茶虎色の猫
状態を低くしてこちらを注視している猫の瞳には深い恐怖が宿り、痩せ細る体はいつでも動き出せる緊張をみなぎらせていた。
そんななか一人の男子生徒が竹箒をリズムよく振り回しながらゆっくりと歩き出した。
「なかなかいい毛色の猫だ、俺の家はさぁ、猫飼ってるんだよね。よしいまから手なづけてやろうか。なんせ俺には自信がある。ほら、見てみろこのポケットにはスナック菓子があるからな」
男子生徒は笑いながら、ツツジの葉が生い茂る場所へと近づいていった。
「にゃー」
猫が一声小さく泣いた。その声は体育館の壁に萎れた野花を打ち付けたように悲しげに聞こえた。あらゆる映像に音が追尾してこないようなあまりに小さなかすれ声だった。だが、その声の主は確かにここにいる、六人の耳にしっかりと届いた。
「田中。もうやめとけ。その猫は怖がってるよ」
悠理が田中と呼んだ生徒の背中に向けて言うと、田中は悠理をちらっと見て再び猫の方に顔を向けた。
「秋月大丈夫だよ。猫は猫好きな人間がわかるんだよ。そして犬は犬好きな人間がわかる。俺は大の猫好きなんだそれはもうすごく好きなんだ。だってかわいいじゃないか。ほらあの猫も見てみな、好きなのか嫌いなのかそれを特定の誰かにわかって欲しい気持ちは人も猫も同じさ。猫もきっと俺を好む、そして必ず俺たちは仲良くなる、すべてはハッピーエンド」
話の終わりのほうは誰も理解できないような話でまとめた田中はちらっと斜め後ろにいる椎奈の足元に目を送った。
いつも見惚れてしまうんだ、椎奈の白いふくらはぎがスカートと靴下の間から見えている。
田中は椎奈のことが好きだった。教室では椎奈の前の席になる田中はいつも聞き耳を立てるのだ。授業中に背後で椎奈が立てる音をなに一つ聞き漏らすことなく田中の耳は吸収するのだ。
筆箱を動かし、消しゴムを使い、ため息混じりの呼吸が流れるときに、椎奈の吐いた息がわずかな余韻を残したまま自分の首筋に当たることもあった。プリントを前から後に渡していく時なんかは、それはもう最高の喜びと緊張感が入り混じってんだ。
田中は思う。
上級生の皆さんシンナーやタバコなんかでは決して味わえない極上の興奮が愛では得られるのです。
絶えず感じる椎奈の気配。そして振り返りプリントを渡すときに、わざと手と手が触れ合うように仕向ける自分の指先。
「ありがとう」
プリントを渡すときに必ず礼を述べる彼女の優しさ。そのままちらりと椎奈の机の下を覗く。二つのきれいな脛にふくらはぎ。まるで湖で羽を休める白鳥のように見えた。制服越しに浮き上がる胸の膨らみは割と大きい。田中の想像力はフル活用される。
うつむくときにさらりと落ちる黒髪をかき揚げた時に覗く耳もとても綺麗だった。ハキハキとした性格は一緒にいたらとても楽しい。授業中に打ち込む真剣さ。もし自分がわからないところを質問すれば彼女は喜んで教えてくれる。
田中は椎奈のことがとても好きだ。これはもう好きか嫌いかという子供のレベルとは違う。まさに愛の領域なんだと田中は自負していた。
そして今の田中は椎奈の前で自分はとても猫好きなんだぜ。と強調する。
「俺はね、ほんと猫大好き。犬も好きだよ。まぁ要はさぁ俺は動物みんな大好き。かわいいよね。動物って」
優しくて動物好きな男はモテるよ。きっと椎奈に。
田中の気持ちを汲み取ったかのように、茶虎色の猫は再びか細い声で泣いた。
「にゃー」
先ほどよりは幾分力がこもった声にも聞こえた。
「ほらほら。俺への親愛の証拠だ。今この野良猫は、俺と心が通じ合い警戒心を解いていってる」
田中は椎奈に向かってニッと笑いかけた。
ここにいる田中以外の人間は猫の鳴き声を違うふうに捉えていた。まるでこう言っているように思ったのだ。
―お願いそれ以上はこっちに来ないで―
まるでそういう嘆願が込められたような声だと思った。
「もうやめとけよ怖がってる。そっとしとけよ」
悠理の言葉は普段いつも聞かないような厳しさが感じられ力がこもっていた。
田中は一瞬足を止めてたじろいたが、すぐに表情を変えた。
「大丈夫だよ。何度も言うけど、俺は猫が大好きなんだ。だからどう近づけば怖がらないかわかってるよ。いいかいこうするんだよ。とにかくゆっくりだね。背を低くしてゆっくり近づいていくんだ。そしてこれだよ」
田中はポケットに手を突っ込み、しわくちゃになったスナック菓子の袋を取り出した
「あ、田中くん、お菓子は学校に持ち込んだらだめだよ」
椎名の言葉は田中の背中をくすぐるようだった。
椎名はとても頭が良くてちょっと校則違反をするような男に絶対弱いはず、そうまさに俺。
「水樹さ、固いこと言うなよ。ほら、ほら、猫ちゃん、これ食べてみろうまいぞ」
かさかさと袋からポテトチップスを二枚取り出しながら背中を丸くしてゆっくりと歩み始めた。
「にゃー」
また猫は泣いた。しっかりとした声は危機感を抱く声だった。お願いだからそれ以上来ないでと言うような叫び声に聞こえた。
「よしよし良い子だ。食べたいかほらそっちに行くよ」
この野良猫を捕まえて抱っこしてやる。きっと椎奈は喜ぶだろう。
「おい、田中。もうやめろ」
後方から悠理が田中の肩を掴もうとしたのとほぼ同時だった。
「よし、今だ!」
田中は猫に向かって走り出した。突然人間がすごい勢いでこちらに向かってくることに驚愕した。猫は間髪を入れずに逆方向にかけ出した。素早い動きで大きく開かれたフェンスの穴を潜り抜けた。
「あ、あの穴は」
椎奈は今しがた悠理が言っていたことを思い出した。そしてすぐにこう思った。あの猫は大丈夫なの?だってすぐ先には交通量ある道路が…。
「ち、田中め、あいつ行きやがった」
悠理の投げ捨てるような言葉はここにいるみんなをドッキリとさせた。
いつもゆらゆらと地に足がついていないような感情表現が少ない男だと思っていた。見方によっては結城理玖とタイプは違えど同じくらいに接しにくい人だなというのがA組のほとんどの生徒の見解だった。
その悠理が今どう見ても明らかに怒っているのだ。
「あれあれー、あいつ逃げてまった」
干されるように手に持っていたポテトチップスをパクっと口に入れた田中の隣に来た悠理は厳しい目つきで田中を見た。
猫は我を忘れているように見えた。全身を支配する恐怖がそのまま道を横断させようとしてるように見えた。猫はこう考えていただろう。逃げたいあの人間たちから。茶虎色の痩せ細る体が歩道から車道へ向けて足を一つ送ったときに赤い乗用車が勢いよく走り抜けていった。猫の視界には大きな物体が迫り過ぎ去っていく。本能のままに危険を察知して前足を逆回転させる。通り過ぎていく巨大な物体に猫は身体を縮めながらその踏みつぶし殺戮機械を見送った。
椎奈を含めた女子3人が「きゃ」と高い声上げた。
「へーあぶねぇ、あの猫、道路渡る気かと思った」
田中が笑いながら言うと、悠理は厳しい視線を送った。
「もう離れよう、あいつはここに帰ってきたいんだ、もういいよ。掃除はもうやめてここから離れよう、な、水樹いいだろ?」
歩道のところで尻を下げて立ち止まっている猫は何度もこちらを見て、そして車道の向こう側を見た。交互に見る姿は動揺を物語っている。
田中は口元を歪ませるようにして笑った。
「いま秋月は猫のことをあいつって言った?あはは。まるで人間みたいに言うなよ。笑っちゃったよ俺。あれは所詮猫だよ。所詮は野良猫だ」
「なんだと」
田中は悠理の様変わりな声に緊張したが、これでいいと何度も自分に言い聞かせる。そもそも田中にしてみたら悠理があまり気に入らない。普段の教室で椎奈がよく悠理を見ていることがありそれがとても気に入らないのだ。椎奈の眼鏡に遮られたあのつぶらな瞳はどこか寂しげであり我を忘れたかのように見送る視線の先になぜか悠理がいる。
一体…椎奈のあのまなざしは何を意味するんだ。
違うな。
田中は指先についた菓子の油かすをズボンに擦りつけた。
椎奈は悠理をとても嫌っているはずだ。そういう言動は幾度と何か聞いてきた。椎奈が友達に悠理から離れたいから席替えをしてもらいたいと言ってる会話も聞こえてきた。だがなぜかなぜかわからないが、俺はあの椎奈の悠理を見る眼差しが気になるんだ。
これはきっとやきもちなのかな。
深い愛と言うものに必要なヤキモチ。
これは俺が椎奈を愛していると言う裏づけになるのか。
椎奈は俺のものだ。誰にも渡したくはない。
昨日はお風呂に入っていたら、いきなり母ちゃんにドアをノックされた。
「お父さん、帰ってきたわよ。そろそろ出なさいよ」
と言われた。
「もうちょっとで出るから」
と返してから一体何が出ると言うんだろうねと、再び右手で刺激を始めた。椎奈は俺の彼女になる女だ。彼女の足首と胸の先に広がる桃源郷を閉じた瞳の奥で映像化させ、そして田中は射精する。
秋月悠理なんてちょっとハンサムなだけじゃないか、俺のが数倍かっこいい。そして悠理は頭はドン底に悪い。俺は学年順位50番位いだが、あいつは論外だ。そんな奴になんで俺は今びびっちまってんだ。
「なんだようるさいなぁ。大丈夫だよ。だいたい向こう側に行くはずがないだろう。わざわざ車に轢かれに行く馬鹿な猫はそんなにいないぜ。少しは考えろよなぁ。よし皆んな!注目してくれ俺が助けてやるから」
田中は生い茂るつつじの隙間を掻き分けて、フェンス
の穴に近づき上半身を潜らせて行った。
「田中いい加減にしろ!」
悠理が声を強く張り上げたとき椎奈は瞬時に息苦しさを覚えた。悠理のよく通る声は脳漿まで響き渡るほどだった。
田中は悠理の大声にまた驚愕したが、まるで何かと戦うように表情をこわばらせたままフェンスの向こう側に躍り出た。
猫は再度迫りくる人間の恐怖に負けるかのようにすぐに次なる行動へと移行していた。
「だめそっち行かないで!」
女子が叫ぶなか、猫は背を低くして車が行き交う道路に再び足を踏み入れた。そして…ついに駆け出した。
この茶虎の猫は車の怖さこの道路の怖さを熟知していた。踏みつぶし殺戮機械が行き交うのだ。あの道路の向こうの世界はまだ見ぬ新世界だった。どうしても行きたい衝動も何度かあったが、この賢い猫は必死に我慢した。人が近づいてきたらツツジの根元に身を隠すのが身に付けた防衛手段だった。夜な夜な大勢の人間がここに来るが、猫はいつものように身体を隠し危機を回避した。たとえ人間に見つかったとしても誰も気に止める事はなかった。たまに食べ物を放り投げてくれたりもした。それなのにそれなのに、今日は悪魔がいた。そして今自分を悪魔が追いかけてくる!
猫は今アスファルトを滑っていく。あらゆるものをぺちゃんこにさせる音を間近で聞いた。生と死を簡単に連想させる音だ、この音を今、見開く目の前で聞いている。一つしかないこの命を守るためにいままで必死に我慢して必死に耐えてきたというのに小さなミスをしたわけでもないのに、あまりに狂人的に突発的に迫ってくる悪魔の恐怖は全てを崩壊させたんだ。
猫は自らによって死地へ侵入していく。
車の流れに走り込む小さな体。
「やめろ!行くな」
悠理の叫び声と同時だった。
キキキキキッッ!
車の急ブレーキの音が響き渡る、耳をつんざく金切り声のようだった。それはここにいる女子の声なのか、果たして轢かれてしまった猫の声なのか、今ここに負の音が連鎖していった。白い乗用車は、猫を轢いた場所から10メーターほど進んでから完全に止まり、何かを確認するように運転手の顔が動いたが、やがて何事もなかったのかのように走り去っていった。アスファルトには横たわる小さな物体が残っていた。
「わわわ、気持ち悪りぃ、もろにひかれた」
田中は穴を出たところで突っ立ったままだった。
「完全に踏まれたよな、あれは死んじゃったよね。即死だよ」
椎奈の隣りにいる誰かが言った。
椎奈は膝に手をついた。ひどい吐きが胃を刺激してくる。目の前で猫が轢かれるのを初めて見た。なんて光景なんだ…後続の車たちは汚物を避けるようにハンドルを切っていく。生と死と言うものはここまで流極端に位置しているというのか。
あまりにかわいそう…
なにもあの子は悪いことしてないのに
椎奈が口を押さえたときに突然何かが動き出す音と風を感じた。悠理が全力で走ってフェンスの穴をくぐり抜けて行こうとする。
「邪魔だ!」
穴を出たところにいた田中に身体を当て退かした悠理がまた言葉を放った
「まだ生きてる!」
椎奈は悠理に言われて横たわる猫を見た。
前足が僅かに動くのが見えた。そして小さく聞こえた
「にゃー」
「いま聞こえたね?聞こえたよね?」
猫が発した声。それはまるで助けて痛いよ。まだ死にたくないよ。まだ生きたいお願いだよ。助けてほしい。
確かにそう聞こえた気がした。
「死んでなんかない!生きてるんだ!」
悠理は歩道を突っ切って車道に飛び出していく。