水樹椎奈の憂鬱
@
五時間目の授業が終わると須和新汰は結城理玖の席へ行き、二人はなにか短い言葉を交わしてから秋月悠理が座る席へと向いはじめた。
二人がゆっくりとした歩調で近づいていくと悠理はいかにも寝起きな表情のまま隣りの席の水樹椎奈に話しかけているところだった。
先週、東海地方も梅雨明けとなり外を見れば陽射しがぎらぎらと校庭の隅々まで照らしていた。
悠理が座る窓際の1番後ろの席は開け放たれた窓からの風と、廊下に繋がるドアからの風が交差する場所で空気がとても澄んでるように感じられ和やかな夏を運んでくる所でもあった。そしていまも悠理の前髪や襟元を夏の風が揺らせ続けていた。
外を見下ろすと二階からの景色が広がっていた。運動場では生徒たちが体育の時間を終わらせて器具を片付けているところだった。皆が汗だくなのがここからも伺えた。
そして生徒たちが1年生というのもわかる、上級生に比べると全体的に身体が一回り小さいからだ。空は青く高く晴れ渡っており太陽は力を放出して先週までの長雨によって緩くなっていた地面は本来の固さを取り戻していた。
悠理の隣りの席に座る水樹椎奈は眼鏡をかけた背の高い女子生徒だった。
悠理は窺うように椎奈を見つめていた。
「僕が何か怒らせるようなこと言ったのなら謝るよ」
水樹は顔をあげた。陽光を浴びて眼鏡がきらりと光った。
「べつに怒ってなんかないわ。いい?秋月君。私は怒ってはない、だけどね」
「だけど?」
「あのね、私はすごく当たり前なことを言いますけど、秋月君。授業はきちんと聞こうよ」
「あ、えっと」
「先生がね、一生懸命に教えてくれてるの。それなのに秋月君は…いまのあなたのお仕事は外をぽけーっと見ることでもぷかぷか鼻からシャボン玉出して寝てる
ことでもないの。あなたのいまやるべきことは勉強することなの」
水樹はあからさまにしけた顔をする。
「え?鼻からシャボン玉?ごめん。さっきは寝ちゃってた、なんか風が気持ち良くてさ」
「はい?はい?え、風?あなたは鳥さんですか?うわぁ風があるからなんか羽ばたきいらないやびゅーんて?あのね、秋月君は昨日の数学の授業中もほとんど寝てた、三日前の英語も寝てた。寝てるか外見てるかどっちかだもんねー」
「あはは鳥って面白いな。え?僕はそんなに寝てる?ま、まあね、外は見てるの好きだけどね」
寝起き面のまま笑顔を浮かべたと思いきや恥ずかしそうにしたり、そしていまは大きな背伸びをする悠理を冷めた目で見る水樹椎奈はこいつは心底に救いようのない馬鹿だなと思った。
「……」
椎奈は、そんなんじゃすぐに授業に付いていけなくなるからね。と言おうとしたがやめておいた。それをいまこの男に伝えてもすでに手遅れだからだ。
「あのね、だからさっきの授業のノート見せてくれないかな?たぶん半分も書けてないんだ」
悠理の無秩序な発言は椎奈をカチンとさせる。
「え?よくまあそんなこと何度もしゃあしゃあと言えるわね。びっくりしちゃう。授業中にぷかぷか寝ちゃう人に見せるノートなんてありません!立ち去りなさい!」
悠理の机を教科書でバンッと叩いた椎奈の勢いに悠理はたじろいだ。
「立ち去りなさいって、ここは僕の席だし。ご、ごめん。なんか怒ってる?」
「はい。かなり怒ってます」
悠理は上擦る声で謝ったが椎奈は間髪入れずに言葉を被してくる。誰がどう見ても椎奈に一方的に叱られる悠理に見えた。そんな風は透き通っているが重たい空間に新汰と理玖が平然と割り込んでいった。
新汰は悠理の机に「よいしょ」と座ってから
「ん?水樹どうした?さっきから何怒ってんだ?」
「べつに怒ってなんかないわ」
新汰は悠理に顔を向ける。
「悠理いったいなにがあった?なにを怒らせたんだ?」
「ちょっとノートを見せてもらいたかったんだけど怒られちゃった」
ぼそっと悠理がいうと、椎奈は腰に手を当て眼鏡のブリッジを指で触れた。肩幅に開かれたスカートの先が風で小さく揺れていた。
「秋月君!いい加減にしなさい!ノート見せてと言ったら怒られちゃったって私がどんだけ嫌な人になってんのよ悪女になってるじゃないの。あなたの言葉には主語がないの。すべては授業中にぷかぷかと寝てるあなたが悪いのよわかってる?」
夏の陽射しが椎奈がかける眼鏡を再びギラつかせた。
「さっきの授業中はほとんど寝てたくせに、そんな人に」
「おい、つべこべ言わずに見せてやれ、優等生」
「え…だって」
椎奈は理玖の声に言葉を飲み込むようにして口を噤んだ。椎奈は理玖のことが小学生のときから大の苦手だった。
「見せてやれ、見せて減るもんじゃねえだろ、おまえ器ちいせえぞ」
「え…だって…秋月君が…」
「おい、俺に同じ言葉二度言わせんなよ」
凄む理玖の瞳は猛禽類のように、いやそれ以上に鋭いと椎奈は思った。
椎奈はみるみると瞳に涙を浮かべていまにも泣き出しそうになる。
「あ…いや、ごめん。やっぱノートはいいよ。次は寝ずに頑張るからさ、もしまた僕が寝てしまってるようなら頭とかをパンて叩いて起こしてね」
椎奈に向けて悠理が両手を合わせて軽く頭を下げる。
「なによ頑張るって。それにどうして私がそんなことしないといけないのよ、そんなの当たり前…」
「椎奈。いいからノート出せ、早く」
理玖に机を中指でコンコンとされる。
「椎奈、これでいうの最後だからな、優しいリクさんはここでいなくなるぞ、次は怒る。ほらノート出せ」
理玖にもう一度言われ椎奈は自分の机からノートを取り出して悠理の机に投げ付けるように渡した。
「優しいな学級委員長」
理玖が椎奈の肩書きを強調する。
椎名は理玖と目を合わせず俯いた。
「秋月君。これが最後だから、次に言われてもぜーったいに見せないから、あと起こすわけないから、先生にいうから。先生すいませーん隣りの人が鼻からシャボン玉出してまーすって」
椎奈の最後の捨て台詞に理玖が笑いだした。
「おまえさ、小学生のときから変わらねーな。相変わらずひと言多いんだよ」
「リク君も変わらないよね…もうちょっとだけさ優しくなっても…」
ぼそぼそという椎奈は
「おい。いまなんか言ったか?」
とまた凄まれる始末。
「な、なんにもです…」
また泣き出しそうになるまま椎奈は机の中のすべての教科書を鞄に入れ始めた。
まだいまは5時間目の授業が終わったところでもう一限授業があるのだが、椎奈はなにを勘違いしてるのか帰り支度を始めているようにみえた。
なんだか気まずい雰囲気だなと思った新汰が口を開いた。
「あのさぁ。水樹は吹奏楽部だよな?」
「うん。須和君は確か剣道部だよね」
椎奈は気持ちを落ち着かせるように理玖だけは見ないようにしながら自分の後ろ髪を撫でた。
「まあな。でも来年にさ相撲部できるらしいから転部予定だ。剣道は俺には向いてないかもしれんしな」
がははと笑う新汰はそのまま場を進めていく。
「水樹が演奏するその楽器は確か…あれ?名前なんだっけそれ」
机の脇にある黒いケースを指差す。
「これはクラリネット。ねぇ秋月君、もう部活始まるから返してよノート」
椎奈の言葉に悠理は、え?部活?とキョトンとした顔をするが、そのまま無言のままノートを書き写す作業に戻る。
椎奈は理玖の視線を後ろから感じてなにも言えなかった。いまの話題はなんだっけ?
「ああ、そうそう。え?須和君は楽器に興味あるの?」
「クラリネットだ。名前ど忘れ。でかい縦笛だよな」
クラリネット。
悠理の脳裏に鮮明なる七海葉月が浮かび上がる。新汰はチラッと悠理を見た。悠理は手を止めて聞き耳を立てた。
「そうねでかい縦笛でまあ間違いではないわ。え?え?まさか須和くんがクラリネットを演奏したいの?」
椎奈は想像した。
やだ。まさに熊にクラリネットだ。
場所はここしかないじゃない、サーカス団の大きなテントが視界の枠いっぱいに広がっていく。
アナウンスが流れる。
続きまして、須和産の須和の熊によるクラリネット演奏です!
椎奈は込み上げる笑いを必死に抑えた。
見てみたいかも。
「いやいや、俺には無理だな」
「そうよねまず無理よね。はい、秋月君、もう返して、時間オーバー」
「あ、水樹、もう一つ聞いていいか?」
新汰がまた椎奈に質問をする。
「クラリネットを演奏する上級生とも親しいのか?」
悠理は新汰を見上げた。