第8話
無表情にイオアンが告げた。
「お前も知ってるだろう。かの有名なソーマの銀鉱山だ」
もちろんエルは知っていた。
タタリオン領に暮らす人間なら誰でも知っている。真っ暗な鉱山から出て、再び太陽を拝むには、体が弱りきって死ぬか、鉛中毒になって正気を失うしかないらしい――。
「もし俺が……」
一縷の望みを求めるように、エルは尋ねた。
「その仕事を引き受けたら?」
「もちろん、終わりしだい解放してやる」
「ホントに? どんな仕事?」
「ごくごく簡単な仕事だ」
「簡単な仕事……」
エルがハッと顔を上げた。
「俺はスリはするけど、強盗とかしないからな!」
「そんな危険な仕事じゃない」
「じゃあ、何だよ」
「馬を診てほしい」
「馬?」
「屋敷の馬が死にそうなんだ」
「それなら……」
エルが疑わしそうに訊いた。
「屋敷に馬丁がいるだろ。それに馬医者を呼べばいいじゃないか。何か裏があるんだろ」
「とんでもない性悪馬でな」
イオアンは困ったように首を振った。
「怪我を恐れて誰も近づきたがらない。だが首なし騎士団は、野生の馬を調教し、軍馬として売ると聞いている。お前なら上手くやれるんじゃないかと期待してたんだが……」
「うん、そういうこともするよ」
エルは満更でもなさそうに答えた。
「もちろん俺にも経験はある。でもダマリやカルハースほどじゃないから、原因が分かる保証はできないよ」
「診てくれさえすればいい。結果がどうであれ、お前に迷惑はかからない。頼めるのはお前しかいない」
「まあ……そこまで言うならなあ」
「イオアン様」
腕を組んで聞いていたバルバドスが口を開いた。
「妙なことを考えてないだろうな」
イオアンは顔を背けた。「気にするな」
「ブケラは疫病神だ。忘れろ」
「……そんなことはないさ」
「伯爵様は許さないぞ」
「診てもらうだけだからな。話すつもりもない」
「見つかったらどうする。小僧は殺されるぞ」
「見つからないようにするさ」
「門からは無理だ」
「〈酔っ払いの梯子〉を使うから大丈夫さ」
「しかしだな……」
浮かない顔のバルバドスを見て、エルが不安そうに訊いた。
「大丈夫なの?」
「まったく問題ない」
イオアンは笑顔を作ってみせたが、エルは騙されなかった。
「でも、殺されるとか……」
「では、仕方がない」
イオアンが芝居がかった溜息をついた。
「せっかく驚かせようと思ってたんだがな。ルベルマグナを知ってるか?」
「ルベルマグナ?」
エルが怪訝な顔をした。
「もちろんさ、タタリオン公爵の凶暴すぎる魔の馬だろ。俺が知らないわけないじゃん!」
「乗っていたのは先代の公爵様だが……そのルベルマグナの子供が、お前に診てほしい馬だ」
「え、本当に?」
エルが目を輝かせた。
「ルベルマグナの子供に会えるの? この俺が? 嘘だろ?」
イオアンはバルバドスの方へ振り返った。
「じゃあ、頼んだぞ」
「何のことだ」
「この少年を、屋敷まで連れていけ」
「自分でやってくれよ」
「私は先に準備することがある。屋敷から出るときのことも考えないといけないからな」
「おいおい、勘弁してくれ」
バルバドスはぼやいた。
「軍の休暇でイグマスに戻ってこれば、イオアン様は擦られてるし、それを助ければ雑用を命じられる。やってられん」
「私の金はどうした」
「え?」
「金貨三枚があったはずだが」
「そうだった! あれはどこに行ったかな……?」
わざとらしくバルバドスは懐を探った。
「持っていろ」
イオアンが小声で囁いた。
「そのかわり、必ず連れてくるんだ」
「そういうことなら仕方がない。人助けと思って引き受けるか!」
バルバドスは上機嫌で頷いた。
天幕の出口でイオアンが振り返った。
「私を裏切ろうなんて考えるな。お友達のダマリは、すでに牢獄塔に連れていかれたんだからな」
顔を強張らせたエルを置いて、イオアンは立ち去った。
そばで短剣を握っているバルバドスに、エルが訊いた。
「あの人は何者なんだよ」
バルバドスは無言で縄を切ると、短剣を放り投げ、天幕から出ていった。
手首をさすりながらエルが天幕の外に出ると、もう昼を過ぎていた。まわりでは鶏たちが騒がしい。遠くにはヤヌスの大理石像が見え、エルは驚いた。まだ同じ市場にいたのか!
「もう終わったか」
天幕の前の作業台にいたオークが、血まみれの手を前掛けで拭いながら、バルバドスに声をかけた。
夏空を眩しそうに見上げていたバルバドスが振り返り、
「邪魔したな」
と肉屋に小銭を渡した。
まだぼうっとしているエルに、
「行くぞ」
と声をかけ、バルバドスは歩き出した。
「待ってくれ!」エルも慌てて後を追う。
肉屋が勢いよく鉈を振り下ろした。首を失った鶏が血しぶきを上げながら狂ったように走り回り、やがて力尽きて地面にばたりと倒れた。