チョコレートはとても好きだがなにか?
理玖はチョコレートを舐めながらある男のことを思い浮かべていた。
佐野勝也。
十年に一度あるかないかと言われるほどの荒れ学年の二年生の面子達。その大勢の不良共を統率し頂点に君臨する男の名前が佐野だった。
方や一年生の不良たちのトップへとのし上がっていくであろう須和新汰。
理玖が思うに二人は似ても似つかないやり方と人格で不良達を束ねていると言えた。
方や恐怖で片や敬愛だ。
「ところで」
理玖は廊下の白い壁にもたれ掛かりピンク色のスリッパを擦り鳴らした。
茶色い短髪の頭が小さく揺れて微風でバニラの香りが漂った。理玖は通り過ぎていく実直なる行動の影たちを白眼で追っていく。舌の上を転がるチョコレートはゆっくりと口の中へと溶けだして左右に流れる人の動きもそれに合わせるように残滓となり次第にゆっくりと溶けては消えていった。そしてチョコレートの甘さが口腔から完全に消滅したときに、理玖はもう一度先ほど口にした言葉を復唱した。
「ところで」
理玖は新汰に感謝していることがあった。入学してから三ヶ月半の間、このクラスは虐めというものが全く存在しなかったということだ。一年A組の男女すべてが須和新汰の能力の片鱗とも言える超人的な雰囲気に見事に呑まれているのがわかるのだ。もし誰かが個人への攻撃意欲に芽吹いたりすればすぐに新汰によって刈り取られてしまうことだろう。
一人の絶対的な存在による平穏がここにあるのは間違いなかった。四十人の生徒を見つめる新汰の観察力と正義感はいったいどこから来るのか。理玖が思うに須和新汰は生粋の平和を好んでいるそして偽りない強さも兼ね備えているのだ。それはもうすでに中学生の域を有に逸脱していると言えるのではないか。
もしこのクラスで虐めが行われているならばと想定しよう、それはもう陰湿なる爪弾きと暴力だと。理玖の目の前でその無慈悲な行為が執行されているならば理玖は猛禽の鋭い瞳で椅子を蹴り倒して立ち上がるのだろう、理玖はきっと誰よりも虐めを憎んでいるのだから。
だが理玖は自分自身の能力を誰よりも自分が理解しているつもりだった。自らによって虐めを未然に防ぐのは無理だとわかっていた、新汰のように人を惹きつけ存在感を示す魅力は自分には備わっていないのだと自分で分析をしていた。
だから理玖は新汰に対してその事は感謝していた。内省すれば刃こぼれが目につく刀であり何とか切先だけは研ぎ澄ましているだけの自分が今ここにいるのだ。平穏に呑まれるのも悪くない。だが今し方、椎奈から聞いた話は久しぶりに身体が震え出すのを覚えた。
二年C組か。これから佐野勝也とは嫌でも関わっていくことになっていくのか。クラスメイトの水樹椎奈の切なる悩みだそして虐めという憎語。
佐野の名前は小学生の時から噂はたくさん流れてきた。一学年上の佐野には絶対近づくなとそれは下級生の不良達においては皆が周知していることだった。避けれるなら避けるべきなのは当たり前だがそれはきっと間違いな行為なのかもしれないと理玖はいま思う。
俺は…
真の強さを知りたい。
俺は結城理玖だ。
須和新汰と秋月悠理に出会い変わってきている自分がいる。刃は持ち続けたい。
「どうしたリク。思い詰めた顔して」
気づいたときには新汰がすぐ隣にいた。
新汰も例外なく部活に行くところなのか荷物を両手にぶら下げていた。
直線に伸びる廊下では頭上にあるアルファベットの書かれたプレートが浮き彫りになり連なっていた。それぞれの教室は黒板の文字が消され窓は閉められ閑散となりつつあった。はけ口となる廊下は右か左かの単純な答えを求めているように見えた。
「俺が?思い詰める?なわけねえだろ、うるせえな」
新汰は理玖の返答に満足したかのように頷いた。
「いいなぁ。帰宅部は」
新汰は理玖の隣りに来ると同じように白い壁にもたれかかって理玖と見る先を一緒に眺めた。中庭から伸びる槐の木が小さな黄色い花を揺らしていた。その向こうでは北校舎が毅然と立ちはだかり視界を妨げていた。新汰が荷物を床に置くと音が飛び火したように廊下の先まで響いていった。二人は肩を並べた。同じ年齢とは思えない身長差があった。新汰の瞳の位置に理玖の茶色い頭があった。理玖は無言のままポケットからビニールに包まれたチョコレートを二つ取り出すと、一つを新汰の目の前に山なりに放った。
「やるよ。食えよ」
理玖が先にチョコレートを口の中に入れると新汰も顔を綻ばせながら口にチョコを運んだ。
背の高いB組の担任教師が教材を片手に通り過ぎていく。
「新汰お前さ、二年の佐野って言うくそデブのこと知ってるか?」
理玖が聞くと新汰は即答する。
「佐野?誰だそれ。強いのか」
口の中でねちゃねちゃと音を立てながら新汰は理玖の横顔を窺った。
「ふ、お前は相変わらず何の情報もなく堂々としてんな」
理玖は頬を緩ませた。
「なんだよそれ。俺だって情報ならいろいろあるんだ。例えばだなぁ明日の給食がカレーライスだとかな、あははは!」
新汰の笑い声はとにかくうるさい。
「相変わらずうるせーよ。それにもっとチョコレートを労われ、静かに舐めろ、っていうか、いい加減噛め」
理玖がまたポケットからチョコレートを取り出し新汰に向けて放り投げた。
「ありがとな。しかしこのチョコ美味いな。あ、そうだ。それより悠理と水樹は何かあったんだよな。聞いたぞ。猫が車に轢かれてどうとか何とか。悠理は昔から動物好きだからな、あいつなら間違いなく助ける」
理玖はもう遥か昔に悠理が消え去っていった廊下の先に目をやった。
「俺に聞くな。あいつに直接聞け」
「あれ?もしかして理玖は水樹のこと気になってんのか?好きなのか?」
「悪いが断じてない。しかもどうしてそこに行き着く」
新汰はまたねちゃねちゃと音を立てチョコを食べていた。
そんな新汰に理玖はいたずらっぽく笑うがそれを隠すためにそっぽを向いた。
「まぁな。あの二人はお似合いと言えばえお似合いか」
新汰の言葉に理玖はすぐに大きな違和感を抱く。
「あの二人が?秋月悠理と水樹椎奈がか?お前なにいってんだ秀才と単なる馬鹿だぞ」
「まぁ、お似合いかもしれないけど、それだけじゃやっぱりダメなんだよな」
急に新汰の声に覇気が感じられなくなった。理玖は視線を前に戻して新汰の次の言葉を待った。
「水樹には悪いが悠理と両思いになるのは学年順位で1番を取ることよりもはるかに難しいことかもしれんな」
「なんだよそれ。あいつ…いや秋月は好きな女いるのか?」
理玖の鼓動が急速に波打ち始めてる事に新汰はまず気づかないだろう。
「さぁなどうだろうね」
理玖は新汰の横顔を厳しい目線で凝視した。それは理玖が初めて見たと言っていいだろう、暗く沈むような新汰の表情があった。詮索するような理玖の鋭い目線に気づいた新汰は理玖の肩をポンポンと優しく叩いた。
「まぁ本人に聞いてみろよ。俺今からD組に寄ってから部活行くからよ。あんま遅刻すっとうるさいかな。特に二年が、まあ来年は相撲部行くけどな」
新汰はそう言い残して微笑みそしてゆっくりと廊下を歩き出していった。新汰の大きな背中がD組のプレートの下で左に曲がり消えてゆく残像。その間、理玖の鋭い洞察力は何かを指先に感じていた。人差し指と中指にある感触はいったいなんだ?それを掴むために親指を伸ばす。だがそれはヌメリとしたものだった。親指の先で何かが滑り人差し指と中指の先でも何かが滑っていく。理玖はしばらくの間自分の右手を広げて見つめ続けた。まるで風呂の排水溝の中に突っ込んだような感触だけが右手に残っていた。




