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秋月君が見るもの私も見えるかな

理玖は振り返ることなくピンク色のスリッパを床に擦りつけながら教室を出ていった。


椎奈は自分の席に戻ろうかと思ったが先程までいた新汰もその場を離れいま悠理の周りには誰もいなくなっていたので、なんだか戻ることの抵抗感を覚えた。  


そしていつも見せる悠理の容態が椎奈の目に映りこんできた。



「………」


席に座り窓越しの外に広がる校庭を見続ける彼がいる。



椎奈は物悲しい表情で悠理の横顔を直視した。

私はあの光景をいままでに何回見てきたのだろう。と思った。



頬杖をついて柔らかい表情のまま目を細め遥か遠くを見るような視線の先にあるものはいったい何?あなたの気配が漂う場所だけが時間の経過が違うように思えるのは何故?



椎奈は眼鏡のブリッジに指を当てた。深く思案するときの癖だった。


夏の風が彼の前髪を揺らしている。


「あれ…?」



椎奈は何故かいま悠理が寂しげな表情をしているようにも見えた。優しさに包まれた柔らかい表情なのは確かなのだが、物憂いで悲観的といってもいいものも宿っているように見えた。


二つの相反するもの。

あの眼差しはいったいなにを捕捉しているのだろう。


ほんと不思議な人だ。


なんの変哲もない校庭の風景なのに。

あなたはなにを感じている?悲しみが混じる眼差しの向こうにはいったいなにがあるの?

椎奈は悠理の姿が中学一年生のあらゆる重圧が押しかかる日々の平生に対して、1人なにかしらの転換をしているようにもみえた。


まるでそれは生きる意味を自分自身に問いかけながら長く模索の旅を重ねる詩人の眼差しといえるのではないか。いったいなにを理解しようとしてる?私たちの未来は絶望があり希望があるだけでは。その先にあるもの?悲しみが絶えず先導していく場所にいったい人はなにを求めるというの?。


最後のポエムを唄いはじめた悲観をたえず携えた詩人がいる。


きっとこの世界は矛盾だらけの酷い世の中だから人は無常の悲しみを抱くしかない。

夏の風が運んでいくのは生きる喜びと虚しさ。


椎奈は悠理の哀愁を帯びた眼差しから視線を反らした。


だめ。


ふと教室を覆うざわめきが消えたような錯覚にとらわれる、あの悠理がいる場所に吸い込まれそうになる。


自分の高鳴る鼓動に付き従うように警笛が鳴り響く。


だめ。

  



秋月君、私を引きずり込むな。




椎奈は深呼吸を一つしてから気怠そうに口を開いた。



「嫌いなタイプ…ほんと大っ嫌い。あんな奴…」



二度目の深いため息は前を走る平静を必死に追いかけていくのがわかった。

隣りにいる友達は微笑んで先程したように椎奈の頭を優しく撫で付けた。

椎奈は悠理の残像を消し去るように瞳を閉じた。



「席替えしてもらうよ、先生に頼んで秋月君からはうんと離れた席にしてもらう。先生はわかってくれるよね?だってほんとあんな馬鹿は目障りだし大っ嫌いだから。同じく馬鹿な底辺の女子が隣りの席に行けばいい」


「椎奈落ち着いて。わかったから、ね?来週はA組イメージチェンジの席替えをしてもおうよ。そして秋月悠理君は椎奈の最も嫌う男子。私は理解できたから。だからもう悪口は終わりにしよ」



「うん…」



友達はやれやれと両手を広げた。


「さ、お互い部活行こうか、頑張れ吹奏楽」



水樹椎奈はこの先、高校、大学と進学していくなか中学時代の記憶は次々と排出されていった。あのとき飽きるほどに見ただろう光景など体感したものは蝋燭の炎がやがて消えていくようにおもむろに消失していった。だが悠理が見せた表情や声や香りは椎奈のなかに大切に収納された。なにひとつ逃したくないと彼女は時の流れに逆らい必死に抵抗すらした。脳裏に克明に刷り込まれていった悠理の記憶は温もりも一緒に抱きしめていったのだ。

大学を卒業して念願の獣医師となってからも中学生のときの秋月悠理の記憶を克明に浮かび上がらせた。


大学生のときにできた彼氏と初めて性行為をした。そして彼とセックスの回数を重ねていき女の悦びも知った。

だが辛く挫折しそうなときや孤独や寂しさに打ちひしがれたときに思い浮かぶのは必ず秋月悠理のことだった。



男が体内に進入して滴る汗の香りとともに強く抱かれるときも、瞳を閉じればあの窓際の席で校庭を見下ろす悠理の姿がまるで昨日のように浮かび上がった。


風に揺られるカーテンと彼の長い前髪。同じくゆらゆらと揺れ動く記憶の邂逅。


椎奈は悠理を想い涙を流す。事を終えて椎奈の涙を見た男は「痛かった?」と聞いてくる。



椎奈は枕に顔を埋めた。この涙を笑われたくなかった。決して。



過去の残像となったままの初恋に嗚咽する。


そして社会人になってもなにかの弾みであのとき悠理が見せた表情を何度も思い出した。


あの柔らかくも寂しそうな眼差しは、いったいなにを見ようとしていたのか。

きっと自分も一緒に見たかったのだ。あの眼差しの先にあるものを。


獣医師として働き出して数ヶ月が経った頃に悠理と同じ眼差しをする人に出会った。


勤務先の動物病院で老人にいましがた愛犬が亡くなったことを伝えたときだった。


老人はしばらく間を置いてから天井を見上げた。そのときに見せた眼差しに椎奈は呼吸が止まるほどの衝撃を受けた。あのときに見せた秋月悠理と同じ眼差しだった。


「先生…そうですか…あいつ逝きましたか、やっと楽になったか…」


老人は目を細めて絶望の先にある希望を見ていた。



「はい…」



椎奈は涙を溢れさせて泣いた。その雫が診療台の上にぽたぽたと落ちていく、多くの動物の命を助けまたは失った場所へと。


秋月悠理は私の全てを変え浄化させた、蔓延する暗闇から抜け出させ暁の未来を与えてくれた。


  


「部活いきますか」


椎奈は友達に手を振ってから自分の席を見ると悠理もいなくなっていた。


秋月君も部活いったのか。


椎奈は自分の席に戻り荷物を手にしてから教室を出ていく。


まだこのときの椎奈は悠理によって獣医師を目指すことになるとは知らず、心のなかで初恋と嫌悪を無理矢理に同色としていることは知っているが認めはしなかった。






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