一年生 六月
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季節は確実に変わっていった。春から初夏にそしていまは梅雨の時期になっていた。窓の外では無条件のままに雨が降り続いている。空から無数に落ちる滴は地上の雑音を柔らかく吸収して浄化させるように無垢だった。
岩漿の地熱が伝わる地底の温もりを肌で感じられるほどに繊細な彼は窓から顔を突き出し灰色の空を見上げていた。雫が一つ白い頬を濡らした。
今日で三日続けての雨になる。
二つの校舎に挟まれた中庭は薄暗さに包まれるなか紫陽花が雄壮と咲き誇っていた。視線を止まらせる妖艶なまでの青色だった。
短髪を明るい茶色に染め上げた男は目付きを鋭くさせてゆっくりと顔を横に向けて中庭を挟んで向かい側にある校舎のほうへ視線を移した。
すぐに廊下をぞろぞろと歩く上級生の一団が彼の瞳に映り込む。
「烏合が…」
彼は呟いた。
北側の校舎には2年生と3年生の教室がある。4階建ての灰色の壁が遮断物となりこちら側に迫り込んでいた。
ここは見るものすべてが殺風景以外なにものでもない。
せめて唯一というならば中庭に咲き誇る紫陽花の青だけ。
南校舎の2階。1年A組の教室から一番近いトイレに彼はいた。
窓を開けて煙草の先を赤く光らす。雨粒が煙草の真ん中辺りを濡らす。
「確か…」
紫陽花の花の色は土壌の酸性度によって違ってくる、酸性が強いならば青
アルカリ性が強いならば薄紅色
彼はそう遠くはない過去の図鑑好きな根暗だった自分を思い返す。
母親の久美子が帰ってくるのを待ち侘びながら図鑑を見るのが好きだった。
生き物、植物、宇宙。
死体を埋めたら土壌は酸性になり薄紅色やピンクに咲く紫陽花は次は青に変わる…
彼は口元を歪めながら窓にもたれ掛かり外に向けて煙りを吐き出した。
雨の中を白い煙りは僅かな風の助けを借りて向かいの校舎へと流れてそして消えていく。
「向かい側を見てみろ、粕が蠢く。この梅雨に」
また呟くようにいうと近くにいた男二人が彼に顔を向けた。
「リク。どうした?カスがうごめくってなんのこと?」
「なんでもねえよ」
結城理玖は舌打ち混じりに外のなにかを睨みつけた。
トイレに居座り三人で吸う煙草の灯火がなにかの暗号のように点滅を繰り返していた。
理玖は吸い込んだ煙を肺のなかに溜め込みながら灰色の雲から落ちてくる雨を見続けていた。
静かに降り続く雨は一種の催眠術かと理玖は思った。心が萎える感触がある。
まず過去を思い出すのは好きじゃない。
千覚寺小に慣れるまではあまりにきつかったし、それに母の久美子と最近はあまり口も聞かなくなった。
―クミは男ばかり求めすぎなんだ―
あのままじゃクミは自滅してしまう。
理玖にはそんな不安もあった。
はぁ…この世の何もかもがうぜえし、めんどくせえ
理玖は火のついたままの煙草を中庭の紫陽花に向けて投げ捨てた。
吸い殻は花壇へと吸い込まれていった。
過去の自分は花壇にうずくまる。
なにもかもが烏合だ。
俺は俺を萎えさせたりはしない。
這い上がるこれからも。
「なあ、リクは最近は真奈美ちゃんとはどうなったの?付き合ってるんでしょ?もうリクのことだから、あれとかもしちゃったとか」
理玖は真奈美の顔を思い浮かべた。中学生になってすぐに告白されて付き合いだした同学年の女子生徒だった。
「あれ?キスのことか。するわけねえだろ、うるせえよおまえは」
「いやいやいや、キスではなくて、まあキスもそうだけど、もっとすごいこと」
「気持ちわりい顔して俺を見んな。するわけねえだろ」
理玖がキッと睨むと男二人はたちまちに怖気ついた。
「ごめん。でもいいな。真奈美と付き合えるなんて」
理玖の隣りにいる二人はそれからニタニタと笑いながら女についてのことを話し
だした。
理玖はそんな会話が聞こえてくることすらも馬鹿馬鹿しくなり眼下にある紫陽花を見続けた。
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「我がA組に良き女の子っていますか?」
「君。それはね誠に難しい質問だ。まあ僕の勝手な判断で言わせていただきますと、強いていうならだよ、強いていうなら中島順子と水樹椎奈かなぁ」
「まあ中島はわかる。え?椎奈?おいおい勘弁してくれ、あいつは何かときぃきぃうるせえ」
二人が話すのを無視するかのように理玖は雨のなかを飛ぶ一羽の鳥を見上げていた。一心不乱に羽を動かして灰色に染まる上空を掠めていく。
なあ鳥よ。おまえも孤独なのか?
それとも孤独と戦うためにいま羽ばたいているのか?
羽ばたけよ。もっともっと、遠くまで羽ばたいていけ。
いま理玖の隣りにいる男二人は小学6年生の時に友人になった。
中学生になってものし上がろうとする理玖を讃え従う仲間だった。
だが、いまその理玖の強い意思は鈍足となっていた。原因はやはりあのクラスメイトの男、須和新汰の存在だった。
この2ヶ月は理玖にとって誤算続きだった。新汰と同じクラスになったことで予想外な転車台に乗せられた気分だった。
ここにいる理玖の友人は新汰の悪口を言うことはなくなっていた。自分らにはないものが新汰にあると認めざるを得なかった。だが理玖はいまも新汰を酷く敵視していた、簡単に認めてしまったら自分が抱く刃に錆が侵蝕すると思ったからだ。
「じゃあ話しをまとめると我がA組は中島順子ちゃんが1番ってことでいいな?ちなみにお隣りのB組はまったく可愛い子いないよな」
「同感。B組はあまりにひどい。あーやっぱ俺も中島かなぁ、中島は千里小出身だろ?あの可愛さと清純さは千覚寺の女子には悪いけどいなくね?中島の良さは千里小から引き継がれてきた伝統なんだろうな。かたや我が小学校出身の水樹椎奈は可愛い顔はしてるけど何せ気が強すぎなんだよな、なんか最近はあいつ勘違いしてんだよ。学級委員がなんだってんだ」
「でも君。椎奈とキスするかってなったらどうします?」
「はい!もちろんします!」
楽しそうに話す二人と対照的に窓の外の雨雲に覆われる灰色の世界に足を踏み入れたままの理玖は彼だけが見てるなにかに鋭利な視線をぶつけていた。