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一年生 五月

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5月になった。


中学生になって一カ月余りが過ぎ季節は春から初夏に変わりはじめていた。

南校舎2階の1年A組の最も黒板から離れた窓際の席に座る秋月悠理は授業中にも関わらずいつものように頬杖をつきながら校庭を見下ろしていた。

彼が瞬きをするたびに長い睫毛はふわふわとそよぎ、空に溢れた真っ白な雲のように混じり気ない眼差しは柔らかい陽射しを優しく受け止めていた。


一昨日から降り続いた雨もいまは止んで晴れ間が広がりはじめていた。澄み渡る空気は鈴鹿山脈の連なりを西の空にはっきりと現し始め、蒼い空のはるか先では飛行機がゆっくり動いているのが見えた。

初夏の午後の柔らかい光が悠理の横顔を照らし時折吹く風が彼の長い睫毛をなびかせる、悠理は目を細めたまま潤いを放つ景色を受け止め続けた。


一人の少女が広い校庭にいた。白いスカートを着て赤い長靴を履いていた。幼い七海葉月が水溜りに足を踏み入れておどけた表情をする。2階の悠理に向けて大きく振られる白く透き通るような手のひらは。



悠理は瞳をそっと優しく閉じた。


どうしていま昔の葉月が克明に思い浮かんだのだろう。赤い長靴を履いて水溜りに入って遊ぶ葉月はもうずっと前の光景なのに。

葉月が手を繋ぐ先には妹の四葉がいて、姉妹で笑いながら一緒に遊ぶほどに昔の思い出なのに。


悠理は日々成長を繰り返す掌を空にかざす。



―もう僕も中学生だ―



悠理は昔の葉月の残像を胸に抱き再び校庭を見下ろした。



僕は気づけば葉月を探している。

葉月はいつも必ず僕を支配する。

僕はいまもこうして彼女を探している。


  


初夏の風に乗る葉月の面影が悠理を導いていく。悠理は陽光の優しさと澄み渡る青空を全身に内包していけるのはきっと彼女の存在がすぐ手に届く距離にある幸せからだと知る。


若葉が芽生えていき雨が降り森が踊りだすように悠理もまた葉月への想いを投影してそして悲しみを帯びるほどの深い幸福に包まれるのだ。



葉月を想うとき、ある過去の日も同調する。


ちょうどこの時から1年前の六年生の5月。

土曜日の空手の稽古が終わって駐車場前にある広場で指導員の渡辺が「ほら」と自販機から出した缶コーヒーを悠理に向かって山なりに投げた。悠理は両手で受け止める。




「いつものコーヒーでいいよな?俺はね、弱いおまえのことも嫌いではないよ。いいじゃないか負けず嫌いな弱虫だって、泣きたかったら泣けばいい。それに久しぶりに俺に見せた泣き顔じゃないかなんだか嬉しいぞ。俺は映画の南極物語を観れば必ず泣ける自信がある、3回観て3回泣いたよ。悠理は小学生でコーヒー好きなマセガキで泣き虫。その幅の開き具合がいいじゃないか」



悠理は稽古で中学生との組手で打ち負かされていまも涙を流していた。とにかく悔しかった。


「とにかくコーヒー飲め」


悠理。もっと強くなりたいか?自分に自信をもちたいか?


「はい…僕は強くなりたい…」



「強くなりたいか。じゃあ、空手は続けろ。空手は必ずおまえにとって多少は大切なものになる」



「空手続けたいです…」



「だけどな指導員である俺がいうのもダメなんだけど空手なんて上辺だけの自信だよ、たとえば喧嘩に強くなるなんてほんと人生においてほんの些細な小さな小さなあるきっかけにしかならないことなんだ。野蛮な奴から愛する人を守るくらいだよできることは。とにかく中学生になったら勉学をとことん頑張れ。まさに正規なるものはもっと自信に繋がるからな。ま、俺は勉学はまったくダメだったけどな、あれ?説得力まったくないな。ま、そういうことだ。なんかわかった?」



「はい!」


渡辺は缶コーヒーをすする悠理の頭をごしごしと撫で付けた。



あれから一年。


悠理のなかで自己なるものが定まってきたのがわかる。空手は渡辺指導員がいうように上辺だけの自信かもしれない。だが例えそうだとしても足元を照らし出す

輝くなにかには変わりないと思った。


空手は愛する人を守れる。


悠理はあのときに渡辺が言ったその言葉に心を打たれた。空手で得ていく自信によって葉月を想う気持ちが増幅されていく。


なにがあっても僕が葉月を必ず守る。僕が永遠に彼女を守る。


悠理は今一度、渡辺がいった言葉を反芻しようとしたがいまが授業中なのを思い出した。


いけね。


また葉月のこと考えてた。



悠理は教室に目を移すと表情を幾分固くした。


不得意な数学と英語の授業。

放課後には陸上部の練習。


担任の男性教師は生徒に対しての興味を遺失して1年生の生活指導担当教師は瀬戸際の生命線のように威圧的態度を生徒たちに誇示した。


そしてこの1年A組のクラスメイト。

悠理は中学校生活に少しずつ適応していった。


チャイムが鳴って授業が終わっても悠理は窓の外をぼんやりと見ていた。


すると突然に後方から名前を呼ばれる。


「悠理!」


名前を呼ぶ声は悠理にはあまりに聞き慣れたものだった。

新汰がこちらに近づいて来るのが悠理は見なくてもわかった。


新汰は悠理の席の間近まで来ると机の上に大きな尻を乗せて悠理と同じく窓から広がる外の景色に顔を向けた。



「よく降った雨も止んで青空が見えてきて気持ちいいな」


「そうだね、5月の雨上がりはまた」


悠理は眩しそうにして上空を見上げた。



―青空が透き通ってるよ―



「ああ。そうだな。なんか最高だぜ」



新汰は机に腰かけたまま背筋を伸ばして大きなあくびをする。


「悠理さ、きちんと授業聞いてたか?またここでほら、そうやって空ばっか見てたんだろ」



「え?なんでわかったの?」



新汰はにこっと笑って

一言いった。


「俺と悠理だからな」




二人は微笑みながら窓の外を見続けた。

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