愛梨沙と七海昇吾
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愛梨沙は駅に着いたときにまだ雨が止んでいないことを知りおもむろに顔をしかめた。
今年の梅雨はよく雨が降る。
改札口を出て手にしていた傘をさすと、愛梨沙は小雨のなかの夜道をゆっくりとした足取りで歩きだした。
せめて七海昇吾の家まで歩いていく時くらいは雨は止んでいてほしいと思った。
週に何度もこの道を通ってるわけじゃないのに。と。愛梨沙は昇吾から今日は家に来てもいいよと連絡があれば素直に従うだけだった。
とにかく少しでも逢いたい。
今日は先に家に帰って娘の葉月と夕食をとるから君とは一緒には行けないけどどうする?
そう連絡が来て、駅から一人で歩くのかと愛梨沙はがっかりした気分になったがやはり昇吾には会いたいと思い「行く」と伝えた。
駅から徒歩15分くらいを二人で肩を並べ手を繋いでクリーム色のマンションまでゆっくり会話しながら歩いていくことが愛梨沙にはとても幸せなことだった。
同じ職場の12歳上の七海昇吾にいつしか恋におちていた。決して目を惹くような外見でもないし背も高くはない。ただとても表の顔は優しい男性だった。
駅から遠ざかる度に人通りが減っていき暗い夜道が真っ直ぐ伸びていくなか右手で差した傘を持ち、左手に昇吾が好きなケーキの入った袋を持っていた。地面に雨混じりのヒールの音を響かせながら愛梨沙は恋人といえるだろう昇吾のことを考えていた。
あの家にいけば愛想のまったくない娘の葉月がいて、そして自分が川に突き落とした生前の女とその娘の二つの笑顔の写真があり小さな仏壇にはまた二つ位牌があった。
行けば必ず形だけの合掌はしているが、実際は殺されているのに、母親の不注意による事故で娘も亡くなったと済まされた側からすればいったいどんな気持ちなのだろうと愛梨沙は毎回思うのだ。橋から突き落とすときに、はっきりと女と目が合った。もしいま私をあの世からこの光景を俯瞰しているならそれはもう憎くて殺したくて仕方ないだろうなと思う。
愛梨沙は仏壇に手を合わせながら考える。
貴女が死ぬまえから私は貴女の夫と密会を繰り返し愛を囁きあいながらたくさん抱き合ってきた。貴女もたくさんあの人に抱かれたと思うが、つまりは私の体のほうが良かったのだ。
あの世に行けば秘密裏のことも全てが明らかにされ死者に知られることになるのだろうか。
しかし貴女はなにもできない。私の頬を引っ叩くことも私のお腹にナイフを突き刺すことも残された葉月に犯人は父とその女だと訴えることも。
悲しいかな、貴女は負けた。次女もそしてお腹のなかにいたもう一つの命も、葉子さん貴女はなにも守れなかった。
敗因を述べるならきっと昇吾さんの愛情が全く無くなってしまったからだと愛梨沙は思った。
愛梨沙が仏壇に座り最後に必ず思うことは絶対にこの世に霊魂などは存在しないということだった。
いま私が目の前であなたに手を合わせている。きっと、それは憎くてしかたないはずだ。
二つの命を自分の手で消し去ったことの罪は最初からなかったわけがない、とくに幼い娘まで殺すことはなかった。あの女だけ死ねばよかった。4年の月日が流れ女を突き落とした感触は忘れつつあるが少女の身体に触れた感触はいまも色濃く残っている。
誰かに目撃されてすぐに捕まっても後悔はなかっただろう。愛する人が苦しむ元凶を抹殺した達成感が罪の感触以上にあった。ただ、正直に言えば昇吾の家に行くようになって、残された娘の葉月の憔悴しきった姿を何度も見たときに犯した罪の深さを感じずにはいられなかった。
そして得たはずだった達成感はその後、昇吾と親密さを増す度に簡単に揺らいでいった。
結局あの人は嘘ばかりだった。
決意の下に人を殺めた後になって愛梨沙は昇吾がいままで言ってきたことが偽りだらけだったことに気付かされた。
「妻と離婚したいが別れてくれないんだ。俺と別れるくらいなら娘二人を殺して自分も死ぬって言うんだ。おれはもうんざりなんだよ。君と一緒になりたいのに、あいつは脅迫ばかりでもう話しにならない」
そしてある日、昇吾は岐阜県の妻の在所の場所を愛梨沙に教えた。何日から行くみたいなんだ。いっそもう二度と帰ってこなければいいのに、なら君と一緒になれるのにと彼は泣きながら言った。
そして…
私は…その場に行った。
橋から二人を突き落としたとき私の心のなかには彼のことしか頭にない鬼となっていた。
そのあと数日が流れ事故として処理されてから
愛梨沙は彼に訊いた。
「娘が一緒にいるの知ってたの?」
彼は、昇吾はまずこう言った。
「いいよあの子はべつに」
愛梨沙が無言のままでいると、昇吾は愛梨沙を強く抱きしめてキスをしてからいった。
「これだけは約束してほしい。葉月はやったらダメだからね。もし彼女に対して君が悪いことしたら俺は君を絶対に許さないよわかった?」
私はそのとき昇吾に宿る深い怒りからの恐怖を感じそして葉月への異常ともいえる愛情を知らされた。
昇吾が妻と娘を私に殺させた真意はなんだったのだろう。そして葉月にはなぜその刃は向かないのだろう。愛梨沙のなかで疑問は膨らむ一方だった。
ホテルで酒を飲みながら数回性行為を繰り返したあとに眠たげな昇吾に疑問に思ってることをどことなく訊いた。
酷く酔って自分を抱いた後の昇吾はいつもベッドの上で眠たげで朦朧として思考することすらも放棄したようになるのを知っていた。
「理由?ああ…理由ね…あいつはさ、二人目ができたときにまた産むと言って。ほら、うちの会社は安月給だろ?そんなの無理だ、住居も狭い賃貸マンションだし。俺が渋るなか結局頑なに産みやがった。俺は二人目が可愛いと思ったことは一度もない、ただ金を食う煩わしいだけの存在だった。そして三人目も孕んでまた産みたいと泣いて頼んできやがった。1人でいいんだよ子供なんてのは。可愛い葉月だけで十分だろ。あいつは俺の意見を聞き入れなかった」
もし私が妊娠したらこの人はどうするのだろう?
暗に妊娠したら中絶しろと昇吾は言っているのだろう。
どうしてこんな悪魔のような人に私は恋をしたのだろうと愛梨沙は思う。
駅からクリーム色のマンションまでは途中から車がすれ違うのに苦労するくらいの道幅になる。車が通りすぎる度にタイヤから巻き上げられる飛沫にも注意しないといけない。
前方から二つの人影が近づいてくるので
愛梨沙は少し右に寄った、傘が当たるのを嫌い道路の右端まで避けた。
すれ違いざまに目が合う。
1人はパーカーのフードを深く被った背の高い男でその隣りには傘をさして歩く中学生くらいの酷く太った女がいた。
無言のまますれ違っていく。
愛梨沙は歩きながらまた昇吾のことを考える。
今年で自分は28歳になる。もう十分結婚を考える年齢だろう。将吾は40歳になるのか。
12歳の年齢差なのに昇吾は彼氏という名以上に父のような存在でありまた兄のようでもあった。恵まれてはいない家庭環境で育った愛梨沙が甘えれる男性というのはどんなものより甘美に思えた。そして普段は決して誰にも見せない昇吾の弱さや甘えを自分だけに出してきてくれる、それが嬉しくてたまらないのだ。
あと気になるのは娘の葉月のことだった。
昇吾は父として親として娘の葉月をどう見ているのかよくわからないところがある。
いまから一年以上前のことだから、葉月が小学六年生のときだった。
喫茶店に二人でいるときに昇吾はテーブルのコーヒーカップを端に追いやると便箋とペンを鞄から取り出して上に置いた。
「これに書いてほしいことがあるんだ」
「書いてほしいこと?」
昇吾はペンを愛梨沙に渡して「そう、俺の字は汚いからね、葉月はすでになかなか綺麗な字を書くから」
葉月?
愛梨沙はこのときには昇吾の言う意味がまったくわからなかった。
「先日の事だけど葉月は修学旅行で京都に行ってきたんだ。そこで男子生徒に告白をされたらしい。いや、された。葉月は俺になんでも相談してくれるからね。葉月にとって俺は父であり母でもあり兄でも親友でもあるんだよ」
満足気に話していた昇吾の表情が一変する。
「告白されたときに葉月はまったくそいつのことは好きではないと言ったのにいまも毎日馬鹿みたいに絡んでくるらしい、葉月と好き同志になれるわけないだろ。それになんだかそいつが葉月になにするか分からないし許せないだろ?だから手紙を書いてやろうと思って。そいつの名前をどことなく葉月に聞いて住所も調べあげた」
得意気に昇吾はいってからもう一枚の紙を並べた。
「この文面とまったく同じように書いてくれ。葉月の字はなかなか上手いからな。頼むよ」
愛梨沙は走り書きの文面を読んで驚く。
「これはあまりに…香織ちゃんて葉月ちゃんの友達?その子の悪口まで…」
「その香織って子も同類と考えていいよ。まあ詮索はいいから書いて。嫌なの?」
「わかった…書くよ。でも大丈夫かな。虐められないかな」
愛梨沙の言葉に昇吾は「イジメ?」と復唱してから微笑んだ。
「大丈夫だろ」
結局あの手紙はどうなったのだろう?
本当に相手の男子生徒の家に送ったのだろうか。
葉月は知っていることなのだろうか。
クリーム色のマンションが見えてきたころにまた前方に黒い人影が現れたので愛梨沙は先程と同じように右に寄ってやり過ごそうとした。すると人影も同じようにこちらに寄って歩いてくるではないか。
え?なに?
ぶつかりそうになるので寸前のところで左に避けたときに話しかけられる形になった。
「わしは見た」
しわがれた声ではっきりとそう言われたので驚いて足を止めた。
顔を向けると雨具を着た年配の男が目の前にいた。
「は?私になにか?」
愛梨沙が傘で間を遮断するようにして男の顔を見据えた。
「あんた、七海の奴とあの事故のまえにホテルに行って、セックスやっただろ」
「は?」
愛梨沙の鼓動が一斉に脈打ちはじめる。
「わしは見たぞ。あんたと七海の奴は事故のまえからそんな関係だったんだろ?あんたは七海の奴の愛人だ」
「は?あなたいったい、なにを言ってるんですか?」
「だからあんたは」
男の話しを遮るように
愛梨沙は叫んだ。
「きゃーあああっっ!痴漢よ!誰か!助けて!」
すぐ近くの家の玄関に明かりが付いた。
「お願い!誰か!助けて」
雨具を着た男は逃げるように足早にその場から立ち去っていく。
玄関を開けた女性が警察呼びますか?と
尋ねてくるなか愛梨沙は肩を上下に動かして荒い呼吸を繰り返していた。
ふと耳元で声が聞こえた気がした。
―おまえは人殺し―
愛梨沙は両耳を抑えてその場に座りこんだ。
手にしていたケーキの箱が潰れるように地面に落ちていった。