頼むから逃げてくれ
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「これくらいで許してくれませんか?」
理玖から手を離し立ち上がった悠理は身体を相手に向けた。
「おいおい、おまえまさか1人で来たのか?」
「先輩!あいつ秋月だ」
三年生の後ろにいる一年生が悠理を指差した。
「知ってんのか?」
「うん、同じ千里小出身」
悠理は首を傾げた。まるで一度も自分は見たことないなといった風だった。
対峙する9人(1人は一年生)を代表するように背の高い男が突然の乱入者を観察しながら問いただす。
血と唾と砂埃にまみれうずくまり限界を迎えていた結城理玖を守るように立ちはだかった1年生らしき男。背は高くないし体格も良いほうではない。校則をなに一つ違反していない学生服に顔つきも温和な印象だけを受ける。
ここにいる三年生の誰もがこの男にこの場を打開するような強さはまったく感じていなかった。帰宅すればそのまま塾にでも行きそうな優等生特有のべたつきさと日光の押し付けがましい香りのように単調な目障りさがまとわりついている。
こちらにいるのは夜の街を粋がり徘徊するもの達だとしたらまったくその反対側にいるような男。
助けにきた勇気は讃えるがここで終わりには出来ないのだと三年生は思った。
結城理玖の名は三年生の不良グループのなかで知れ渡っていた。
1年生のなかで警戒しないといけない男の1人。
そして今日。背の高い三年生の男は
1年生の後輩が集団で殴られた、借りを返したいから手伝ってほしいと友人に誘われた。
はじめ背の高い男は4人集めれば充分だろと考えていたがよくよく話しを聞くと、向こうのリーダーらしき男は短髪で髪が明るい茶色だったと聞いた。
背の高い男は結城理玖だとすぐに察知した。
あいつは喧嘩強いぞ。もっと人数集めよう。
制裁は必要だ。
そして
するなら徹底的に。
とにかくいま2年生が荒れていた。10年に一度の荒れ学年とまで言われている。
3年生が2年生にも1年生にも格下げ扱いされたら。
すべてを失い卒業なんてまっぴらだ。
と思っていた。
よって
まずは結城理玖を血祭りにあげる。
「ねえ君さ1人で来たんだ。それでわかるよね?いまの状況。はい、わかったらその汚いタワシはここに置いたまま回れ右してお家に帰ってママの垂れたおっぱいでも吸いなさい」
周りが笑う。
「いえ、結城君も連れていきます」
「絶対にそれは駄目だよと再度僕が言ったら?」
「僕はここから退きません」
背の高い男はやれやれと周りの仲間に視線を送っていった。
「おまえもリンチくらうことになるぞ?ほら、そのタワシみたいに俺たちの唾にまみれて臭くなるぞ、嫌だよな?そんなのは」
「結城君を必ずいま連れてきます」
悠理の即答に男は鼻をすすり周りを見渡した。
「友達だっけ。君のその足元に転がってる汚物は」
「はい、友達です。必ず連れていきます」
生意気だな、こいつも。
「おまえさ、ほんとアホだよね?無理だろこの状況は。いま目の前で対面してる人数をもう一度よく見てみろよ。もう一回だけ言うからな、俺たちはいまそこに寝そべってるクソガキをやれればそれでいいそれで満足なんだ。いいな?友達を救いたい気持ちだけは汲み取ってやる。いますぐ回れ右して南門まで走れ」
「もう十分ではないですか。結城君は必ず僕が」
悠理が話す途中で背の高い男が拳を振り上げた。
「もう時間切れだ!」
振りかざす拳は怒りを帯びていた。これは決して脅しではないのが理玖の目にはっきり見えた。
「秋月!逃げろ!俺のことはいいから」
理玖の声はただ虚空に響いただけだった
暴力に支配され興奮状態のままの男は口元を歪め瞳を怒らせ拳を振り上げ悠理に向かっていく。
ダメだ…あいつは…秋月はもう逃げることもできない。
背中を見せて走りだすまえに必ず捕まる。
俺なんかを助けに来るから…
なんで来たんだよ。
なんで…
なんで…俺は南門からここに連れてこられるときに逃げなかったんだよ…
いま理玖がどれだけ悔やもうと時は止まってはくれない。
太陽が西に沈む。
背の高い男は振り上げる拳の力を増大させるために前屈みになり悠理に突進する。
有無を言わせないままに魔物が時を侵食していく。
理玖はその後に広がる光景を予測し絶望した。
秋月…おまえがここに来んな。ふさわしくねえんだよ。おまえは教室で窓から外を見てればいいんだ。
膝がいうことを聞いてくれず立ち上がることすら拒否する身体。いま心とは裏腹に観念的な思考が全身から放たれる。
俺は…
いままでなにに縋って生きてきたんだ。
恋愛?友情?
強さ?
母への執着心?
「おまえら秋月を傷つけるんじゃねえ!」
理玖は叫んでいた。
―なぜいま教室の風景が浮かぶ?―
いつもの光景じゃないか。たわいない時間が流れていく。日々変化のない生徒たちの表情や行動やまたは言動。
全てが幼稚で脆弱じゃないか。
この場所すべてが俺を弾く。それで良い。俺は貴様らとは違うのだから。
天井を見上げる鋭い猛禽の瞳のまぶたはゆっくりと閉じられる。
「違うよ」
ふと声が聞こえて理玖の瞳は意識をする。心に宿る目で捉えようとする。
違うだと?
「違う。君はこの教室に、ここにいるみんなに溶けこむのが怖いんだ。もっと力を抜きなよ。素直になりなよ。きっともっともっと楽しくなる」
理玖は声が聞こえた教室の窓際に視線を送る。
そこには必ず彼がいた。
授業中の理玖は時折、突拍子もない考えがあるように彼を注視した。夜半の森の木立ちの隙間に気配を感じたように半ば強制的に目はそこに向かった。あたたかい陽だまりの休息場所のように優しく照らし出す窓際の1番後ろの席。
微風に揺れる長い前髪、涼しげな目許。彼の視線はよく校庭に向けられていた。理玖は陽射しと同化する悠理の横顔を数えきれないほどに見てきた。
―俺が素直になる?―
俺は窓際のおまえに魅入っていたんだ。
「秋月、頼むから…ここから逃げてくれ!」
理玖がもう一度叫んだときに一瞬だけ時間が止まった錯覚に陥った。
突進する男を間近にして悠理の雰囲気が変化した。瞬時によって悠理から生まれたのは。
戦うという決意だった。