第3話
ずっと昔、故郷を捨てて辿りついた町で、少年は掏摸を覚えた。
町には、たび重なる戦争で親を失った、少年と同い年ぐらいの子供がたくさんいた。橋の下で、みんなで肩を寄せ合って雨風をしのぎ、みんなから掏摸のやり方を教わり、みんなで戦利品を分けあった。
ある日、町に年老いた奇術師がやってきた。
見物客が隠した骰子を掌から出したり、ポケットから大きな鴉を出現させたり、若い娘の考えていることを当てて、彼女の頬を赤らめさせたりした。最前列に座った少年は大いに楽しんでいたが、となりの子供が囁いてきた。
「なあ、奇術師から金を盗もうぜ」
気が乗らない少年に、仲間は顎をしゃくってみせた。
「見ろよ。よぼよぼの爺さんだ。ちょろすぎる」
老人は、町はずれの廃屋で寝泊まりしているという。
夜になった。
廃屋の二階の窓から、灯りが微かに漏れている。
腐りかけた階段を、音が軋まないよう、子供たちは注意深く昇った。足を忍ばせて廊下を進み、扉を開けて部屋に入る。
大きなテーブルの上に、子供でも持ち抱えられそうな小箱が置いてあった。開け放たれた窓からは微風が入り、テーブルの上の蝋燭の炎を揺らした。
小箱の前には、鈍く輝く銀貨が落ちている。そして、その扉は誘うようにわずかに開いている。
仲間のひとりが近づき、小箱の扉をそっと開いた。
小箱の中に、生首が置いてあった。
その生首が「うわはははは!」と哄笑した。
ばたばたという羽音とともに、黒い影が何度も、何度も子供たちに襲いかかり、その伸びきった長い髪を、鋭い爪で掴んだ。
両手を上げて、金切り声で絶叫する女の子。
男の子は「逃げろ、逃げろ、逃げろ!」と叫び、恐怖に顔を歪めながら部屋を飛び出すと、階段を降り、転がるようにして廃屋から駆けていった。
少年だけが、ひとり部屋に残り、逃げていく仲間たちを二階から見下ろしている。
「なぜ逃げない?」
生首がぎょろりと目を剥いた。
「だって鏡でしょ」と少年が醒めた声で答える。
テーブルの下から奇術師が這い出てきた。鏡をしまいながら「昼間の子じゃな」と尋ねる。少年は頷いた。奇術師が、値踏みするように少年を見下ろした。
「役人に突き出してもいいが――」
老人は少年の前で屈み、その目をじっと見つめる。
「仕事を手伝う気はあるかね?」
「昼間やってたやつ?」少年は目を輝かせた。
「それだけじゃない。むしろ雑用のほうが多いかもしれんのう」
こうして少年は、奇術師と鴉と共に、南大陸を旅をすることになった。
奇術師は、右手に大きな指輪を嵌めていた。
老人がカードを捌き、コインを弾くとき、相手の目はどうしても、その右手に吸い寄せられてしまう。そして相手が口を開けて見とれているあいだ、老人の左手は相手のポケットを弄っている――そう、奇術師は掏摸の名人だったのだ。
新たな町を訪れると、老人は道を尋ねて、人の好さそうな若者から小銭を掏り、広場で奇術を披露して信用を得ると、招かれた名士の家から上質な酒瓶をくすね、未亡人たちの悲しい物語に頷きながら、思い出の指輪をこっそりと頂戴した。
そして人々に惜しまれながら、気づかれないうちに大急ぎで町を去るのだった。
「掏摸は芸術じゃ」
というのが奇術師の口癖で、節くれだった両手を焚火にあてながら、
「強盗、追剥なんかは論外じゃよ。相手を傷つけず、相手に気づかれない掏摸こそ、最高なんじゃ」
と少年によく語ったものだった。
雑用を手伝ううち、少年の腕もめきめきと上達した。
掏摸とは、つまるところ――、
相手の注意力の操作なのだった。
少年は、老人の人づきあいの上手さを見て、世の中における「信用」の大切さも痛感したが、これはなかなか身につかず、いまだに身についていない。
心酔した少年は、奇術師を「師匠」と呼んだ。
だが、照れたのか、老人はせめて「先生」にしろと注文した。「師匠なんて、人前で呼ばれたりしたら、恥ずかしくてかなわんからな」
仕事には厳しい「先生」だったが、家族のいない少年にとって、奇術師は暖かい祖父でもあった。ふたりと一羽で南大陸を回った三年間は、少年にとって、おおむね幸福な時代だったといえる。
奇術師は貧しい者からは盗まなかった。逆に、分け与えることもしばしばだった。訪れた半島の村でも、そんなことがあった。
誰も近寄らない貧しい村で、異教の信者たちがひっそり暮らしていた。
荒々しい波が打ち寄せる海岸では、あまり魚は獲れず、難破した船の漂流物を生活の足しにしている。
天気が荒れた真冬の二週間、奇術師はその村で世話になることに決めた。
文明の光から程遠い暮らしをしている村人たちは、最初は警戒していたが、老人の奇術を目にすると目を丸くして驚き、とても喜んだ。わずかな食料を村人たちは奇術師に差し出したが、憐れに思った老人は、手持ちの金を、惜しみなく彼らに分け与えることにした。
そのあいだ少年は、村長の家の姉妹と仲良くなった。
もう、名前は忘れてしまった。
ひとりは少年より年上で、もうひとりは年下だった。
その頃には少年も、簡単な奇術ぐらいはできるようになり、姉妹には何度もせがまれた。鴉も不思議なほど姉妹に懐き、北風が吹きすさぶ村の凍った道を、肩に黒い影をのせて歩く姉妹の姿が、よく見られたものだった。
やがて、天候が回復した。
また来るからと、ほとんど守ったことのない約束をして、奇術師と少年と鴉は村を去った。
しかし一年後、状況は一変していた。
三日月大陸から、再びタタリオン軍が侵攻してきた。
南大陸北部の小領主たちは同盟を組み、エルフの公爵家に反撃した。一時は劣勢に陥った公爵家も、セウ家のアルケタが前線に登場すると息を吹き返し、同盟軍を押し返した。旗色が悪くなった小領主たちは、次々にタタリオン家に降った。
二転三転する戦況を見極めながら、奇術師はたくみに戦いを避けて旅を続けた。やがて講和が結ばれ、エルフの軍団は三日月大陸へと引き上げていった。再び奇術師と少年が半島の村を訪れると、誰もおらず、村は廃墟になっていた。
近くの村で、何が起きたのかを知った。
残党狩りの部隊が村を攻撃し、制圧したのだ。抵抗した男たちは殺され、女子供は奴隷商人に連れていかれた。村の広場には、立ち獅子に十二の星の軍旗が掲げられていたという。つまり、セウ家の紋章である。
奇術師と少年は荒廃した南大陸を去り、三日月大陸へと渡った。戦火の及ばないタタリオン家の領地は豊かだった。いくつかの町で稼ぎ、奇術師は背骨山脈へ向かった。深い森の中の小さな村で、少年は謎めいた騎士団に引き合わせられた。翌朝、目を覚ますと、奇術師と鴉はいなくなっていた。
泣き叫ぶ少年に、騎士が告げた。
「奇術師は、おまえが新しい仕事を学ぶことを望んだ。幻のような奇術ではない、もっと実のあることをな。おまえは動物好きだから我々に託したのだ」
「そんな仕事なんてしたくない!」
「それが、おまえの望みなら好きにしろ。だが、老人を追いかけるのはやめておけ。人生をかけた大仕事に取り掛かると話していた。危険な仕事だから、若いおまえを巻き込みたくないのだと――」
少年は泣いた。悲しかった。
そんな危険な仕事なら、なおさら自分を連れていって欲しかった。