第2話
イオアンは重たい扉を押し、大広間に入った。
焼きたてのパンと燻製肉の香りが混ざり、天井近くでは薄い煙が漂っている。朝の稽古を終えた騎士や兵士が、長テーブルを囲み、声を張り上げて談笑していた。
中央の通路を、イオアンは俯き加減で歩いた。伯爵家の嫡男が近づくと、一瞬、ざわめきが途切れる。なかには軽く会釈を返す者もいるが、ほとんどはすぐに手を動かし、笑い声が戻った。
大広間の奥、上段にも長テーブルが据えられ、四つの席が並ぶ。中央の豪奢な椅子には、六十を過ぎた父オウグウスが、険しい面持ちで朝食をとっていた。両脇は空席で、その隣に弟のアルケタが座っている。
「探したぜ、兄上。どこにいたんだ?」
朗らかに声をかけるアルケタに、イオアンはもごもごと曖昧に答え、父と弟の間に腰を下ろした。オウグウスは視線をわずかに寄越しただけだ。
「母上は?」と小声で訊いた。
アルケタが首を振る。「今日も具合が悪い」
使用人が皿を差し出す。イオアンはパンをちぎり、口に運んだが味がしない。どうブケラのことを切り出すべきか――思考が重く沈む。
ふと壁にかかった九枚の肖像画が目に入る。セウ家の歴代当主たち――いずれ自分も加わるはずの列だ。しかし、その資格があるのか? 胸にざらついた疑念が広がる。
「父上……」
オウグウスが顔を向け、無言のまま鋭い眼差しで促す。
「ブ、ブケラのことですが……どこかに売ってはいかがでしょうか」
「なぜだ」 視線が突き刺さる。
イオアンは早口になる。
「ずっと餌を食べません。このままでは死んでしまいます」
「なぜ、そう言い切れる」
「骨が浮いて見えるほどやせ細っています」
「お前がそう思っているだけだ。魔の馬だぞ。そう簡単には死なん」
「しかし、このままでは……」
「放っておけ。そのうち食べ始める」
イオアンは拳を握りしめた。
「……ただの駄馬にしか私には見えません。屋敷の者たちもおそらく、どこかの農場で生まれたのだろうと……」
「なんだと!」
オウグウスがテーブルを叩く音が大広間に響き渡り、兵士たちの会話が止んだ。低い声が続いた。
「私の判断が間違っていたというのか」
「い、いえ。ただブケラは……」
「あの馬は売らん。余計なことを気にせず部屋で休め。今日は公務がないのであろう」
「ですが、市場に用事が……」
「この暑さで市場か?」オウグウスの眉が顰められる。
イオアンは躊躇った。ブケラのためとは明かせない。 「情報屋です」
「……公妃様の件か」
イオアンが頷き、オウグウスの表情がわずかに緩んだ。公爵家への忠誠は、セウ家の誇りでもあった。
「まあいいだろう。公妃様もお前の働きを褒めておられたからな。書物ばかり読んでいないで、外の空気にも触れることだ」
唐突にオウグウスが立ち上がり、大広間を去った。吐息を洩らしたイオアンの横で、アルケタも椅子を引く。
「もう行くのか?」
「巡察隊に休みはないんだぜ。それに兄上、ブケラのことは諦めたほうがいい。父上は忘れたがっている」
「しかし、そういうわけには……」
アルケタも去り、騎士や兵士たちも次々と席を立っていく。使用人が静かに皿を片付ける音だけが残った。
がらんとした大広間で、イオアンは味のしないパンを噛みしめる。
(市場には、家畜商もいるはずだ――)