理玖おかえりなさい
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3時間目の国語の授業中に教師がチョークを片手で弄びながら言った。言葉尻に付け足すような投げやりで気にも止めないような一言だった。
「さっきニュースで流れてたが東海地方も梅雨明けしたらしいぞ」
言い終えて生徒たちの反応を見ることなく教師は教科書に目を落とした。
―梅雨が明けたか―
教室の中央の1番後ろの席に座る結城理玖は教師の一言を何故か色濃いままに耳元でくすぶらせ続けていた。
ピンクのスリッパが床を擦ってキュッと鳴りバニラの甘い香りが空気に柔らかく吸い込まれていく。
そうか夏が来るのか。と理玖は思った。
梅雨の紫陽花は夏の向日葵へと変わっていき、幻想的な蛍火は賑やかな蝉時雨へと変わる。
理玖はなにか納得したように小さく頷いた。目まぐるしく移り変わる風情の真意はきっといまどこまでも広がる空が教えてくれるのだろうと思った。教師の言葉を残像のままにして無性に空を見上げたくなった。求める夏の空がすぐそこにあるのだから。
理玖の鋭い目線の片隅に眩い光が居続けている。
重厚な白い雲と焼けつく陽射しが予想される。
だが。
その方向へ顔を向けたとき理玖の視線は見てはいけないものへと導かれていく。くそ!俺はあいつを見ないとあらゆるものに誓ったはずなのに!
まるで強制的に国家レベル並の強い力が働くように理玖の誓いは簡単に呑まれていった。
理玖がいるこの場所から捉えられる窓の向こうに広がる果てしない大空は、いつも理性と感情が制御と解放を繰り返しまさに相乗していく感じだった。
夏の陽光が窓際にいる悠理と混在しやがる。
理玖は慌てて目を逸らす。
俺は?いったいなにを恥ずかしがってんだよ。
解き放たれた窓からは南風がカーテンを揺らしている。その窓にもたれかかるようにして外を見続ける悠理の横顔。
気温は上がっていく。
南門で理玖と三年生が喧嘩した日から二週間が経っていた。
怪我も回復してきて昨日から登校した理玖は朝の教室で悠理の背中越しに早速話しかけた。
「おい、おまえなんかやってんのか?」
「え?」
振り向いた悠理は理玖を見て嬉しそうにクシュっとした笑顔になるので思わず理玖は視線を逸らした。
「あん時見せたあれだ、おまえのあの蹴りだよ。あれはいったいなんだ?」
「蹴り?空手だよ」
悠理はそう言うと理玖の痣だらけの顔を見つめた。
「な、なんだよ。おまえなにジロジロ見てんだ。俺に喧嘩売ってんのか?いつでもやってやるぜ」
理玖が睨んで凄むと悠理はクスッと表情を崩して微笑みを返す。
「リク。傷ひどくなくてよかった。おかえり」
「ちっ!」
理玖はなんとか舌打ちだけを返した。
そして後から、うるせえよ。と心のなかで付け加えた。
くそ!自分の身体のどこかに熱を帯ているのがわかる。
な、なんだよこれは!
この日の下校時間の正門付近で理玖は付き合っていた真奈美に別れを告げた。
告げるといってもなにを言えばいいかわからなかった。
何度か一緒に手を繋いで下校をした。
キスはまだしていなかった。理玖は真奈美のうなじの香りを嗅ぐのが好きで、よく後ろから抱きしめて真奈美の髪を掻き分けてうなじ部分に顔を埋めては全身の血流が滾るのを覚えた。
きっとお互いに、男女のその先にある行為を模索していたはずだった。だが二人の抱いた恋の行末は呆気なくいま終わろうとしていた。
理玖が真奈美に伝えた言葉は一言だけだった。
「別れよう」
ぶっきらぼうな言葉は真奈美の思考を少しの間停止させた。
「え?え?リク…どういうこと?」
「おい二度言わせんなよ」
真奈美は理玖の突然な裏切りに反逆するかのように溢れんばかりの涙を流しはじめた。
「リク…他に好きな人できたんだよね?正直に言ってよ、言ってくれたほうが私も…」
「おまえには関係ねえよ」
「関係ないって…そんな…」
「好きじゃなくなったから別れる。俺はなにか間違えてるか?」
真奈美は泣きじゃくりながら理玖の胸を2回叩いた。
「そんなの最低だよ!」
正門から走り去っていく真奈美の背中を理玖は鋭い視線のままに見送った。