。目の前に赤が飛び散る。
「あばよ才蔵!悪く思うなよっ」
赤の次に見えたのは土色と走り去る草履の裏。才蔵は突然の裏切りに蒲の穂色の忍が、自分から注意を逸らした隙に身を起こすと印を結んだ。
「術使いかよ…さっき留め刺しときゃ良かった」
佐助の周りに霧が立ち込める。佐助は深手を負って尚、術を発する男の様子を窺った。
双方暫く攻防を続けていたが、先に血の量が足りず才蔵の術が解けた。佐助は横たえ動かなくなった才蔵の上に降りると首に刃を当てる。
「佐助!それまでっ」
「はぁ?何言ってんのよ。これは敵。情けなんてかけるもんじゃないですってば」
突然甲高い声が響くと、蒲の穂色の忍は顔を顰めて溜息を洩らした。仕留めぬのかと才蔵は怪訝な視線を向ける。
「情けではない。…此の者の仲間に後ろから斬られて尚、仲間を思う姿に某は感服致したのだ。将とは時に配下を守れる事!そうであろう?」
「そうであろうって、んなの知らない。俺はお武家様じゃないです」
元服前程の幼い子供は、体に似合わず大きな声で手を引くよう告げた。渋々といった感じだったが、忍は才蔵の首元から忍刀を離すと大きく溜息を洩らしながら幼子の隣へ戻る。
「忍殿。其方は仲間の元に帰りたいであろうか?」
幼子は自分の前に屈み眉を下げた。才蔵は霞む目で不可思議な行動の子供を見ていた。
「此奴に仲間なんざいないっての。さっき見てたでしょーが。後ろから切りつけられたんですよ?」
呆れたような物言いの忍。忍如きが幼いとはいえ武家の者に対する態度だろうかと才蔵は思っていた。
「そうか。ならば忍殿!某と共に参られよ」
にこりと幼子は笑みを浮かべる。そして再び忍殿と自分を呼ぶと片手を差し出した。
「何言って…はぁもうっ寝首欠かれて死んだって知らねーかんなっ!」
「この男はそのような事はせぬ。其れに俺が日の本一になるのに術に長けた忍が必要なのだ。父上が国一番と認めた佐助と渡り合えるならばこの忍殿は手練れであろう」
「なっ、渡り合うも何もコイツ負けたの見たよね?っていうか例え優秀だとしてもこの傷じゃ助からないかもですよ?」
佐助と呼ばれた忍は忍にあるまじき嫌そうな気配を駄々洩らし、自分の雇い主であろう御子に抗議している。
「む。そうか。では佐助、至急帰るぞ!」
「帰るぞって…まさか連れて行く気?」
「無論!」
幼子は夕日に染まった顔で大きく頷く。蒲の穂色の髪色も夕日に染まり、燃え盛るような緋色に見えた。
緋色
何が起こっているのか理解が追い付かない才蔵の意識は、緋色に呑まれ其処で途切れた。
気が付けば、手当てを施され寝かされていた。見覚えの無い天井と臭いに起き上がろうとし、脇腹の激しい痛みに顔を顰める。
才蔵は起き上がれず、再び褥の上に背を着けた。記憶を辿り、味方に斬られた事を思い出す。
だが才蔵は別段悲壮感等浮かばなかった。里に残した親代わりの男の身を案じる事のみ思い浮かぶ。そして人の気配に深い息を吐く。
「気がついても起きらんないだろ?その傷じゃ。随分と躊躇無くやられたよなぁ」
最後に見た燃える炎の髪色は、明るい日差しの射す室内では蒲の穂色に見えた。才蔵は男を見る。
「何か?」
「何故殺さぬのか。我等は街道筋を狙ったのみ。特段使えるような物を持っては居らぬ」
怪訝そうな顔で此方を見る忍に才蔵は忍として何らかの情報を取りに居たのではなく、物取り目的で潜んでいた盗賊まがいだと告げた。
才蔵の言葉を興味無さそうに聞いていた忍は、長い布を才蔵の枕近くに置く。
「アンタを手当てしたのは俺。俺の他は誰も来てない。で、今から我が主が来るから必要なら身支度整えな」
才蔵は忍の言葉を黙って聞いていた。あれ程の技量がある忍が、主の命とはいえ怪我の面倒等見るだろうか。忍は大きく溜め息を吐く。
「それ。素性が分かんねぇ忍を懐に入れて、見た者皆殺しなんぞにされちゃ困るからだよ。アンタは俺には勝てない、そんだけ。ほら、直ぐ来ちまうぜ?」
それ。と自分の頭をトントンと指で突く忍は自分より幾分若いのだろうか。
忍に促された才蔵は、一先ず体を起こそうとし激痛に顔を顰めた。才蔵は敵意の無い様子に風をおこすと其を纏い体を起こした。
「なー。それってアンタの固有術?それとも種族のなんか?」
座るような姿勢で、風を操り器用に頭から首元に布を巻く才蔵。その場に座った佐助は興味深気に問い掛けた。
「分からぬ」
才蔵は頭に布を巻き目元以外を隠すと再び褥に背を着けた。佐助は手を貸すつもりは無い様で、随分と器用に使いこなせるもんだと才蔵の術を見ていた。
「忍殿、宜しいか?」
少ししてタンタンと廊下を近付く音がすると襖の前で声が掛かる。動揺するような気配に佐助は苦笑すると「どーぞー」と声を出した。
「佐助、居ったのか。そう畏まらずとも良い。面をあげてくだされ忍殿」
襖を開けると褥の上には居住いを直し頭を垂れた忍と、その近くで胡座で両腕を頭の後ろで組む佐助に声をかける。
「世話賜って居りましたからね」
「そうであったな、礼を申す。して、...如何した忍殿?よもやお加減が悪いのでは?」
忍の様子に首を傾げる弁丸。佐助は動揺を駄々漏らす忍に若干動揺しながらアンタのせいだよ。と人の良さそうな顔を見上げた。
「だからさ、何度も言ってるでしょうが。若君みたいなお武家様が俺等忍に礼を言ったり、お加減如何かなんざしないんですよ」
呆れ顔の佐助が言えば、弁丸はまたそれかと忍の前に座る。
「ふむ。某は幼少より忍と共に暮らして居たのでな。佐助の言うように、忍と人の区別がつかぬのだ許せ。すまぬな」
目の前に座り幼さが残る顔を向けにこりと微笑むと、才蔵に向かってぺこりと頭を下げた。
「ほーらまたそうやって。若君様の頭は気軽に下げて良いもんじゃないですってば」
「ははは。武家の事までも把握済とは、佐助は勤勉だな。弁も見習わねばな」
佐助が顔を顰めれば、弁丸はそれを笑い飛ばす。才蔵は二人の遣り取りを只じっと黙って見ていた。
「うちの主様は終始こんな感じなの。慣れないと進まないから。で、話ってぇのは?」
佐助は才蔵に肩を竦めて見せた後、弁丸の方へ向き直ると話を促す。
「先に忍殿に不調は無いのだな?」
「無いよ。まぁ腑の内迄は分かんねぇけど、外側は良くなって来てますよ」
弁丸の問いに佐助は頷くと才蔵の方を見ながら話す。弁丸も才蔵の方を見ると、才蔵は無言で頷いた。
「ならば忍殿。某は真田昌幸が次男、弁丸と申す。佐助、控えよ。…先ず、了承を得ず此方に連れて来た事、詫びを申す」
じっと才蔵を見ながら話していた弁丸は、途中で腰を浮かせた佐助を制すと、再び才蔵の方へ向き直り頭を下げた。
先に制されているからか佐助は不機嫌になるも微動だにせず沈黙している。
「何と恐れ多き事。面をお上げくだされ。己は忍の身、その様な礼を尽くす相手では御座りませぬ故、如何か」
才蔵は即座に痛む体をグイと曲げる。が、上手く体に力が入らずに地べたに這いつくばる様な、不格好な土下座になった。ブチリ嫌な音が小さく内に響くとズキズキと脇腹が疼く。
「はい、終了。ったく先に言ったろ?この御仁は忍も武家も無いって。…アンタの行動一つで流れなくても良い血が流れた。ちゃんと弁えてくださいよ?ほら」
佐助は才蔵の様子に眉根を寄せると「終了」と大きめの声を出した。
才蔵の側に寄ると、自力では起き上がれない体をゆっくりと起こしてやる。
血の臭いと佐助の言葉に状況を理解した弁丸は、謝ろうと開いた口を閉じ、その場でギュッと拳を握った。
「若君。若君の望む太平の世ならば、武家だの忍だの無いんだろうけど。此処はそうじゃないんです。若君は傅かれるお武家様で、俺等はその辺の石ころと同じ忍」
「だが命は同じ」
いつもの軽い口調では無く静かに話す佐助。途中までグッと堪えていたが、最後の石ころと言われれば弁丸は思わず声を荒げた。
「弁丸様」
「っ、」
佐助は静かに諭すように名を呼んだ。自分を見据える佐助の視線に弁丸は再び拳を握る。
「アンタの言い分は今の世じゃ通らない。其れを通そうとすれば、結果、俺等がこうなるんですよ」
才蔵の脇腹は再び血が滲んでいた。折角上手い事くっついたのにと佐助は眉を下げる。痛みからか才蔵は血の気のない顔を顰めていた。
「ならば、某は…悪いと詫びる事も出来ねば如何すればよいと言うのだ」
「そんなの知らないよ。...寝た方が楽だと思うけど?まぁいいや」
佐助は弁丸の弱々しい声を突き放す様に短く告げると、才蔵の手当てをと寝るよう肩を離す。
が、才蔵は正座のまま、その場を動かない。佐助はこれ見よがしに溜息を吐くと手当てすべく道具を取りに消えた。
「忍殿、某は」
謝ればこの忍は再び深々と頭を垂れ、傷も悪化するのだろう。だが、悪いことをしたら謝る事が己の信条とすらば如何するべきなのか。弁丸は答えが見つからず言葉途中で口を閉じる。
「己は浅井家に仕えし家の出、戦事にて家は果て候。その後忍となり、人呼びて霧隠才蔵と名乗る忍に御座ります。が、選び取りを誤り続け今では賊紛いに落ち果て申した。何卒、殿の御心を煩わす事の無き捨て様置かば御配慮無用に候」
時折くぐもった声を出しながら告げる才蔵は、脇腹の痛みも忘れ目の前で自責の念に顔を歪める弁丸の配慮に深々と頭を下げる。
武家の出と言われれば話し方も先の盗賊らしからぬ仕草も納得が行くと弁丸は思った。
今自分の身分で出来る事。弁丸は力の無い自分に握り締めた拳を更に強く握った。
「なれば才蔵。これより真田忍としてこの弁に仕えよ」
父が討たれ一族皆滅されば他人事ではない。一度捨てた忍を連れ戻しに来る者等居ないと佐助も言っていたと弁丸は思い出すと才蔵を見た。
武士の出で家は既に無く、名を貰う程の忍になるも盗賊まがいの事をしていた。ならば戻る場所もないだろう。
そんな状況でも自分の事は心配も配慮も要らないと武士の様に回りくどく、だがきっぱりと言った才蔵を弁丸は良き男だと思った。
「捨て置かれた物を拾うも拾わぬも弁次第であろう?なれば今日より傷を癒し、仕える様」
屁理屈の様な事を言いながら、弁丸はにこやかな笑みを才蔵に向けた。何故か雇われる事になった状況に才蔵は動揺する。
「何で急にそんな話になってるんです?」
スイと襖が開くと、眉根を下げた佐助が湯の入った桶を手に持ち入って来る。
「ふむ。謝るなと申したであろう。だが弁は悪いと思う事に対して何もせぬのは好かぬのでな」
「のでなって。そんなんじゃ…答えになって無いだろ?ほら、そっちは、まーた困ってますよ?」
弁丸の言葉じりを捕えた佐助は、才蔵を見ると聞こえよがしに溜息を洩らす。
「流石、佐助は弁の忍だな」
弁丸の言葉に佐助は面白くなさそうに顔を歪めた。自分の思いを汲み取ってくれた佐助に、弁丸は満足そうに微笑む。
「…才蔵。此れより弁は太平の世を作る。作り、武家ぞ忍ぞと無くなった後、改めて才蔵に詫びようぞ。その時お主が側に居らねば詫びる事叶わぬ故な。先程、弁は武家の者として忍の其方を拾うた。よって其方は真田が忍として仕える他無くなったと言う事だ」
弁丸の言葉に才蔵は目玉が飛び出るかと思う程に大きく目を見開いていた。まぁそうなるよねと佐助は小さく息を吐く。
「つまりは皆平等の世になったら改めて詫びるから、それまで側で働けって事。諦めなよこういう御仁なんだから」
肩を竦めて言い直す佐助。弁丸の言葉に才蔵は下げていた頭を更に下げ、額を畳に付けた。
「でさ?お武家様同士の御話し合いっての、まだ続けんの?アンタ今は忍だろ?あんまり血が流れんのは拙いんじゃない?」
佐助の言葉に弁丸は立ち上がると、才蔵の身を起こすべく側に屈んで背に手を当てる。
「血止めより武家のしきたりが大事なんてお武家様ってのは色々と面倒臭そうだよね」
佐助は身を起こした才蔵の着物を開けると、ベッタリと付いた血を手拭いで拭き取り、湯で洗うを繰り返した。
才蔵が弁丸の忍として真田の忍に加わって数か月後。武田領で父の鷹狩のお供と出掛けて行った弁丸が行方不明と伝達が届く。
「地の利が無いんじゃ探すのも大変だわ」
軽口を叩くも佐助からは焦りの表情が見える。不明と伝達が来て二日。山深くまで捜索するも、出て来るのは獣のみ。
「少し頭を冷やせ。闇雲に漁れば見落としがあるやもしらぬ」
丸二日、不眠不休で捜索を続ける佐助に才蔵は静かに言葉をかけると竹筒を差し出した。竹筒の水を飲み干した佐助は、ふぅと息を吐く。
「如何程信用出来る」
ぽそりと才蔵の発した言葉に佐助は才蔵を見た。暫く沈黙が続いた後で、佐助は口を開いた。
「アンタを?って事なら弁丸様がしてるのと同じ位にゃ信用してるよ」
ここ数ヶ月、傷が癒えてからの才蔵は凄まじく真田に貢献した。見知っていた知識を惜し気もなく弁丸の為と差し出す様子を、一番見ていたのは佐助だ。
流行り病も、田畑の病も才蔵の薬学の知識は幅広く、死者は減り、作物の状況も随分と良くなった。
「何する気?」
佐助は才蔵に問い掛ける。じっと空を見ていた才蔵は、徐に頭の布を取ると両手を地に付けた。
「我が一族は人に非ず。知っておろう?人には出来ぬ、獣のやり方という物が有らば」
盗賊として術に敗れ担ぎこまれた屋敷で目覚めた才蔵は自分の姿を佐助に見られた事を知っていた。
佐助は知っていて、一人世話をしていた事や主が来る前に面を隠せと布を置く配慮を見せたが、佐助から人ではない事を問われた事は無かった。
「己はまだ未熟。獣とならば、思考が落ちる。よもや主に食い掛るようであらば、異存はない故にこの首落とす様」
そういうと才蔵は地面に着けた両手をそのままに、身を低く構えた。
「当身位で良いだろ?殺したら俺が主に叱られるっての」
ざわざわと才蔵の毛が風に靡く。布から出ている皮膚が徐々に毛に覆われる姿を佐助は恐れる事も無く見ていた。
「…へぇ。初めて見たよ」
特殊な能力を備える獣族という種族がいる事を知ってはいた。其れは人よりも身体能力に長け種族によっては一獣当千とも言われていた。
だが人の姿から獣の姿へと変われるものは滅多に無い。どこの国も喉から手が出る程欲しがる逸材が隣に居たよと佐助は艶やかに光る黒い毛並みの巨大な狼を見上げる。
「アンタさぁ此処に居て良い御仁じゃないんじゃない?」
黒狼。そう呼ばれた今では伝説となっている大昔に神より賜ったとされる獣。佐助はその姿に呆れた声で問い掛けた。
黒狼は問いには答えず、赤く光る目を佐助に一瞬向ける。次の瞬間、黒狼は背を逸らし空気を震わす声をあげた。
黒狼の咆哮に森が揺れる。暫くすると黒狼は、ふわりとその身を崖下に落とした。
佐助も同じく崖から飛び降りた。あんなに大きな獣、易々見失わないと思っていたが。
「素早いんだか、霧に身が紛れてんだか」
佐助は仕方無しと闇に身を溶かした。暗闇で才蔵の気配を辿る。
次に日の目に体を浮き上がらせると、そこには自分を待って居たかのように佇む黒狼がいた。
「主が此処に?」
随分と深く森に入り込んだ様で、濃い霧が漂う。佐助は顔を顰めると、口許を手早く布で覆った。
「早い所見付けないと、黒霧にやられちまう」
佐助は弁丸の気配を探る。が隣の黒狼の気配すら分からない。
「お手上げ。アンタに分かるなら任せる」
佐助は隣を見上げた。黒霧に溶けたように居るか居ないか分からない。ただ瞳だけが火の玉のように黒の中に赤く燃えて見えた。
一つ頷き炎の様な光は更に森の奥へと消えた。暫く待っていた佐助の上に弁丸が吊るされるように降りて来る。
両手を伸ばし弁丸を抱えた佐助は脈を診て安堵した。気を失っては居るが無事の様だ。
「さっさと退散しねーと」
弁丸を抱えた佐助は隣にいるであろう獣に一言掛けて黒霧を抜けようと腰を低く構え地を蹴った。
才蔵と別れた崖まで戻り水を飲ませると、弁丸は目を覚ました。だが不思議な事に何に捕らえられていたのか、弁丸は何も覚えていなかった。
弁丸の無事を知り、武田の領内では宴が催された。翌日佐助は再び黒霧の森に居た。
「あれに当て身で、抱えて戻るなんざ出来るかね?」
獣族は瘴気を浴び続けると本能が理性を喰らうらしい。そう聞いた佐助は、あれが本能のまま人を襲ったらと思うと眉を下げた。
黒霧は才蔵に命を奪えと命じる。頭の中に永遠に響く声に才蔵は必死に抗い、幼い主を忍の元へ託した。
それから出来るだけ遠く、森深くへ走った。それで記憶は途切れた。
「ほら、飲めよ」
うっすらと光が見える。才蔵はゆっくりと目を開けた。そこへ佐助に渡した竹筒が現れた。
「主は」
起き上がった才蔵は佐助から受け取った竹筒を傾け水を飲む。
「無事に決まってんだろ」
佐助はそういうと立ち上がった。才蔵も続く様に立ち上がる。
「担いでやろうか」
佐助が顔色の悪い才蔵を見上げた。才蔵は無言で首を振る。
「倒れてたアンタを手当てしたのは俺。いーい?一回貸しだかんな?」
佐助はそういうとトンと軽く地面を蹴った。才蔵は無言で佐助の背を見送った後、静かに目元以外を布で覆うと同じく地面を蹴った。
お読みいただきありがとうございました。
もう少し成長した才蔵さんは連載の方に出ております。
才蔵:傷んだ渋紙色の髪。細身の長身。切れ長の一重。時代劇の殿様顔(和風イケメン)普段は目以外は布で覆われているため、初期確認時の印象。戦時以外は佐助同様、赤墨色の忍装束。
獣型の時は漆黒の艶やかな毛色。ある程度、大きさを変える事が出来るらしい。
コメント、評価等いただけると大変嬉しいです。