獣医師の享受を再び
「よかった…ほんとに…助かったのね」
椎奈は涙を流しながら今日起きた記憶を辿った。体育館裏への掃除班、猫が穴から外へ抜け出して秋月悠理がフェンスを叩いた音、そして二人で走った乱れる呼吸。
椎奈は溢れ出る涙を指先で拭って鼻をすすりながら、スカートのポケットからハンカチを取り出そうとするが床に落としてしまう、それを悠理はすぐに拾い上げた。
「ありがとう」と言った時に悠理の横顔が見えた。
表情の固さは取れて綻びてはいたが断じて自分みたいに感情を顕わにして泣いてはいなかった。悠理は獣医師から結果を聞いた時もいつものような冷静さが窺えた。まるでこの結果が予測できていたようにみえた。
「先生ありがとうございます。お金は後から持ってきます」
悠理がそう言うと森獣医は顎髭を触りながら笑い出した。
「金?金などいるか。この私がいまの君たちから金を取るわけがないだろ。あの猫はな優しい人間に助けられてとても嬉しかったはずだ。人間も捨てたもんじゃないなと思ったはずだ。まぁしばらくはここで入院することになるがすべての費用は気にするな。たまには私も商売抜きで動物と向き合わせてくれ」
森は腕組みをして近くにあった椅子に座ると相好を崩した。
「ただな、退院した後のことだが、もちろんそのまま元の場所に返すわけにはいかない、わかるよな?あの脚ではもうあの猫は野良で生きていくのは無理だ。だからここの看板猫になってもらおうかなと考えている」
「先生!私の家で買います!」
椎奈は涙を拭って高々と右手を上げた。
「ん?君の家で?」
「先生、私の家であの猫ちゃん飼います!」
「そうか。でもあの猫は後ろ足をこっぴどくやられたぞもう二度と歩けない。それでもいいのか?」
「はいわかってます。先生!あの猫は…あの猫ちゃんは私にいろいろものを…いろいろなものをくれたんです。もう私とあの猫ちゃんは友人なんです!」
選手宣誓のように右腕を高々と上げたまま力強く話す椎奈を見て悠理は微笑んだ。
「友人か…」
森は小さな声でつぶやいた。人と猫の友情は友人という言葉になるのだろうか。人と動物が友情を結ばせたとき、もっと良い言葉があっても良いのではないか。
森は思案するように友人かとまた呟いてから
「まぁとりあえずご両親に相談してみなさい。それから学校に戻って先生に叱られることがあったら私の動物病院の名前を必ず出しなさい。ほら電話番号も紙に書いておくから」
悠理と椎奈は深々とお辞儀をしてから外に出ようと扉を開いたときに、再び野太い声が二人を引き止めた。
振り向くと
森は頭をボリボリと書きながら照れたふうにこういった。
「今日は動物助けの吉日だ。それが俺の本職だ」
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森が腰を屈めて窓から見るのは中学生男女の後ろ姿だった、陽光を浴びながら二人は歩いて行く。そしてその先にはわずかに見える体育館の屋根。
「しかしあいつらは大人の世界に簡単に入って来やがった。いや、違うか。大人が忘れちまった大人の世界にだな」
やられたよ。
森は小さくなっていく二つの背中の向こう側を見ようとした。それは大人も子供も関係ない向こう側だ。今日、明日にこだわらない向こう側だ。
この仕事を始めたころの森は人と動物が共に生きる場所を探し求めた。求め深めながら心が共に歩んでいく姿を想像した。そして人も犬も猫もひっくるめ芽生えた愛情の声を聞きそして叶えていくやり甲斐を求めた。
我らの仕事はそれを見たいと願うものだろう。
森は今、純粋に感動していた。中学生の少年が血だらけになった猫を連れてくるなんて考えられるか?服を血で真っ赤に染めながらだぞ。その優しさと使命感は森の心を踊らせた。動物の命を助け少しでも延命させることが俺の目標であり目的だった。だが、この仕事の傍で平気で動物を殺す飼い主たちがたくさんいる。ガス室で大量に殺処分されていく動物達のことを人は苦しまずに楽に死んでいくと思ってるのか?お前らを慕って信じた愛玩動物が息絶えるその最後まで目を逸らさず見続けれるのか?命奪われる動物は一体何が悪いと言う?骨も内臓も皮膚も目もすべてなんら病に犯されていないんだぞ。どれも純粋に愛情を欲する素晴らしい命たちなのにそれが無惨に人間に裏切られ捨てられそして殺されていく。
いいか?処分場に運ばれる寸前でも人間に尻尾振ってきやがるんだ、愛情を失わないままに殺されていくんだ。
最近はやれ流行だ、やれファッションだやれ一目見て可愛いからとアクセサリー感覚や一時の感情で飼い、ああ無理だこんなに大きくなった、吠えて近所迷惑だとなり飼えない、じゃあ捨てようとなり保健所に連れてこられる。
もう、うんざりだ。
そんな動物と人間の関係に森は辟易としていた。この仕事の真意を見失い嫌気が差し金儲けだけを考えるようになっていた。
今日の出来事は。
森自身が救われた。
追いかける向こう側を再び発見した気持ちだった。忘れかけていたものを思い出させてくれた。獣医師としての享受というやつだ。
「さて、今日からまた心機一転だ。動物達を助けていこうじゃないか」
森は鼻歌を歌いながら先ほど処置をした麻酔が効いて眠る猫を見に行く
「しかしお前幸せそうに眠ってるな」
麻酔が効くまでの野良猫の瞳は優しい眼差しだった。人を信じてみたいと願い、激しい痛の中でさえも幸福感が見えた。いや…そんな気がしたのだ。森は鼻を掻く。猫の気持ちはまぁそんな気がしただけ。
でもな、
「お前ほんと良い寝顔してんな」
悠理と椎奈は中学校に向けて歩いて行く。
「そうだ!ちょっと待って。ここから私の家が近いの。お兄ちゃんのシャツがあるから持ってくる」
「いいよ。学校に体操服あるし」
「いいからちょっとだけ待っててくれる?すぐそこなの」
椎奈は踵を返して走っていく。
「ただいま!」
「え?椎奈どうしたの?」
母親がびっくりしながらリビングから顔を出した。傍には犬のレオがいた。
「ねぇねぇお兄さんのカッターシャツどこにある?」
「カッターシャツどうするの?」
「いいからお母さん早くどこにある?」
シャツを手にして走って戻ってくると悠理は別れた場所で待っていてくれた。
「これ使ってくれる?」
「いいのか?」
「いいよ」
そして横に並んで二人はまた歩きだした。
「ありがとな。付き合ってくれてありがとう」
椎奈が見ると悠理は満面の笑顔になっていた。
「うん!」
この道はいつも椎奈が登下校で使う道だった。これからこの道を使うのが楽しくなる、今日の思い出がたくさん詰まった場所なのだから。
「あぁいっぱい走ったな。私1週間分は走ったよ。ほんとよかったよね助かって」
椎奈は悠理の横顔を見た。悠理からはさっきまで見せていた笑顔が消えていた。
「え…秋月君…」
彼は泣いていた。唇が震えて涙が頬を伝っていた。
「俺さ、本当はもうだめかと思ったから…すごい血が出てたし、俺もうほんとに…」
傍に広がる田園の稲穂から湿気が運ばれてくる。勢い良く飛んでいくバッタと流れる用水路の心地良い音。
二人はしばらく無言のまま泣きながら歩いた。東門と体育館が間近に迫って来ると椎奈は悠理に近づいていく。肩が触れ合うほどの距離になる二人だった。




