第3話
帝国の三日月大陸西方にあるタタリオン公国。その首都イグマスの新市街にヤヌスの神殿が建っていた。
ヤヌスは境界を司る神である。門の形をした神殿には巨大な大理石像があり、その肩に腰かけたエルは、神殿前の市場を満足げに見下ろしていた。
商人の天幕や農夫の露店がひしめき合い、買い物客でごった返している。通りからは魚を売る行商人の娘の声が微かに聞こえ、屋台の香ばしい匂いが漂ってくる。
(へへっ、カモでいっぱいだ)
浮かれた田舎者も多いから、擦るのは楽勝だろう。
まだあどけなさの残る十五歳の少年は、デーツ――干した棗椰子の実を頬張った。ねっとりとした甘みが舌に広がると、南の海の潮風と、白い砂を焦がす陽射しが胸の奥によみがえった。
「おい、昔のことを思い出させんな」
エルはヤヌスの裏側をぴしゃりと叩いた。神殿のほうを向いた老人の顔である。表側の若者の顔は市場を向いている。
そうだ、俺の未来はあの市場にある――今日、何かが起きそうな気がするんだ。なんたって、ヤヌスは始まりの守護神だからな。だからこそ、この市場を選んだんだ。
エルは逃げるルートを確認した。
山奥の村と違って大都市だ。余所者がいても誰も気づかない。市場の周りには倒れそうな建物が密集している。迷路のような路地を抜ければ、すばしっこい俺なら捕まらないはずだ――。
どこまでも続くオレンジ色の屋根瓦の先には、高い城壁があった。あの灰色の壁の向こうに金持ち連中が住む旧市街がある。いまごろ仲間が取引をしているはず。上手くやってるかな。
チェッと、エルは舌打ちした。
(なんで俺だけ外されたんだ? べつに下見なんて必要ないのに)
エルの視線はさらに上がる。
夏空の下には、背骨山脈の青い山並みが見えた。昼過ぎにイグマスを出たら、隠れ家に着くのは夜になってしまうだろう。まだまだ俺は新入りだからな。上手いとこ見せなくちゃ。額からは汗が流れ落ち、微風がエルの黒髪を揺らす。
突然騒がしい声が聞こえ、エルは視線を下ろした。市場の通りが割れ、衛兵たちが誰かを追いかけている。
(何だ? あの子は大丈夫かな?)
エルは市場で見かけた少女を思い出し、表情を緩めた。
あんな純粋そうな子はそういない。
そうだ、俺のデーツをあげよう。きっと喜ぶぞ!
市場の屋台から盗んだものだが、もう自分のものだと思っている。思いつきに嬉しそうに頷くと、猿のように身軽に大理石像から滑り落ちた。
※ ※ ※
だが、少女には先客がいた。
エルは不機嫌になったが、仕方なく隣の骨董屋の店先から様子を窺った。
汚れた絨毯の上で胡坐をかいている物乞いの少女は、まだ十二歳ぐらいだろう。小ぶりな鼻に表情豊かに動く大きな瞳。おかっぱ頭に淡い緑色の肌をしている。
沼人と呼ばれる者たちだ。
海沿いや湿った場所にいる船上生活者だが、イグマスのような大きな町では珍しい。エルが昔知り合った姉妹によく似ていた。
その前で屈んでいるのは鬱金色のローブを着た若者だ。銀髪から長い耳が突き出しているが、イグマスでエルフを見るのは珍しくない。なぜなら、支配している公爵家がエルフの一族だからだ。
エルは唾を吐きたくなるのを堪えた。
そういう連中は大嫌いだった。略奪され、焼け落ちた故郷の村を思い出す。
少女は夢中になって若者に話しかけている。なんで、あんなに楽しそうなんだ? じっと耳を傾けているエルフの若者の背中に、エルの憎悪が向く。早くいなくなればいいのに――。
ようやく少女の話が終わった。
若者は鞄に手を入れて、硬貨を目の前の皿に置いた。皿から向日葵の花を取り上げると、少女の黒髪に差した。彼女は嬉しそうにはにかんだ。それを見て、ふたたびエルは嫌な気分になる。
若者は去った。少女は名残惜しそうに通りを見ていたが、やがて目を閉じ、祈り始めた。そろそろとエルは姿を現すと、少女の前に立った。
少し上を向いて、熱心に何かを呟いている少女の顔を見ると、エルは声をかけるのを躊躇った。路上の暮らしは厳しいだろうに、穏やかな笑みを浮かべている。
少女を見つめている自分に恥ずかしくなり、エルは目を落とした。
皿の上で何かが鈍く光っている。
金貨だった。
嘘だろ。さっきの若者か?
エルは膝をつくと、信じられない思いで金貨を手に取った。昔の皇帝の横顔が刻印されている。ということは混じり物は少ないはずだ。念のため、エルは齧ってみた。
ふと見上げると、少女が目を丸くしている。
違うんだ、これは――。
口を開けた瞬間、金貨が皿の上に落ちた。
真っ赤になったエルは立ち上がった。じっと見つめる少女。いたたまれなくなったエルは背を向けると、市場の雑踏に逃げ込んだ。